僕は一秒まえを生きている
拙い文章ではありますが、読んでいただけると幸いです。
「僕は一秒まえを生きている」
この言葉を聞くと、多くの人は──
は? なに言っんの?
そういうのやめたほうがいいよ?
と、怒りまじりの疑問を口にすると思う。それもそのはずで、僕自身、医者から診断を受けるまで、こんな病気があるなんて知らなかった。
病気に気づいたのは、中学生になったばかりの頃だった。僕は私立の中学に進学し、周りは知らない人
ばかりだった。心細かった僕は、すぐに隣の席の男の子に話しかけた。彼は絵に描いたようなスポーツ男子で、僕との歓談を快く受け入れてくれた。
名前はなに? どこから来たの? なんの部活に入る?
初対面ということもあり、僕たちは話題をコロコロと変えながら会話をした。初めての環境で彼も心細かったのだろう、硬かった表情が和らいだのがはっきりとわかった。だけど、彼の晴れやかだった表情は、段々と不服そうなものへと変わっていった。
彼の体調が悪くなったのかと思って、僕はどうしたのと声をかけた。すると彼は、
「なんか、遅くない?」
逆に僕を心配するような声音で言った。
「遅い? それってどういう意味?」
僕は彼の言葉の意味を汲み取れず、どういうことなのか訊き返す。
「いや、なんかさ、俺が話してから返事がくるまで、へんな間があるんだよ」
「え? 間って?」
「ほらいまも! わざとかもしんないけどさ、俺が喋ってから沈黙があるんだよ」
僕は最初、彼が僕のことをからかっているのだと思った。だから、このときは笑ってやり過ごした。
「そんなこと初めて言われたよ!」
「・・・あ、そう」
彼は呆れたのか、席を立って教室を出て行ってしまった。
なんだよ。せっかく仲良くなろうと思ったのに・・・。
僕は心の中で彼への愚痴をこぼしつつ、頬杖をついて先生が来るのを静かに待った。ふと窓の外を見ると、桜の木が風を受けてざわざわと騒いでいた。
僕が自分のことをおかしいと、はっきりと自覚するようになったのは、体育祭に向けての行進練習のときだった。
両足と両腕を、前の人と同じタイミングで動かし、先生の笛の合図で一斉に動いたり止まったりする。小学校の先生と比べて、中学校の先生は厳しかった。一人でも秩序を乱せば、容赦なく最初からやり直させた。
他のクラスは、何度かやり直しをさせられていたが、数回で合格をもらっていた。僕のクラスだけが、最初の段階で躓いていた。その原因は、僕だった。
「おい! またお前か!」
担任の男性教師が笛を爆発させそうな勢いで鳴らし、僕のことを指差して怒鳴る。前後左右から、またかよ、いい加減にしてよ、うざ、もう疲れた、などの不満の声が聞こえてきた。その中には、彼の声もあった。
「・・・すみません」
「次はちゃんとやれよ、じゃないと放課後も練習だからな!」
結局、僕のクラスは一度も合格を認められず、放課後や他の競技の練習時間も使って練習をさせられた。それでも、僕はみんなと足並みを揃えることができず、合格と一度も言われないまま体育祭本番を迎えた。
体育祭はクラス対抗で、僕の学年は五クラスあったので五チームで勝負した。
僕のクラスはスポーツ経験者が多く、初めは上の順位をキープしていた。クラスの女子たちは待機所で、優勝できるんじゃない、とはしゃいでいる。
『続きまして、五十メートル走男子の部です。走者の生徒は、本部の後ろに集合してください』
アナウンスがされ、僕は本部の後ろに集合した。先生に名前を確認され、四人一列で並ばされた。
パーンという銃声が響き、前の四人が次々と五十メートル先のゴールに向かって駆けていく。徐々に出番が近づいてきたが、僕は緊張ではなく期待で胸をドキドキさせていた。なぜなら、ここで一位を取ってクラスに貢献すれば、行進練習のときにみんなに与えてしまった不快感を払拭できるかもしれない。そう思ったからだ。
僕の番が来て、先生の指示に従い、位置に着く。スターターピストルが空に掲げられ、両足に力を込める。しかし、僕はすぐに力を抜いた。なぜなら、僕以外の三人が、合図が鳴るおよそ一秒前に駆け出したからだ。
この場合は、もう一度仕切り直す手筈になっている。なのに・・・誰も前の三人を止めようとしない。むしろ、
「何してるの⁉ 早く走りなさい!」
スターター女性の先生が僕に早く走れと怒ってきたのだ。
え? 三人はフライングじゃないの?
背後から嫌な言葉が聞こえ、僕はそれから逃げるように走り出した。そのときには、三人は既にゴールしていた。
他にも、体育祭では思い出したくない記憶がある。この出来事が引き金となり、中学生の僕はクラスで居場所を失った。
午後の最後の種目には、大縄跳びという団体競技があった。先生が大繩を回し、制限時間内でクラスメイトが合計で何回飛べたのかを競う競技だ。体育祭の締めを飾る種目なだけあって、一位のクラスには大量の得点が与えられる。僕のクラスが逆転し、一位になるのも十分可能だ。
「せーのっ!」
先生たちの野太い掛け声で、大繩は大きく宙を舞う。そして、みんなは飛んだ回数を大声で数えていく。
『いーち!』『にーい!』『さー 』
三回目を飛ぼうとした瞬間、僕の左足が引っ掛かってしまって、大繩が鞭のようにぐねっと曲がった。
「・・・ごめん」
記録の更新を止めてしまった僕は、すかさずみんなに謝る。けれど、誰も返事をしてくれなかった。隣から他クラスの先生と生徒の掛け声が聞こえてきただけだ。
その後、僕は何度も縄に引っ掛かって、みんなの邪魔をしてしまった。縄はちゃんと見てしっかり飛んでいるのに、なぜか縄が途中で急加速して僕の足にぶってくるのだ。
「お前、もう代われよ」
そう言ってきたのは、隣の席の彼だった。
「・・・うん、ごめん」
僕は彼の顔を直視できず。俯きながら謝った。彼の冷え切った声色だけで、僕にどんな感情を抱いているのかは明白だった。
クラスメイトの輪から抜け、僕は待機所のイスに座っていた女子に交代しようと声をかける。すると、彼女は舌打ちをして、僕の抜けたスペースに入っていった。
なんだよ。ただお腹が痛いだけで、そんな嫌がることないだろう。どうせ、お腹が痛いなんて嘘で、サボりたいだけだろ・・・。
だけど、このときの僕は全く知識がなかった。彼女は他の女子と比べて背が高く、発育が良かったのを、僕はただの個性としか捉えていなかったのだ。
『いーち!』『にーい!』『さーん!』
僕はイスに座って、みんなの飛ぶ姿を見届ける。引っ掛かってしまえと、僕は拳を握りしめ、呪うかのように念じた。
『なーな!』『はーち!』『きゅーう!』
僕の記録が瞬く間に更新され、僕は離れたところで悪態をつくことしかできない自分が情けなく感じて、僕はクラスメイトから目を逸らすように項垂れた。足元では、一匹の蟻が彷徨っていた。こんなところに、餌なんて落ちてるわけないのに・・・。
『終了―! みなさん、縄を飛ぶのをやめてください!』
アナウンスが響き、全員が縄を飛ぶのを中断する。あちこちから、勝ったんじゃない、新記録だ、優勝あるぞ、などの期待に満ちた声が聞こえてきたが、僕のクラスだけは違う競技をしていたかのようにどんよりと静まり返っていた。
最終順位は、言うまでもなかった。
この日、僕はクラスメイトの男女が自分の悪口を言っているのを聞いて、学校で初めて泣いてしまった。誰にも見られないよう、旧校舎の三階の隅っこのトイレで。
「息子さんは、神経の伝達速度が一秒ほど遅れています」
「え・・・?」
母親は白衣を着た男性の言葉を聞き、喉を詰まらせたような声を漏らした。視線を横に向けると、両手で口元を覆い、目を大きく見開いた母親がいた。
「・・・どういう、ことですか?」
母親は掠れた声で男性に尋ねた。
先日、担任の先生が息子さんに病気の疑いがありますと親に報告し、僕は母親に連れられて近所の精神科を受診した。しかし、そこでは精神に異常はないと判断され、より詳しく調べるため、ここの大学病院を紹介されたのだ。
「息子さんの脳ですが、どこにも異常はありません。ですが、物を視認したり、音を感知したりするのに時間差があります」
医者は僕の症状を、モニターの画面に表示された脳のレントゲン写真を指示棒で差しながら説明する。
「普通なら、物を見たり音を聞いたりすれば、感覚神経がもの凄い勢いで情報を脳に伝達するんですよ」
医者は指示棒を縮め、それを全力で伸ばすことで、健常者の神経伝達の速度を疑似再現した。
「しかし、息子さんはそのスピードが、通常よりも一秒ほど遅いんですよ」
医者は指示棒をふたたび縮め、今度はゆっくりと伸ばした。
「そんな、治療法はないんですか?」
母親がおそるおそる治療法について尋ねるが、医者は首を横に振った。
「申し訳ございませんが、現時点ではこれといった治療法はありません。ただ、息子さんには筋力の低下や痺れといった特徴がないので、普通に生活する上では支障はないでしょう」
医者は僕の目を覗き込んでくる。
「いいですか。これからは自分が一秒遅れていることを念頭において、行動してください。そうすれば、学校の友達と問題なく接することができるでしょう」
僕は医者の言葉を聞いて、隣で泣いて心配してくれている母親には悪いけど、良かったと安堵したのだ。
自分が一秒遅いと身構えるだけで、普通の学校生活を送れること、自分が病気だったことを知れば、クラスメイトたちが仕方ないと思って、これまでの過ちを赦してくれることを、僕は密かに期待してしまったのだ。
「わかりました」
僕は感情を抑え、淡々と答えた。医者は僕のことを憐れんだのか、最後にもう一度謝罪をした。母親も僕の苦しみに気づいてあげられなかったことを後悔し、家に帰った後も何度も泣いて謝ってきた。僕は悲しむふりをして、心の中でごめんなさいを唱え続けた。
後日、担任の先生が、僕の病気をクラスのみんなに報告した。これで僕は救われる。みんなが赦してくれる。けれど、これまで積み上げてきた不快感は、病気というちっぽけな風では吹き飛ばすことはできなかった。
僕は段々と、自分のことが嫌いになった。
人の多いところを歩けば、必ずぶつかってしまう。
授業の中で二人組を作れと言われたら、いつも余ってしまう。
教科書を忘れたから見せて欲しいと隣の彼にお願いしたら、無理だと断られた。
学校の中では、どこでも僕に対する陰口が一秒遅れて聞こえてくる。
僕は常に、一秒前行動を心掛けていた。
誰かと話すときは、相手が話し終わるでろう一秒前に返答していた。なのに、みんなは僕を違う制服を着た生徒のように扱い、近づこうとしなかった。
『僕は歩み寄ろうと努力しているのに、どうしてみんなは応えてくれないんだ!』
『一秒遅いだけで、こんな扱いを受けなければならないんだ!』
『なんで僕だけがこんな目に遭うんだ、不公平だ!』
怒りが込み上げてくる。その矛先が身近な両親へと向くのは、当然の成り行きだった。
僕は両親の一言一言に、狂犬の如く噛みついた。病気の存在を盾にして、二人を徹底的に詰った。父親が僕を戒めようとするたびに殴り合いの喧嘩を起こし、母親を何度も泣かせた。
僕はきっと、二人を困らすために産まれてきたんだろう。中学三年生の春に、そんな結論を下した。普通の人なら、頑張って自分の存在価値を高めるだろう。でも、僕の場合はどれだけ足掻いても、一秒遅れた世界から抜け出すことは叶わない。
自分で死ぬ勇気もなかった僕は、とことん両親に迷惑をかけてやろうと決めた。お前たちのせいで、僕はこんな苦労をしたんだ。だから、後始末もお前らがしろ。
それから、僕は出席日数の不足と成績不振で内部進学ができず、父親から強引に高校受験を受けさせられて、偏差値の低い私立の高校に入学することになった。そこでも僕は煙たがれ、入学早々不登校になった。先生の計らいで、なんとか高校卒業の資格はもらえたが、大学受験は受けなかった。試験会場には向かったが、大勢の学生を見たら臆してしまって、引き返してしまったのだ。
浪人生となった僕は、勉強なんて一度もせず、二年の月日を過ごした。二十歳になっても、ただ起きて食べて寝るという習慣を機械のように繰り返した。
だけど、そんな救いようのない僕に、ありがとうを言ってくれる人が現れた。
彼女がいなかったら、僕は屍のように、ただ朽ちて灰になるのを待っていただろう。彼女の言葉が、僕の命に息を吹き込んだ。
人は惰性を極めると、物語を求めてしまうらしい。僕は二年間で、漫画やアニメ、小説や映画など、あらゆる物語に没頭した。
たぶん、僕は物語に触れることで全能感に浸っていたのだ。物語は、読み手が続きを見ようとしなければ、そこで終わってしまう。登場人物たちの結末が、ページを捲る手を止めるだけで、スマホの電源を切るだけで、ハッピーエンドにもバッドエンドにも変更できるのだ。
僕のような性根の腐った人間は、物語を純粋な娯楽としてではなく、神様気分を味わうために嗜むのだ。
バイトもせず、お金のない僕は、神様になるために、ひたすら近所の図書館に通っていた。適当な本をいくつか手に取り、長机の端っこで読むのが、僕の日課になっていた。
あの日も、僕は図書館に通っていた。
本棚から偶然目に入った小説を三冊手に取り、いつもの席に向かう。だけど、今日は先約がいた。
高校生くらいの女性が、僕がいつも座っている窓際の席に座っていたのだ。僕は他の空いている席に行こうとしたが、他の席も人が陣取っていたので、僕は仕方なく彼女と対直線上の席に腰かけた。
平日の昼間になのに、学校はないのかと考えたが、他人のことに時間を割くのは勿体ないと感じ、僕はすぐに小説を開いた。
一冊目はミステリー小説で、三人目の犠牲者が出たところでやめた。
二冊目は恋愛小説で、主人公が自分の気持ちを自覚したところでやめた。
三冊目はファンタジー小説で、最後まで読み切った。
目が疲れたので、僕は気分転換がてら、窓の外を眺めた。図書館の庭に植えられた木の枝には銀杏の葉が茂っていて、空は茜色に染まっている。
視界の端に、彼女の姿が映った。彼女は両腕を枕にして眠っており、彼女の横には十冊以上の絵本が高く積み上げられていた。
僕は自分のことを棚に上げ、大人なのに絵本を読むなんて変な人だと思った。
僕は席を立ち、小説を本棚に戻す。
どっちにしろ、彼女は明日になればいなくなっているだろう。それが普通で、僕が異常なのだ。
帰り際、ちらりと窓際の席を見ると、彼女は起きて絵本を読んでいた。
翌日の正午、僕は懲りずに図書館へ足を運んだ。雨が降っているせいか、館内は普段よりも薄暗い。
若い男が平日休日問わず図書館に通い詰めているからか、常連の老人たちや司書の女性からは好奇の目を向けられる。過去のトラウマのせいか、僕はどうしても彼らが自分に興味を示す理由が、病気のことではないかと疑ってしまう。
彼らの視線から逃れるため、僕は本を適当に選び、そそくさといつもの席に向かう。あの席は本棚の影に隠れていて、他人の視線を遮断することができる。特に窓際の席は外の雑音が明瞭に聞こえてきて、館内に響く他人の呼吸音や足音、コピー機の駆動音や自動ドアの開閉音などを搔き消してくれるのだ。今日は雨だから、絶好の読書日和だ。
けれど、僕はまたもやその席に座れなかった。彼女が座っていたから。
彼女は昨日と同じく絵本を積み上げ、気怠そうに読んでいた。制服を着ているが、学校に登校しなくていいのだろうか。
僕はまた好奇の目に晒されるのが億劫になって、昨日と同じ席に腰かけた。窓から離れてしまったが、雨音のおかげで余計な音は耳に入ってこない。
一冊の小説を手に取って読み始める。その直後、横から電話の鳴る音が聞こてきて、僕は咄嗟に視線を横に向けた。すると、彼女はブレザーのポケットからスマホを取り出しては、電源を切って机の上に伏せた。そして、舌打ちを挟んで絵本を読み始めた。
僕は、そんな彼女の行動に苛立った。人の読書の邪魔をしておいて、なんでお前がキレてるんだよ、と。だけど当然、虫よりも世界の役に立っていない僕が口出しできる権利はなく、黙って読書を続けた。
彼女はとにかく、うるさかった。
言葉は発していないが、欠伸をしたり、くすっと笑ったり、咳払いをしたり、溜め息を吐いたり、寝息を立てたりなど、耳元を飛ぶ蚊のように煩わしかった。だから僕は、明日は朝早くから図書館に行き、あの席を確保しておこうと思った。
このとき、僕はどうしてか、彼女は明日も図書館を訪れると確信していた。
次の日、僕は開館時間の九時半丁度に図書館に入った。中には司書の女性しかおらず、いつもより広く感じられた。
適当な小説を手に取り、誰もいない長机の窓際の席に腰かける。やっぱり、僕にはこの場所でしか一人になれない。家では、嫌でも母親が話しかけてくるし、無視をしたら泣かれてしまうから手に負えない。
三十分ほどして、彼女がやって来た。
彼女は絵本を十冊以上抱えて、僕のことをじっと見つめてきては、対直線上に座った。
僕は少し、優越感に似た感情を感じた。その日、僕は昼食も摂らず、三冊の小説を途中まで読み、一冊の本を読み切った。
次の日、僕はまた開館時間直前に図書館を訪れた。でも、今日は昨日と違って、図書館の前で開館を待つ人が、僕以外にもう一人いた。それは、彼女だった。彼女は僕のことを一瞥すると、図書館のほうへ歩き出した。
僕たちは開館されたばかりの図書館に同時に入館し、僕は数冊の小説を持って、急いで席に向かった。しかし、そこには彼女のバッグがこれみよがしに置かれていた。
それから、僕たちは窓際の席を取ったり取られたりの争奪戦を繰り広げた。後から聞いた話だが、彼女は特段あの席に拘りはなく、ただ面白いから続けていたらしい。ふざけるなと、それを聞いた僕は怒った。彼女はごめんごめんと笑いながら謝った。
僕たちが初めて言葉を交わしたのは、争奪戦を開始してから二週間が経った日だった。
「ねえ、なんでいつも途中で読むのをやめちゃうの?」
その日、彼女は窓際の席を勝ち取った僕の前の席に腰かけ、話しかけてきた。
三年近く、まともに他人と喋ったことのなかった僕は、日本語を覚えたばかりの外国人のようにぎこちなく返す。
「え、お、面白くない・・・から?」
「ふーん」
さすがに神様気分を味わうため、といえば引かれると思ったので嘘を吐いた。
「そっちは・・・なんで絵本ばかり読んでるの?」
こっちが答えるだけなのは癪に障り、僕は彼女に絵本ばかり読むわけを問う。
彼女は「やっぱ変だよね・・・」と小声で呟くと、横に積み上げた本の中から一冊の絵本を取り、僕の目の前で読み始める。以前から思っていたが、本を読んでいるときの彼女の瞳は、どこか上辺を飾っていた。まるで、楽しそうにしている自分を必死に見せつけているような・・・。
「絵本って、馬鹿でしょ」
「え?」
突然、彼女がそんなことを言い、僕はぽかんと口を開ける。本を読む理由に、馬鹿なんてことは聞いたことがないし、第一作者に対して失礼すぎる。
「あ、ごめん! 絵本のことを馬鹿にしてるわけじゃないの! ただ、絵本って読みやすいよねって話!」
彼女は自分の失態に気づき、すかさずフォローを入れる。
「・・・だから、本を読むの?」
「うん。絵本って文字が少ないでしょ。おかげで小説よりもスラスラ読めるし、読めない文字もないから、自分が頭が良くなったかもって思えるの」
彼女は得意げに語るが、僕は判然としなかった。頭が良くなったと思いたいだけで、学校を休んでまで絵本を読むだろうか?
「どうして、頭が良くなりたいの?」
「知りたい?」
彼女は絵本から顔を上げ、いたずらっぽく笑う。たぶん彼女はこのとき、知ったら後悔するよと警告したつもりだったのだろう。けれど、真っ当な人生を歩んでこなかった僕には、彼女が大丈夫だと強がっている子供にしか見えなかった。
「・・・うん」
このときの決断を、僕は誇りに思う。
彼女は、高校でいじめを受けていた。
彼女は幼い頃から、空気を読むのが苦手だったらしい。授業中に友達に話しかけたり、会話の腰を折ったり、心無い言葉を本人の前で発してしまったり・・・。確かに、彼女の図書館内での行動を振り返ると、思い当たる節があった。
そんな彼女だが、小中学生のときは幼馴染のおかげで、大きなトラブルに巻き込まれず学校生活を送れていたらしい。だけど、幼馴染とは別の高校へ進学し、彼女の味方はいなくなってしまった。それでも、彼女は自分が空気を読めないことを常に意識し、発言や行動に細心の注意を払っていた。けれど、人間が永遠に息を止められないように、生まれながらの気質は抑えることができなかった。
ある日、授業で先生が期末試験についての大事な話をしていた。そのとき、彼女の前の席の女子生徒がスマホを操作していたため、彼女は純粋な優しさから、
『スマホは仕舞ったほうがいいよ』
と声をかけた。普通なら、声を小さくするなどの配慮を行うだろう。けれど、先のことまで考えが及ばなかった彼女の声は、全員を巻き込んでしまったのだ。
女子生徒は先生からスマホを取り上げられて、反省文を書かされた。このことを根に持った女子生徒は、友達と結託して彼女をいじめ出した。女子のいじめは陰湿で、彼女の精神を徐々に蝕んでいった。そして、放課後に呼び出された彼女は、女子生徒にこんなことを言われたらしい──
『そんな簡単なこともわからないの?』
「私、アスペルガー症候群なんだって」
彼女は笑いながら、自分のかかっている病気の名前を言う。
僕は唇を噛む。
わからない・・・どうして彼女は笑っていられるんだ? 憎くないのか? 悔しくないのか? 何より、
「なんで、そんなことで学校を休むんだよ・・・!」
気づけば、僕は自分の病気のこと、過去のこと、小説を途中で閉じる理由を、洗い浚い打ち明けていた。僕は、我慢できなかったのだ。空気が読めないだけで自分は他人と違うと決めつけているのが、空気が読めないだけで諦めたように笑っているのが。僕と比べれば、まだ幸せなほうだ。
それから、僕は唾を吐き散らすような勢いで、君の悩みは些細なことだと説いた。彼女はじっと、僕の話を聞き入っていた。
そうして、彼女は段々と図書館に来る頻度を減らしていった。時折姿を見せては、学校での愚痴を僕にこぼした。僕は僕で、いつしか図書館へ行く理由が、神様気分を味わうためから彼女に会うためと変わっていった。彼女との会話は心地よかった。それは、一秒前行動を忘れてしまうほどに。
あの日、三年生になった彼女は、保育士になりたいと告白した。保育士になって、子供たちに絵本を読んであげたいらしい。彼女の隣には、今も昔も、ずっと絵本があった。
僕は意を決して、彼女に尋ねた。
「なんで、いつも僕と話してくれるの?」
僕は不思議だった。今まで関わった人たちは、みんな隣の席の彼のように、すぐに嫌気が差して、僕のことを遠ざけた。けど、彼女だけは半年以上も一緒にいて、一度も顔を顰めなかった。一秒遅れて返事が返ってくるのに、何も言及しなかった。
彼女はくすっと笑って、僕の目を見た。
「安心するからかな、話してて。確かに、返事が返ってくるのが普通の人と比べて遅いけど、そのぶん、ちゃんと私の話を聞いて、考えてくれてるんだなーって思えるの」
雲が晴れ、窓から眩い光が差し込む。大袈裟な表現かもしれないが、このとき光に照らされた彼女は、迷える人々を導く天使のように見えた。
「あと、誰よりも辛い経験をしたから、この人は絶対、私のことを馬鹿にしないって思えるの。だから──」
彼女は照れくさそうに笑って、僕にその言葉をかける。
僕は信じられなかった。人に迷惑をかけてばかりだった僕が、知らないうちに彼女の助けになっていたことが。
およそ十年ぶりにその言葉を聞いて、僕は充実感に満たされていた。そして、この充実感を途絶えさせたくないと思った。以前、そういう職業があると、小説で読んだことがある。人の悩みを聞き、解決できるようサポートをする職業。あのときは、自分には無縁なものだと思って途中で読むのをやめてしまった。だけど、本当は眩しくて、見ないふりをしていたのかもしれない。
「・・・実は、僕にも夢があるんだ」
なれるだろうか、こんな僕でも。わからない。でも、やってみたい。たとえ才能がなくても、努力が実を結ばなくても。そのためには、大学で勉強をしなければ。お金も要るだろう。バイトをしよう。足りなかったら親に頭を下げよう。そして、ちょっとずつ返していこう。迷惑をかけたぶんを上乗せして。
僕は自分の病気を、呪いのように考えていた。でも、そんなのは多角的な視点の一つでしかなかった。世界のどこかには、彼女のように僕の病気を好意的に受け入れてくれる人がいるかもしれない。そんな当たり前を、彼女は気づかせてくれた。
今の僕は、親しみを持って言える。
「僕は一秒まえを生きている」
〈完〉
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