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毒を盛った令嬢は存在しない ~宮廷医師が暴く、三年間の医療記録~

作者: 藍沢 理

診断書 第四百七十三号。

担当医師 ヴェルナー・シュトラウス。


 その診断書を懐に、私は静まり返った謁見の間にいた。三十年仕えてきた王宮で、これほど理不尽な光景を見たことはない。


 クラウス国王の声が、冷たい石床にはじかれる。


「セシリア・フォン・アルトハイム。そなたを王宮より追放する。容疑は王太子アルフレッドへの毒殺未遂。証拠は揃っている」


 玉座の前に跪く少女の背が、わずかに震えた。栗色の髪が肩に零れ落ちる。


 私は白衣の裾を握りしめた。診断書を握る手が、わずかに震える。


 国王の隣では、アルフレッド王太子が腕を組んでいた。金髪を整え、青い瞳で少女を見下ろす。その体躯は、三年前より明らかに肥えていた。いや、肥えているという生易しい表現では足りない。衣装の寸法が合わなくなるほど、膨れ上がっていた。


「昨夜、私は激しい腹痛に襲われた。吐き気、めまい、冷や汗――死ぬかと思ったぞ。そして思い出したのだ。あの女が差し入れた茶を飲んだ直後だったと」


 王太子の芝居がかった口調に、周囲の貴族たちがざわめく。

 セシリアが顔を上げた。


「殿下、あれは消化を助ける薬草茶です。毒などでは――」

「黙れ!」


 王太子の喝破。


「リリアナ侍女長が証言している。お前が怪しげな粉末を茶に混ぜるところを見たと」


 リリアナと呼ばれた中年の女性が前に進み出た。四十代半ば、端正な顔立ちだが、その目には光がない。いや、光がないのではなく――何か深い悲しみを湛えているように見えた。


「確かに見ました。セシリア様が何かを茶に混ぜておられるのを」


 嘘だ。私は拳を握りしめ、指の骨を軋ませた。


 エドヴァルト第二王子が進み出た。褐色の髪、真面目な表情。婚約者を守ろうと必死の形相で。


「父上! お待ちください! セシリアは決してそのようなことを――」

「エドヴァルト」


 国王が手を上げた。


「気持ちは分かる。だが証拠がある以上、法に則って裁かねばならぬ」

「ですが!」

「これ以上の弁護は無用だ」


 国王の声に、エドヴァルト王子の言葉が途切れた。

 セシリアは俯いたまま動かない。震える唇を噛みしめ、緑の瞳に涙を溜めている。その姿を見て、私は決意した。


 歯を食いしばって御前に進み出る。


「よろしいでしょうか、陛下」


 視線が一斉にこちらを向く。


「宮廷医師のヴェルナー・シュトラウスです。追放の宣告の前に、医学的見解を述べさせていただきたい」


 国王が眉を上げた。


「ヴェルナーか。何か言いたいことがあるのか」

「あります」


 私は懐から革表紙の冊子を取り出し、高く掲げた。


「診断書、第四百七十三号――アルフレッド殿下の、昨夜の診察記録です」

「おいっ! なんだそれは!」


 王太子の苛立たしげな声。


「診断書です。殿下、昨夜の症状を詳しく教えていただけますか」

「だから言っただろう。激しい腹痛、吐き気、めまい――」

「時刻は」

「夜鐘十刻の頃だ」


 私は診断書を開いた。


「殿下は昨夜、夜鐘十刻半に医務室に来られました。主訴は激しい胃痛と吐き気。診察の結果、私は次のように診断しました」


 紙をめくる音だけが、静寂の中に響いていく。


「食べ過ぎによる急性胃腸炎……でございます」


 ざわめきが広がった。


「な、何を――」

「殿下の胃は、前夜の晩餐で摂取した大量の食物により、許容量を超えて膨張していました。私が触診したところ、上腹部は著しく膨満し、圧痛が顕著でした」


 診断書を高く掲げる。


「記録によれば、殿下は昨夜の晩餐で、肉料理を七皿、デザートを三つ、パンを八切れ召し上がっています。侍従の証言もあります」

「それが何だというのだ! 私が食べ過ぎたとしても、あの女が毒を盛った事実は変わらない!」

「では、その『毒』について検証しましょう」


 私は別の書類を取り出した。


「セシリア様が差し入れられた茶の成分分析結果です。薬草庭園から採取した現物を、王宮の薬師に鑑定させました」


 書類を読み上げる。


「ペパーミント。消化を促進し、胃の不快感を和らげる効果。カモミール。胃壁の炎症を鎮静させる効果。フェンネル。腹部の張りを軽減する効果」


 顔を上げると、貴族たちの視線が集中していた。


「毒性成分は、一切検出されませんでした。むしろこれは、治療薬と言って差し支えないものです」


 一拍の静寂が落ちた。

 顔を上げたセシリアの緑の瞳に涙が光る。


「ですが先生! 私は飲んだ後に症状が悪化したのだ! それこそ毒の証拠だろう!」

「いいえ」


 私は首を振った。


「それは、薬が効いた証拠です」

「何?」

「殿下の胃には、大量の未消化の食物が停滞していました。薬草茶は消化を促進します。つまり、停滞していた食物が動き始めたのです」


 診断書の別のページを開く。


「その過程で、一時的に痛みが増すことがあります。停滞していた食物が動き出す際、胃や腸を刺激するためです。医学的には正常な反応で、陽が昇る前に症状は軽快します」


 王太子の顔色が変わった。


「実際、殿下は診察時『最初よりは楽になった』と仰いました。私はここに記録しております」


 その部分を示す。そこには、私の筆跡でこう書かれていた。


『患者の発言「少し楽になった気がする」――薬草茶の効果と推測される』


「つまり――セシリア様の茶は、殿下を毒したのではなく、助けたのです」


 謁見の間が、再び静まり返った。


「待て。ヴェルナー・シュトラウス」


 リリアナ侍女長が声を上げた。


「たとえ毒でなかったとしても、セシリア様が怪しげな行動をしていたのは事実。私はこの目で見た」

「怪しげな行動、ですか」


 私は彼女へ顔を向ける。


「リリアナ殿、あなたは『昼鐘三刻に、セシリア様が粉末を茶に混ぜるところを見た』と証言されましたね」

「その通り」

「おかしいですね」


 別の書類を取り出す。


「これは王宮の勤務記録です。あなたは昼鐘三刻、王妃様の私室で接客業務についていたと記録されています。場所は東棟。セシリア様の居室は西棟。見えるはずがありません」


 リリアナの顔から血の気が引いた。


「それは――記録の誤りではないか」

「では証人を呼びましょう。王妃様付きの侍女たち全員が、あなたがその時間にいたと証言するはずです。偽証は許されませんし」


 私はゆっくりと深呼吸をした。


「もう一つ。あなたは『怪しげな粉末』と言いました。しかし、薬草を乾燥させて粉末にするのは、調合の基本です。王宮の薬師も、私も日常的に行っています」


 診断書を閉じて、息をゆっくり吐き出す。


「あなたの証言には、矛盾があります」

「私は――」


 リリアナが口ごもったところで、私は国王に向き直った。


「陛下、もう一つ、提示したいものがあります」


 懐からさらに分厚い革表紙の冊子を取り出した。


「これは――アルフレッド殿下の、三年間の診断記録です」


 その瞬間、謁見の間の空気が変わった。


「待て」


 第一宮廷魔術師グスタフが進み出た。白髪を後ろに撫でつけ、鋭い目でこちらを睨む。


「その診断書、本当に信用できるのか、ヴェルナー」


 背筋が、ひやりとする。


「どういう意味です」

「お前は三十年前、ある事件で診断書を改ざんした過去がある」


 謁見の間が、再び騒然となった。

 私は唇を噛みしめる。


「あれは――」

「詳しく話そうか? それとも、今回もまた嘘をついていると認めるか?」


 グスタフの声に、貴族たちのざわめきが大きくなる。

 エドヴァルト王子が顔色を変えた。セシリアは不安そうに私を見つめている。


 私は拳を握りしめ、そして――顔を上げた。


「……その通りです」


 静寂が落ちた。


「三十年前、私は診断書を改ざんしました。権力者に媚び、真実を曲げました」


 視線が一斉に私に集中する。


「その結果、一人の無実の女性が、毒殺の濡れ衣を着せられ、処刑されました」


 エドヴァルト王子が息を呑んだ。


「その女性の名は、エレオノーラ。エドヴァルト殿下、あなたの実母です」


 謁見の間が凍りついた。


「私はあなたの母を救えなかった。いや、救おうとしなかった。それが私の罪です」


 私は再び国王へ向き直る。


「だからこそ陛下。今回は絶対に、真実だけを語ると誓います」


 診断書を胸に抱く。


「三十年間、私は一字一句、嘘のない診断書を書き続けてきました。贖罪として。そして今、その記録が一人の無実の少女を救おうとしている」


 私はゆっくりと診断書を開いた。


「信じる信じないは、陛下の御判断にお任せします。しかしこれだけは申し上げます。私はもう二度と、同じ過ちは犯しません」


 しばらくの沈黙の後、国王が口を開いた。


「――続けよ、ヴェルナー」

「陛下」

「そなたの目を見れば分かる。今度は、真実を語っている」


 国王の言葉に、私は深く頭を下げた。


「一年目。殿下の胃痛は月に二回程度。症状は軽度でした」


 次のページへ進む。


「二年目。胃痛の頻度が月に四回に増加。体重も二十キログラム増加。食事量の増大が原因と推測されます」


 さらにページをめくる。


「三年目。胃痛は週に一回に。体重はさらに十六キログラム増加。心臓への負担も懸念されました」


 私は顔を上げた。


「しかし、三年目の後半から、症状に変化が現れます」


 特定のページを開く。


「この部分です。『殿下の胃痛、最近の二ヶ月で軽減。何か変化があったか、要観察』――これは、セシリア様が第二王子の婚約者として王宮に来られた時期と一致します」


 エドヴァルト王子が息を呑んだ。


「さらに――」


 別のページを開く。


「今度はここです。『侍従の報告。セシリア様が時折、殿下に薬草茶を差し入れておられる模様』と記載しております」


 静寂の中、私の声だけが響く。


「この部分『その後、殿下の症状が明らかに改善。薬草茶の効果か』とも……」


 診断書を掲げる。


「セシリア様は、殿下の健康を案じ、密かに助けていたのです」


 セシリアが顔を覆った。肩が細かく震えている。

 エドヴァルト王子が駆け寄り、そっと彼女の肩を抱いた。


「では――リリアナの証言は虚偽だと」


 国王が重々しく言った。


「そうです」


 私は再びリリアナへ顔を向けた。


「あなたは第一王子派閥の幹部。第二王子の勢力拡大を恐れていた」


 彼女は顔を歪めた。


「セシリア様は、民からも貴族からも慕われています。第二王子殿下の評価を大きく高める存在。それが邪魔だった」

「違うっ! 私は――」

「王太子殿下の不摂生を利用して、濡れ衣を着せた。偶然を策謀に利用した」


 私は国王へ顔を向ける。


「陛下。医師として、三十年この王宮に仕えた者として、謹んで申し上げます」


 診断書を胸に抱く。


「セシリア・フォン・アルトハイム嬢は、無実です」


 国王が深く息をついた。


「――ヴェルナー」

「はい」

「そなたの診断を信じよう」


 国王はリリアナへ視線を向けようとした。

 その時――


「待ってください」


 か細い声が、謁見の間に響いた。


 セシリアが立ち上がっていた。エドヴァルト王子の手を振り払い、まっすぐに国王を見つめている。


「陛下――私は、毒を盛りました」


 謁見の間が、再び騒然となった。


「セシリア! 何を――」

「エド様、ごめんなさい」


 セシリアは震える手で、懐から小さな瓶を取り出した。


「これは虚食の毒。食物を体が受け付けなくなる、古代の薬です」


 私は息を呑んだ。知っている。宮廷図書館の古い医学書に記載されている、失われた薬の一つだ。


「アルフレッド様は……このまま食べ続けていれば、三年以内に心臓が止まる。それを、ヴェルナー様の記録で知りました」


 王太子が顔色を変えた。


「お、俺が死ぬだと……?」

「はい」


 セシリアが私を見た。


「ヴェルナー様、診断書の最後のページをご覧ください。そこに書かれているはずです」


 私は震える手で診断書の最後を開いた。そこには、私の筆跡でこう書かれていた。


『このままでは三年以内に心不全の危険。強制的な措置が必要――』


 私は書いていた。そうだ、書いていた。しかし、誰もこの記録を読まなかった。王太子も、側近も、誰も。


「だから――」


 セシリアが続ける。


「私は決めました。殿下を救うためには、食欲そのものを奪うしかない、と」


 彼女の緑の瞳に、決意の光が宿っている。


「虚食の毒は、少量ずつ摂取させることで、徐々に食欲を減退させます。痛みはありません。ただ、自然と食べる量が減っていく」


 薬草茶を渡す時、一瞬躊躇していた理由が分かった。


「でも昨夜、殿下は食べ過ぎてしまった。だから薬草茶に、通常より多めの虚食の毒を混ぜました」


 セシリアが頭を下げた。


「一時的に症状が悪化することは分かっていました。でも、それでも、このままでは殿下が死んでしまう」


 彼女の声が震える。


「私は、殿下を救いたかった。ただ、それだけです」


 謁見の間が、水を打ったように静まり返った。


 私は診断書を握りしめる。そうか。セシリアは――記録を読んでいたのか。誰も読まなかった診断書を。


「セシリア様」


 私が声をかけると、彼女は顔を上げた。


「あなたは間違っていません」


 私は国王に向き直る。


「陛下。虚食の毒は、確かに『毒』の名を冠していますが、古代医学では治療薬として用いられていました。過食症の患者を救うための、最後の手段として」


 診断書の記述を示す。


「セシリア様は……医師である私が止められなかった命を、救おうとしたのです」


 しばらくの沈黙の後、リリアナ侍女長が前に進み出た。


「陛下。私からも、告白があります」


 言葉づかいが変わっていた。彼女のこんな丁寧な話し方は初めてだ。


「私は……セシリア様に、嘘の証言をしました」

「リリアナ。なぜだ」


 国王の声が低く響く。


「私には娘がいました……三年前まで」


 リリアナの目から、涙が零れ落ちた。


「娘はアルフレッド殿下の愛人でした。しかし殿下は、飽きると彼女を捨てた。私の娘は――首を吊りました」


 セシリアが息を呑んだ。


「そして今――」


 豹変したリリアナが王太子をにらみ付ける。


「殿下はエドヴァルト殿下の婚約者であるセシリア様にまで、手を出そうとしていました。薬草茶を受け取る理由は、セシリア様に近づくためだったのでしょう」


 王太子が顔を背けた。その仕草が、全てを物語っている。


「私は――娘と同じ運命を辿る女性を、これ以上見たくなかった。だから、セシリア様を王宮から遠ざけようとしました」


 リリアナがセシリアに向き直った。


「間違った方法だったことは分かっています。でも――母として、どうしても……」


 彼女は膝をついて、頭を下げた。


「申し訳ございませんでした、セシリア様。私は――あなたを守りたかった」


 静寂が、謁見の間を包んだ。


 セシリアがゆっくりとリリアナに歩み寄り、その肩に手を置いた。


「リリアナ様、ありがとうございます」


 リリアナが顔を上げた。涙で濡れた顔で。


「あなたの娘さんのためにも。そして、あなた自身のためにも。私は生きます」


 二人の手が、静かに重なった。


 黙考していた国王が立ち上がった。


「皮肉なものだな」


 その声は、どこか遠くを見つめているようだった。


「善意が善意を疑い、善意が善意を追放しようとした」


 国王の言葉に、謁見の間が静まり返る。


「セシリアは王太子を救おうとし、リリアナはセシリアを守ろうとし、ヴェルナーは真実を守ろうとした」


 国王が深く息をついた。


「誰も間違っていなかった。誰も悪くなかった。ただ、それぞれの善意が、すれ違っただけだった」


 私は診断書を胸に抱く。


 そうだ。誰も悪くなかった。


 セシリアは記録を読み、行動した。

 リリアナは娘の死を胸に、次の犠牲者を出さないよう動いた。

 そして私は、三十年前の過ちを、今度こそ正そうとした。


 全ては、善意から始まっていた。


「セシリア」


 国王の声は優しかった。


「そなたへの追放は撤回する。虚食の毒を用いたことは、本来であれば罪に問うべきだが……そなたの行動は、医師が果たせなかった責務を代行したものと判断する」


 セシリアが深く頭を下げた。


「ありがとうございます」

「リリアナ」


 国王が侍女長に向き直る。


「そなたの偽証は許されるものではない。しかし、その動機を鑑み、処罰は三ヶ月の謹慎とする」

「陛下、ありがとうございます」


 リリアナも頭を下げた。


「アルフレッド」


 国王が王太子へ顔を向けた。その目は厳しかった。


「お前は今後、ヴェルナーの指示に従い、食事療法を受けること。また、女性への態度を改めよ」

「父上……」

「これは命令だ」


 王太子は何も言えなかった。


 国王が私に向き直る。


「ヴェルナー。そなたの三十年間の誠実な記録が、今日、一人の少女を救った」

「恐れ入ります」

「しかし――」


 国王の声が、少し厳しくなった。


「診断書は書くだけではなく、読まれなければ意味がない。今後、王宮の医療記録は月に一度、必ず報告するよう制度を改める」


 私は深く頭を下げた。


「はい。それこそが、私が望んでいたことです」



 謁見の間を出ると、エドヴァルト第二王子とセシリアが待っていた。


「ヴェルナー様……本当にありがとうございました」


 セシリアが深々と頭を下げた。


「顔を上げてください。医師の仕事は、病を治すだけではありません。診断書に真実を刻み、それで人を救うこともあるのです」


 エドヴァルト王子が口を開く。


「あなたは……母を」

「……申し訳ありませんでした」


 私は頭を下げた。


「三十年前、私は権力に屈しました。その結果、エレオノーラ様を救えなかった」


 エドヴァルト王子が首を振った。


「いえ。あなたは今日、その過ちを正しました。母もきっと、喜んでいると思います」


 私は窓の先、空へと視線を飛ばす。

 三十年前の記憶が蘇ってくる。

 権力者に忖度して真実を曲げた。偽証してしまった過去。その代償は一人の患者の命だった。


「あのとき、二度と同じ過ちは犯さないと決めたのです」


 二人とも黙って頷いた。

 私は診断書を開き、最後のページにペンを走らせた。


『本件により明らかになった事実。医師の責務は、権力ではなく真実に仕える。診断書は、時に人の運命を左右する。故に、一字一句、嘘があってはならない。

診断書は書かれるだけではなく、読まれなければ意味がない。記録とは未来への警告であり、救済の手段である。

人の心に潜む痛みを記録し、善意が悲劇に変わる前に、真実を語る勇気を持つこと。それもまた、医師の責務である。今回の件は生涯にわたって、肝に銘じる事とする』


 ペンをしまう。

 診断書第四百七十三号。これは、毒殺未遂事件の記録ではない。

 善意のすれ違いが生んだ悲劇を、真実が救った記録だ。


 そして、私という一人の医師が、三十年かけて果たした贖罪の記録だ。


 一息ついて、私は革表紙を閉じた。


 二人がいない。私が書き込んでいるうちにどこかへ行ってしまったのだろう。


 窓の外では、秋の陽が柔らかく王宮を照らしていた。

 診断書を抱えて歩き出すと、遠くからリリアナとセシリアが並んで歩いている姿が見えた。


 二人は笑顔で話し合っていた。


 誰も悪くなかった。

 ただ、善意がすれ違っただけだった。




(了)


お読みいただいてありがとうございます。

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