試練
「かっえろ〜!」
今、私は高校1年生だ。
いつもは部活があるが、テスト週間のため練習はなく、早く帰れるため上機嫌である。
テストは自体は憂鬱だが、今日は友達とカフェに行って勉強会をするのだ。
部活や家の手伝いに追われる日々。
高校生らしく友達と遊ぶだなんてはじめてだ。
自転車のカギをカチャリとまわす。
サドルにまたがり、ペダルに足をかける。
「よぉーい、どぉん!」
パンッ!!
青白い雷光と共に、まるで徒競走のスタートのピストルのような音が空を駆け巡る。
アメ玉のような雨粒が地面を優しく叩きはじめた。紫陽花についた水滴が斜陽を受けて煌めいた。やっぱり"今日"なのか。
「急げ〜!」
その友達の声を聞き、ペダルをぐん、と踏み込んだ。
1回、また1回とペダルを回す度、雨粒の演奏は暴力的になっていく。
時々友達の声が聞こえた。やばいとか、そういう類のことを言っているのであろうか。
ざぁぁという雨音に声は負け、私の耳には届かなかった。
少し行くとトンネルがあり、1度止まる。
ひと時の曇りのうちに友達が言った。
「…わたし、親に迎え頼むね。勉強会はまたにしよう?」
友達はカッパを持っていなかった。
それもそのはず。朝から雲ひとつない快晴であったのだ。
朝のニュース番組でも、ネットの天気予報にも、30パーセントにも満たない降水確率が表示されていた。
ただこの世界で1人だけ、私だけが今日の午後、雨にされることを見抜いていたのだ。
私の自転車のカゴには黄緑色の雨具が出番を待っている。
「そうだね。風邪ひいても困るし…じゃあまた明日にでも!」
そう言って私は雨の中に飛び込んだ。
「カッパ着ないの?!」
もう既にびしょびしょである。手遅れだ。それに…
こんなにも大粒の雨が落ちてきているというのに晴れているかのように明るい。
これは私の予想通りだ。
この"気持ち悪い天気"は私のための天気だ。
私は水を浴びたあとの犬のように体をブルブルと揺らす。
先程まで水を得て本来の色をしていた制服のスカートが乾いた色になる。
前髪から滴っていた水滴も全て空気中に投げ出された。
今日こそ、今年こそ、あの方のお眼鏡にかなうよう。
下校路の唯一の下り坂に差し掛かったところで覚悟を決めた。
私は目をつむる。
自転車のハンドルから両手を離し、腕を大きく広げる。
まるでちいさな子供が一輪車を漕ぐように、精一杯得意げにしてみる。
―見ていてね。師匠。
吹奏楽の指揮者がするように腕を動かす。
時に滑らかに、時に力強く。
そして、拳を胸の前で握った。
ぴたりと、雨音が止む。
ゆっくりと目を開けるとそこには音と、時間の止まった世界がある。
ただ私の乗った自転車だけが知らん顔をして坂をゆっくりと下っている。
左手側に倒れ込むように腕を動かす。
無数のビーズカーテンのような、空からテグスで吊り下げられているような、そんな様子であった雨粒が、命をもらったように生き生きと踊り出す。
師匠に教えられたように舞う。
師事することを決めた日から、舞の特訓が始まった。
はじめは自転車にまたがって両手を離すだけでも一苦労だったが、今では昔を懐かしがる余裕すらある。
九九の7の段よりもすらすらと次の動作が思い浮かぶ。
だんだんと私の周りに雨粒が集まってくる。
だんだんと雨粒同士がくっついていく。
坂を下りきる頃、私の頭上に大きな、大きな雨水の塊ができていた。
「天の心よ。鎮まりたまえ。泣きやみたまえ。」
このセリフだけは厨二臭くてずっと嫌いだ。
しかたなくそう言って、空に掲げた両手を大きく振り下ろした。
大きな雨粒は水風船を割ったかのように弾け、地面が上にあるかのように空に落ちていった。
それと同時に音と時間が世界に帰ってきた。
先程までは雨音であったものが車の走行音になっている。
ぴしゃぁん!
青く澄み切った空を白蛇のような雷が横切った。
「うわっ!」
下り坂で得た推進力を失った自転車の上でバランスを崩した。
右側を走る幹線道路の反対側の田んぼにまっ逆さまになる想像をしたが、実現はしなかった。
危ないところでハンドルを持ち直した。
持ち直したのだが…
「ぶぇっくしょんっ!」
体だけは、服だけは、田んぼに落ちてしまったようにびしょびしょのぐしょぐしょだった。
師匠からの仕返しだ。
さぁ評価を聞こう。
さぁ早く家に帰ろう。
はじめて晴らせたのだ。
少しは褒めてくれるだろうか。
私の家業は"晴ら師"。
その名の通り、晴らすお仕事。
現在は失われたと思われている天奏術というまじないをするのが仕事だ。
師匠は私の父でもある。
負けず嫌いが玉にきずだが自慢の師匠であり自慢の父だ。
突発的な大雨の天気雨という"気持ち悪い天気"は父から年に一度の課される試練だ。
梅雨の時期に前も後ろも晴れ予報が出た日は父が晴らした日だ。
同時に父が雨を降らす日でもある。
これは私が、天の涙を天の怒槌を空へ帰す、"晴ら師"としての大きな一歩を踏み出した、そんな帰り道のお話。