表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

10/15

第10章: 因果の果てで、別れに区切りを打つ


がんセンターからの電話は、日常を一瞬で切り裂いた。


手術中、父の体は通常の麻酔量では制御できず、過剰投与が行われたという。

その影響で麻酔からうまく覚めず、父は錯乱状態に陥った。


点滴や呼吸器の管を力任せに引き抜き、病室のベッドを廊下へ引きずり出す。

制止する看護師を振り払い、病棟を混乱に陥れ、ついには院内でタバコに火をつけた。


「……これ以上は対応できません。今すぐ連れて帰ってください」


受話器越しのその言葉に、目の前が揺れた。

仕事を終え、急いで病院へ向かうと、個室の前には徘徊防止用のセンサーマットが敷かれていた。そこだけ空気が張り詰めていた。


父は私の顔を見るなり、低く濁った声で泣き叫び、意味の通らない言葉を吐き続けた。

理性は完全に剥がれ落ち、何か別のものに憑かれているようだった。


もはや病院に置いておける状態ではなかった。

私は看護師長に頭を下げ、傷口の処置や注意点を教わり、退院の手続きを進めた。


担当医は言った。

「五年以内に、がんは再発するでしょう。ただ、この状態では……」


言葉の続きを、私は聞かなかった。


車に乗った途端、父は吠え始めた。

「酒だ。酒を買え」

その声は、家に着くまで止まらなかった。


その夜、地獄の蓋が開いた。


父の錯乱は激しさを増し、私と彼女の二人では抑えきれなかった。

やむなく、元妻との間の息子たちを呼び寄せた。


酒もタバコも止められ、父は怒りを行き場なく撒き散らす。

私たちは息子たちと共に、なだめ、抑え、耐え続け、ようやく父は眠りに落ちた。


安堵したのも束の間だった。

畳が、父の足元からゆっくりと濡れ広がっていく。

信じられない量の失禁だった。


それと同時に、嘘のように父は正気を取り戻した。

排尿と共に、頭を侵していた何かが抜けたようだった。


翌日、次男に配送車を任せ、私と長男で父を対馬の病院へ送り届けた。

見慣れた病室に収まった父は、ひとまず落ち着いた様子を見せた。


嵐が去った直後の、不気味な静けさだった。


だが、運命は間を与えない。


次に届いたのは、私が最も恐れていた知らせだった。

ライダーの一人が交差点で事故に遭い、意識不明で搬送されたという。


病院へ駆け込んだが、「身内以外は面会できない」と拒まれた。

冷たい廊下で、私は立ち尽くすことしかできなかった。


数日後、彼は意識を取り戻した。

だが、そこから二年に及ぶ入院生活が始まった。


ようやく彼が現場に戻り、胸を撫で下ろした矢先――

今度は、ずっと覚悟していた知らせが届いた。


「……母さんが、逝ったぞ……」


父からの短い電話だった。

喉に痰を詰まらせ、抗うこともできずに逝ったという。


私は対馬へ向かった。

特養の一室で横たわる母を見ても、涙は出なかった。

あの日、声も動きも奪われた母を見た時から、この日を覚悟していた。


――やっと、楽になれたんだな。


六十歳で自由を奪われ、七十三歳で尽き果てるまでの十三年間。

食べることも、動くことも、話すこともできず、ただ生かされていた時間。


だが、棺に釘が打たれた瞬間、涙が溢れた。

そこに「いる」だけで、私を支えてくれていた存在が、完全に消えたのだ。


火葬場で棺が窯に入るのを見届け、手を合わせ、深く頭を下げた。


――母さん、やっと自由だ。


何度も心の中で繰り返しながら、立ち尽くした。


葬儀を終え、福岡へ戻った頃から、私の中で何かが変わり始めていた。


長年しがみついてきた事業。

必死に守ってきた看板。

そして、故郷には、再発を抱えた父が一人、酒に沈んでいる。


長男として、妹たちにこれ以上迷惑はかけられない。


私は、十八歳から十年間ついてきてくれた一人のライダーに話をした。

「対馬に帰る。この会社を、お前に譲りたい」


彼は戸惑いながらも、「やります」と答えた。

名もなき若者だった彼に、すべてを託す。それでいい。

看板が残るなら、私の意地は報われる。


残された最後の関門は、彼女の両親への挨拶だった。


対馬へ行くということは、彼女の人生を共に背負わせることになる。

震える手で頭を下げ、「結婚を前提に」と伝えた。


温かい料理と、思いがけない承諾。

その瞬間、福岡での三十六年に及ぶ戦いは、静かに幕を閉じた。


十五歳で独立し、裏切りと屈辱の波を渡り続けた日々。


住み慣れた街に別れを告げ、彼女と二人、対馬行きの船に乗る。


だが――

桟橋の先に待っていたのは、安息ではなかった。


想像していた通りの、次の試練が、そこには待っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ