伝説の死神は5.000日を5000日と見間違える
世界観や細かいところははふわっとした感じでお願いします。
「私は死神。お主の余命を伝えし者よ――」
そう荘厳に語り掛けるのは、伝説と称えられた死神。
こなした案件は数知れず、後輩からの信頼も厚い。その名を知らぬ者は死神界にはいないだろう。
だが、そんな死神にも老いは訪れる。
魂収穫課に配属された若き死神たちに、最後の花道を示し、華々しく引退するのも悪くない――。
そう思い、かつての後輩の頼みで、新卒向け実技研修の講師を引き受けた。
今回の対象者は六十七歳の老婆。病院で人工呼吸器に繋がれ、意識はすでにない。
弱々しい輝きを放つ魂は、自らの最期を悟ったのか、悲しげに揺れた。
主人に先立たれ、娘夫婦とは絶縁し、寂しい晩年を過ごしていたと、死神レポートには記されている。
その中の『余命』の項目を確認し、背後で見守る新卒たちの気配を感じながら、たっぷりと間を置いた。
「お主の余命は残り5000日。残された日々を全うせよ――」
そう厳かに告げた直後、『ん?』と違和感がよぎった。
魂も戸惑ったように小さく震えているように見える。
背後からも、「……随分と長くないか?」と訝しむ声が漏れ聞こえてきた。
死神は動揺を悟られぬよう、再度レポートに目線を落とす。
そこには確かに「5000日」と書かれていたはずなのに――よくよく見たら、「5.000日」ではないか……!
なんだ、このピリオドは。私が現役の頃は、こんなものは無かったはずだ……!
「せ、先生……。本当に、5000日なのでしょうか……?」
おずおずと新卒の一人が声を上げた。
確かに、告知のタイミングは死神の裁量だが、一年以上前に余命を告げるなど聞いたことがない。
死神は静かに天を仰いだ。
――私は伝説の死神だ。
死者に寄り添い、ミスひとつ起こさずに仕事に取り組んできたのだ。
フレッシュな新卒たちを前にして、「間違えました」などと、口が裂けても言えるわけがない。
「――間違いない。この者の寿命は5000日だ。残り少な――くもない人生ではあるが、健やかに過ごすといい」
健やかにと言ったって、もう今にも死にそうな老婆だ。
魂もどうしていいか分からず、ふよふよと留まったままでいる。
「5000日後に、その命を刈り取りに来る。決して忘れぬように――」
心臓はもはやバクバクだったが、ここまで来たら押し通すしかない。
とにかく、今この場を乗り切ることだけを考え、死神は無理やりに告知の儀を打ち切った。
新卒たちは微かな疑問を抱きながらも、「伝説の死神の言うことに間違いがあるはずがない」と盲目的に信頼している。
そして研修は滞りなく終わり、後輩からはテンプレ的な感謝のメールが届いていた。
「――さて、困ったぞ」
家に帰った死神はExcelを開き、死神レポートの別シートに付随されていたマニュアルを確認していた。
どうやら、最近は余命が分単位まで記載されるようになったらしい。
例えば「5.580日」と書かれていた場合、「5日13時間55分」という意味になるそうだ。
いったい誰がこんな仕様変更を承認したのか知らないが、ややこしすぎて腹が立つ。
きっとExcelの使い方もままならぬ無能の仕業に違いない。
とはいえ、テンプレートの作成者に文句を言ったところで事態は何も変わらない。
このままでは、数日後に老婆は死んでしまうことだろう。
レポートにそう書かれていたのを読み違えただけにすぎないのだから、死神が「5000日」と告げたところで、寿命が変わるわけがなかった。
「黙っていたところで、誰も気付きはしないだろうが……」
魂に語り掛けただけなのだから、あの老婆の記憶には残るわけではない。
新卒たちだって、わざわざ老婆の死亡時期を調べるとは考えにくい。
だが、万が一、万が一にでも、誰かが不審に思い、10日後でも、1年後にでも「結局5日で死んだ」ことが知られてしまったら――。
「――仕方ない。要は、5000日後まで生かしておけばいいだけの話だろう」
まずは、証拠となるレポートをシュレッダーにかけ、サーバーフォルダに保存されていた原本からもピリオドを削除する。
証拠隠滅は、バッチリだ。
あとは、どうバレずにこの失態を埋め合わせるか――。
引退のことなどすっかり忘れた死神は、ミスを隠し通す方法を考えるだけで、頭がいっぱいだった。
かつて「伝説」とまで称えられた死神も、今や第一線を退き、定年後再雇用の第一号として細々と働き続けている。
だが、現役時代のように魂の収穫を任されることはなくなり、閑職に回されて久しい。
今の仕事は、編纂室で紙資料をポチポチとデータ入力するだけの日々。
確かに老いは感じる。目もしょぼしょぼと霞んできた。……だから見間違えてしまったわけなのだが。
そんな定年再雇用の身とはいえ、有給はしっかりと付与されている。
死神は「私用のため」と有給申請を提出し、再びあの病院へと向かった。
――やるべきことは、ひとつ。
病魔を取り除くためだ。
幸いにも、彼女の死因は老衰ではなく病気によるものだった。その原因さえ消し去れば、寿命は延びるはずである。
呼吸器が取り付けられた老婆の胸元に、静かに手のひらをかざす。
集中し、血管が切れそうなほどに自身の力を込めると――。
老婆の身体を蝕んでいた病魔が、みるみるうちに消えていった。
超常現象ともいえるこの奇跡。能力が衰えていなくてよかったと、死神は胸を撫でおろす。
もちろん、扱える死神は少ないし、生者に直接使えば完全にアウトだ。
だが、ミスを取り繕うために、なりふり構っている場合ではなかった。
土気色をしていた老婆の頬に、徐々に赤みが差していく。
呼吸が落ち着いた頃には、点滴の交換に来た看護師が異変に気づき、病室はやおら騒がしくなり始めた。
それを見届けると、死神はそっと老婆の自宅へと向かった。
「――なんだ、この不健康な家は!」
築五十年の木造ボロアパート。
二階の一番端にある老婆の部屋は、ゴミ屋敷と見間違えるほどの汚部屋だった。
このまま帰しては、またすぐに病気になってしまう。
死神は重いため息をつきながら、片付けの準備を始めた。
人間は四十を過ぎれば、毎日どこかしらがほんのり不調な状態だというし、六十を超えれば、それが常態化するのも無理はない。ましてや、この環境ではなおさらだ。
「まったく、手のかかる婆だ……!」
死神は、またひとつ規則を破る覚悟を決めた。
奇跡の回復に医師たちは驚いたが、老婆は予後も問題なく、ほどなくして退院した。
とはいえ、これまで誰も見舞いに訪れず、戻るのは侘しいアパート。
見慣れたアパートの前で停まったタクシーは、老婆と大荷物を降ろすと、さっさと去っていった。
これを抱えて二階に上がるのか……。
老婆がうんざりした様子でため息をついた、その時だった。
背後からおもむろに長い手が伸び、荷物を軽々と持ち上げた。
肩をビクリと震わせ、老婆が緩やかに振り返ると――。
そこには、まだあどけなさの残る青年が立っていた。
「……あんたは誰? 私の荷物をどうする気?」
「ひでぇな、婆ちゃん。俺のこと忘れたの? 碧人だよ、碧人」
青年が碧人と名乗ると、老婆は軽く目を見開いた。
だがすぐに首を振り、「そんな人は知らないよ」と荷物を奪い返そうとする。
「本当に忘れたの? まぁ、確かに十年以上会ってなかったもんな。孫の碧人だよ。今年二十になったんだ」
「……そんなわけがない。あの子が、ここにいるはずがないじゃない」
「そりゃ、ずっと顔を出せなくて悪かったと思ってるけどさ。あ、母ちゃんには内緒だから、連絡しないでくれよ?」
まるで信じられない、といった様子だったが、面影が残っていたのだろう。
老婆は「そんな……」と呆然と呟き、皺だらけの顔をさらにくしゃっと歪めた。
――何を隠そう、碧人は死神が化けた姿である。
全くの赤の他人に変身しても信用を得られるはずがない。
家族とも没交渉だったユキコが心を許してくれそうなのは、唯一の孫である碧人くらいしかいなかった。
ちなみに、本物の碧人は東京で大学生活を謳歌している。
最近マッチングアプリで彼女ができたらしく、バイトとデートで忙しそうだ。
ユキコのことなんて覚えてもいないし、覚えていたとしても気にも留めない。
仮にあのまま死んでいたとしても、訃報が耳に届いたかどうかすら怪しい。
それだけ薄い関係だった。
だからこそ、死神にとっては都合が良かったのだ。
まずはユキコの生活を立て直す必要がある。それに、精神的な支えも必要だ。
だから、死神は碧人に成り代わる道を選んだ。
「実はさ、今通ってる大学のキャンパスが、ここから近いところに移ったんだ。今の家から通うには不便でさ、しばらくここに住まわせてもらえると助かるんだけど」
碧人がそう言うと、ユキコはどことなく嬉しそうな表情を浮かべた。
だがすぐに困ったように「えぇ……」と声を漏らす。おそらく、あの汚部屋を思い出したのだろう。
「あ、部屋なら安心してよ。大家さんに頼んでちょっと開けてもらって、掃除は済ませてあるから。荷物も適当に置かせてもらったけど、いいよね?」
「そ、そんな勝手なことをしないでちょうだい! だいたい、貴方は本当に碧人なの?」
「まだ疑ってるの? ほら、免許証ならあるけど、これで分かる?」
偽造した免許証を差し出すと、ユキコは婿の苗字と孫の生年月日を覚えていたのか、「確かに……?」と目を細めながらつぶやく。
まだ疑念を含みながらも、何度も免許証と碧人の顔を見比べていた。
「あんたの母さんが許さないんじゃないの……?」
「だから内緒だって言ってるじゃん。なんか病気してたんでしょ? だったら、婆ちゃん孝行させてよ」
碧人は軽々と荷物を持ち上げると、カン、カンと金属製の階段を上がり、部屋へと運び込む。
そして再び戻ってきて、まだ階段の下で呆然としているユキコに、そっと手を差し伸べた。
「今日はコンビニ飯でもいいよね? 落ち着いたらさ、アレ作ってよ。ハンバーグ。婆ちゃんの俵ハンバーグ、好きだった気がするんだよね」
「っ……」
人間の情報など、伝説の死神の立場であればいともたやすく手に入る。
そもそも、怠惰な部下のおかげで機密情報フォルダのアクセス権は定年後も設定されっぱなしだった。
「いきなりすぎるのよ……何の準備もしていないし、お茶碗だって揃ってないのに」
「じゃあ後で買いに行こうよ。100均のでいいからさ」
碧人がユキコのしわしわの手をそっと握る。
彼女はまだためらっているようだったが、やがてゆっくりと階段を上がり始めた。
ユキコの懐に入り込めたと確信した死神は、心の中で「計画通り」とほくそ笑んだ。
「一限がある日は朝も早いからさ。朝ごはんは俺が作るよ」
「そんな遠慮するんじゃないよ。あんたは勉強に集中しなさいな」
この部屋を大掃除した際、ゴミ袋に詰め込んだのは、冷凍食品の空袋の山だった。
手軽で便利なのは確かだ。死神も愛用しているが、そればかりでは栄養が偏るのも無理はない。
だが今では、孫に精をつけさせるために朝晩の食事を用意し、弁当も持たせるために早起きするようになっている。
誰かのために食事を作ることに、久しく忘れていた喜びを感じているようだった。
「勉強頑張って、いい会社に入るんだよ」
「婆ちゃんは働いたことないんでしょ? いい会社かどうかなんて、分かんの?」
「……私だって働いてみたかったのよ。あの人さえ許してくれたらよかったのに」
時代もあったのだろう。ユキコは専業主婦として生きたことに、未練があるようだった。
しかし、正直そんな話はどうでもいい。今の死神にとって重要なのは――この婆の寿命をどうやって延ばすか、それだけだった。
学校に行くふりをして死神界へ移動し、編纂室の窓際でソリティアに興じつつ、適当に書類整理をする。
このまま健康的な生活を送らせていれば、5000日くらい容易いものだ。
Excelに計算式を入れて確認もしておいた。
2024年5月21日、23時00分。
この日を目指して生かしておけばいいだけの話、ということだ。
「先輩、定年迎えても真面目に働いていて偉いよな」
「俺もああなりてぇな。先輩みたいなキャリアに憧れるわ」
自分を慕う声が漏れ聞こえてきて、死神は満足げに頷く。
食事にありつけるのは嬉しい誤算だったし、計画は順調だった。
だがしかし、困った事態が起きてしまった。
生活環境を整えすぎたせいか、ユキコは死ぬ気配がない。死神の干渉により寿命がよく分からなくなってしまったのだ。
これはこれでおかしな事態だ。5000日と告げた以上、なんとしても、2024年5月21日に死んでもらわねばならない。
そう思いながらも、今日も碧人のためにとワイシャツにアイロンがけをするユキコを見ていると、なんとも言えない感情が湧き上がる。
これまでだって、死神は決して私情を挟まずに職務をこなしてきた。
生まれて数日で死の運命を迎える赤子にも。
寿命の翌月に結婚式を控えていた娘にも。
あと少しで各界を揺るがすほどの偉業を成し遂げようとしていた男にも。
等しく死を宣告し、魂を刈り取ってきたのだ。
所詮は仕事。長くても、一週間でこなしてきた。
だから、こんなにも長い期間、一人の人間に工数を費やすなど、考えもしなかった。
「碧人。あんた、ずっとうちにいるけど、良い人はいないのかい?」
「いたらとっくに出て行ってるよ。そんなことよりジムの時間なんだろ? さっさと行ってきなよ」
「……まったく。あんたが結婚してくれなきゃ、死ぬに死ねないよ……」
死ぬ気配もないくせに、何を言っているんだか。
そう思ったが、死神が扮する碧人も、もう結婚を心配される年になってしまっていた。
さて、当然結婚なんてする気もないが、最近はスマホと格闘している婆をどうしたものか。死神は仕事の合間にマインスイーパーで爆弾処理をしながら、頭を悩ませる。
寿命が短くて悩んでいたというのに、まさか今度は寿命を延ばしすぎて悩む羽目になるとは思わなかった。
「……死なすか」
病気になる様子はない。となると、手っ取り早いのは事故死だろう。
死神が意図的に人間を死に誘うなど大罪もいいところだが、ミスの隠蔽のことしか頭にない今の死神にとっては、些末なことだった。
情はある。食事も惜しい。
だがやはり、伝説の死神としての名声は残したい。
定年再雇用の契約満了日も、もう間近に迫っている。このまま、何事もなく円満に退職したい。
思い悩む間にも日は刻々と過ぎていき。
運命の日は、明日に迫っていた。
「――先輩、話があるんです」
記録管理課に勤める元部下に呼び出された死神は、一仕事終えた後、馴染みの飲み屋に向かった。
元部下は要領が悪く、低評価を受けながらも、もうじき定年を迎えようとしている。
だから、定年再雇用に関する相談かと思ったが、グラスを重ねた後も、元部下は口数少なく視線を彷徨わせていた。
「……今度は何をしでかしたんだ?」
長い付き合いだから、死神にも分かる。また何かしらのミスをして、何とか隠そうとしたものの、どうにもならなくなったのだろう。
これまでにも何度かあったことで、そのたびに死神は各所に頭を下げ、尻ぬぐいをしてきた。
今回もその類だろうと思ったが、元部下は瞳を潤ませ、机に両手をつくと、思いきり頭を下げた。
「――申し訳ございません! 覚えてらっしゃらないかとは思うのですが、最後に先輩が告知の儀をしたときに使ったレポート……入力を間違えたのは俺なんです!」
「……なんだと?」
最後の告知の儀と言えば、まさにユキコに使ったレポートのことだろう。
説明を求めると、元部下は青白い顔をさらに青ざめさせ、流れ出る汗をハンカチで拭っていた。
「本来なら、あれは5,000日だったんです。だから、まだ死期にはほど遠い婆さんでした。入力ミスにはすぐ気付いたんですが、もう魂収穫課に回されてしまった後で……どうしても言い出せなくて」
ピリオドではなく、カンマだったのか……!
あのフォーマットを使う以上はとんでもない打ち間違いだが、言い出せなかったという気持ちは痛いほど分かる。
死神は元部下の懺悔に静かに耳を傾けた。
「レポートを見返したら、ピリオドが消えてたんです。プロパティを確認したら、先輩が最終更新者だったので……先輩が庇ってくれたんですよね? 若手の死神なら、5日と告げてその命を刈り取りにいっていたかもしれないのに、本当にありがとうございます……!」
「…………つまり、ユキコの寿命はあの時点で5,000日だったということだな?」
「はい。さすが伝説の死神! あんな昔の対象者の名前も覚えてるんですね!」
必死によいしょしてくる姿勢。ミスを帳消しにしようという魂胆なのは明らかだったが、今はそれを咎めている場合ではない。どういうことかと必死に頭を巡らせる。
「……上には報告したのか?」
「い、いえ。まずは先輩に報告してからと思いまして……。インシデントにはなっていないはずですが、何か不都合はありましたか?」
「――無い。何も問題は起こっていない。どうせ下っ端の仕事など気にも留めない連中だから、改めて報告する必要も無いだろう。まったく、今回は私だから良かったものの……定年後も働き続けたいのであれば、今後は気を付けるのだぞ」
「ありがとうございます……! はい、肝に銘じます……」
そうは言いながらも、元部下はミスに気付き、十年以上経ってはいるが素直にこうして謝ってきた。
ならば、自分がしてきたことはなんだったのだろうか。
ミスを隠蔽することばかりに囚われ、誰にも相談せずに規則違反を重ねてきた。いや、それどころか、死神界の法をも完全に犯している。
伝説の死神は、まずい酒を飲みながら、元部下にしっかりと奢らせて、帰路に就く。
家では、ユキコが深夜のテレビショッピングをぼんやりと眺めながら、碧人の帰りを待っていた。
「……寝てていいって言ったじゃん」
「なかなか寝付けなかったんだよ」
そう言って、よっこいしょと立ち上がったユキコは、すっかり曲がってしまった腰を支えながら台所へ向かう。
そして、皺の増えた手で茶漬けを机の上に置く。
今日はもう2024年5月22日。
死神は、ユキコの魂を刈り取れなかった。
「――まったく、あの婆。最期まで手を煩わせおって」
碧人に扮した死神は、悪態を吐きながら、築七十年を超えたボロアパートの片付けをしていた。
今日、ユキコは病院で碧人に看取られて亡くなった。
死神が扮した碧人にではない。
本物の碧人にだ。
「私を騙すとは、な」
全く知らなかったのだが、三十を手前にして結婚を控えた本物の碧人は、婚約者を伴ってユキコに会いに来ていたらしい。
結婚式に参列してほしいと請われたようだが、ユキコは首を縦に振らなかったようだ。
私には、参列する資格は無いからと。
その後も細々とスマホでやり取りをしていたようだが、ユキコは死神にはそんな素振りを見せず、碧人として接し続けてきた。
ユキコが何を思って、そうしていたのかは分からない。
もしかしたら、認知症でも患っていたのかもしれない。
だが、最後に本物の孫と嫁、そしてひ孫に看取られて――悪くはない人生だったはずだ。
伝説の死神は、結局ミスを隠し通した。
社長に告げても良かったのだが、あまりにも規則違反を重ねすぎて、バレてからでいいやと開き直った。
今日も多くの人間が死ぬ。一人の人間の寿命が伸び縮みしようが、些末な出来事のはずだ。
結局、今の今まで呼び出しは受けていない。
そして明日、死神も定年再雇用の契約満了日を迎えようとしていた。
「先輩、お願いがあるのですが――」
いりもしない花束と、伝説の死神の名が刻まれた無駄に立派な表彰盾を受け取り、一杯ひっかけて帰ろうとしていた死神は、かつて新卒研修の講師を依頼してきた後輩に声を掛けられた。
「なんだ、私はもうこの会社とは関係ないぞ?」
「いやぁ、先輩にしかお願いできないことでして……。先輩は隠居されるおつもりでしたか?」
「そうだな。猫でも飼おうと思っていたが、どうした?」
「実は俺、独立することになったんですよ。最近は死神も高年齢化が進んでいるでしょう? だからシルバー人材センターを開所するんです」
人間界でも高齢化が叫ばれて久しいが、ついに死神界にもその波が押し寄せてきたらしい。
かつては定年後も再雇用される死神は年に一人いるかいないかだったが、最近では月に一人、二人と増えている。
ある世代を超えれば、今後さらに爆発的に増えるのは目に見えていた。
その流れに乗り、後輩は事業を立ち上げたという。
まさか祝い金でも寄越せと言うのだろうか。一体何の頼みがあるのかと思ったら、後輩はにんまりと笑った。
「いやぁ、先輩。ずいぶんとヤバいことに手を出してたんですね。ログ、調べたら一発ですよ」
「……なんのことだ?」
「またまた、とぼけちゃって。最後の告知の儀……ユキコさんでしたっけ? 人間界に干渉して寿命を弄るなんて、いやぁ、懲戒どころの話じゃないですよ。死神界最大のスキャンダルになるんじゃないですか?」
ニヤニヤと語る彼に、冷汗が流れ落ちる。
……隠し通せたはずだった。それが、どうやら白日の下に晒されようとしているらしい。
「先輩、病気の原因を全部取っちゃったでしょ? 本当は、奇跡的に回復するけれど再発して、5,000日後に死ぬはずだったのに」
「…………」
どうやら、死神が手を下さずとも、病気は勝手に治っていたらしい。
つまり、不要な規則違反だったということか。
しかし、違反は違反。後輩の言うとおり、スキャンダルには違いない。
記者会見で深々と頭を下げる己の姿が脳裏をよぎる。晩節を汚すとは、まさにこのことだろう。
「……私を脅す気か」
身構えたが、後輩は「そんなにビビんないでください」と軽い調子で手を振った。
「すみません、あのフォーマット、実は俺が作ったんです。あの時は連勤続きで頭がバグってて、戯れに作ったものです。削除するつもりだったのに、うっかり承認済みの別フォーマットに上書きしちゃいまして。すぐに直したはずなのに、まさか実際に使われてるとは思わなくて、正直焦りましたよ」
……なるほど。死神は納得した。
あんな分かりにくいフォーマットが通ること自体、おかしいと思っていたのだ。
研修のフィードバックの際、さりげなく後輩に文句も言ったのだが――。
こいつ、上司に報告することなく握りつぶしたな。
しかも、そこへ元部下の入力ミスが重なった。
……なんだ、私は被害者ではないか?
憤然とした思いがよぎり、死神は忌々しげに後輩を睨みつける。
「つまり、何が言いたいんだ。本題になかなか入らないのはお前の悪い癖だぞ」
「いやぁ、元を正せば俺が悪いんで脅すつもりはないんですけどね。シルバー人材センターも立ち上げたばかりで人材不足でして。まずは教育係が欲しいんですよ。派遣する人材は、今後定年を迎える先輩方と、死んだ人間をスカウトしているんですけどね」
「……報酬は?」
「受け取れるお立場だとでも?」
しっかりと脅しているではないか……!
しかも、この老いぼれをまだこき使おうとは、まさに悪魔の所業だ。
そもそも、お前があんなフォーマットを拵えなければ、私があんなミスを犯すこともなかったのに……!
苛立ちを抑えきれないが、逆らえるはずもない。
元をただせば後輩と元部下の失態とはいえ、隠蔽のために重ねた違反の重さは比にならない。
週刊誌にでも売られれば、死神界の一大スキャンダルとして大々的に報じられるのは目に見えている。
拒否権など最初からあるはずもない。
渋々頷くと、後輩は嬉しそうに手を叩いた。
「良かった。じゃあ早速、この人に仕事を教えてもらえますか? どうしたことか、データベースに登録されていた死亡予定日から大きくずれてましてね。総合案内課が扱いに困ってたのを、俺が引き取ったんですよ」
そう言いながら、後輩の背後から現れたのは――白髪を微かに紫に染めた老婆。
ユキコだ。
晩年よりもいくらか若々しくは見えるが、見間違えるはずがない。
「ええと、死神シルバー人材センターで働くことになったユキコです。……どこかでお会いしたこと、ありましたか?」
まじまじと見つめてしまったせいか、ユキコはきょとんとした顔で死神を見上げていた。
そうだ、彼女は死神を知らない。
碧人としてしか顔を合わせていないのだから、当然だ。
動揺を悟られぬようにしながら、死神は視線を逸らす。
すると、後輩はまた悪い顔で「後はよろしくお願いしますね」と言い残し、その場を立ち去ろうとする。
「新しい会社の場所も知らんのだがな……」
文句を背に投げかけると、「後でメールしておきますよ!」と軽い返事が返ってきた。
「……すみません。私は働いたことがないので、色々とご迷惑をおかけすると思うのですが……」
申し訳なさそうに言うユキコを見て、死神は静かに振り返る。
十年以上を共に過ごしたのだ。
そんなことは、知っている。
「……かまわん。どうせしばらくは私が実務もやることになる。レポートの作成はおいおい覚えてもらう必要があるだろうがな」
「は、はい……」
パソコンなど触ったこともないと言い、スマホの広告を全て踏んでいたような婆だ。すっかり弱った顔をしている。多くは望めまい。
だから、この婆がすぐにできることなど――。
「まずは事務所の片付けをしてもらうことになるだろう。それと、職員への食事の提供だな。……月に一度は、俵型のハンバーグにしてもらおうか」
ぱちくりと目を瞬かせるユキコが、緊張をほどいたように笑う。
その笑顔を横目に見ながら、後輩にすっかり弱みを握られた伝説の死神は、明日からの身の振り方について考えを巡らせ始めていた。