表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

BL

幸福の克服

作者: 相沢ごはん

pixivにも同様の文章を投稿しております。


(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)

「あっ」

 背後から、かすれたような低く短い声を聞いて、マキオは振り返った。その瞬間、マキオの手を離れた女の身体が、重たい音を立てて地面に打ち付けられた。振り返ったそこには、小学生くらいの少年が立っていた。見られてしまったのか、とマキオは思う。

 終電前のラブホテル街の路地裏で、マキオは女の首を絞めていた。マキオは視線を少年から外し、地面に崩れた女に向ける。ピクリとも動かない女の様子にマキオは満足し、そして女の吐瀉物の付着した自分の服に気付き、少し嫌な気分になる。マキオは、突っ立ったままの少年の横をすり抜けて歩き出し、コインランドリーへと向かう。

 置き去りにした少年のことを考える。あの子は、見たことをきっと誰かに言うだろう。それならそれでいい。

 少し歩いたところで、先ほどの少年が、おどおどした様子で付いてきていることに気付いた。なぜ付いてくるのだろう。マキオは不思議に思う。まさか少年自らマキオを捕まえようとしているわけでもあるまい。理解できないことは気にしないことにし、マキオは目に付いたコインランドリーの灯りの中へと入る。洗濯機と乾燥機がいくつか回っていたが、無人だった。

 マキオは服を脱ぎ、洗濯機に放り込む。上半身裸で、ベンチに座っていると少年が静かに隣に座った。

「あの、僕、見ました」

 声変わりが始まったばかりなのか、不安定な低い声で少年が言う。そうだろうな、とマキオは思う。

「あなたのこと、誰かに言うかも」

 まあ、そうなったらそうなったときだ。マキオはそう思い、少年のほうを見もせずに、洗濯機の中の服がぐるんぐるん回る様子を見つめていた。

「だから、だから……」

 少年は必死な様子で言葉を紡ごうとしている。

「だから、僕のこと、殺したほうがいいです」

 少年のその言葉に、マキオは不意を突かれたような気持ちになった。

「僕のこと、殺してください」

 少年はなおもマキオにそう訴える。マキオは初めて少年の顔をまじまじと見た。誰かに殴られたのか、左の頬が腫れている。少年は可愛らしい顔をしていた。女みたいな顔だ。その声と頬の腫れさえなければ、美少女に見えなくもない。だが、ペラペラとした薄いティーシャツの胸は薄っぺらだし、ぶかぶかの半袖から見える細い二の腕には紫色や緑色とも黄色ともつかない痣がある。こんな棒切れみたいに細い身体では、女のやわらかい身体の代わりにはならないだろう。いくら可愛い顔をしていても、こいつは男で、しかも子どもだ。しかし、それでもマキオは一瞬考えた。この細い首を絞めるのは気持ちがいいだろうか。女の首を絞めるのと同じくらい、気持ちがいいのだろうか。

 マキオは少年から視線を外して立ち上がり、洗濯の終わった服を今度は乾燥機へ放り込み、再びベンチへ座る。その間にも、何度か人が出入りしていたが、マキオと少年を気に留めるような人物はいない。

 マキオが女の首を絞めるのは、趣味のようなものだった。女の首を絞め、女が苦しみに顔を歪めながらマキオの腕などを必死になって引っかき、そして結局は動かなくなる。その様子を見るのが好きだった。終電前のラブホテル街をぶらついていれば、訳ありそうな女が声をかけてくることがある。マキオは、自分がそういう女から声をかけられやすい容姿をしていることを自覚していた。相手が身構えるような美形というわけではないが、初対面の人間に警戒心や嫌悪感を覚えさせるような顔立ちでもない。印象に残るか残らないかくらいの、ごくごく普通の顔立ちだ。そういう人畜無害そうなマキオに声をかけてくる、訳あり女の首を絞めて殺すのが、マキオの唯一の楽しみだった。そういう女を選んでいるせいか、女の身元がすぐに判明することは稀で、なぜかマキオは未だ野放しのままだ。

「警察に行きますよ」

 少年が震える声で言う。行けばいい、とマキオは思う。自分はきっと死刑になるだろうな、とも思う。自らの快楽のためだけに多くの罪なき女性を手にかけた、非情かつ残忍な殺人鬼。情状酌量の余地もない。

「捕まっちゃいますよ」

 マキオがずっと無言なので、少年はどこか不安そうに続ける。

「早く僕のこと殺したほうがいいですよ」

「なんでそんなに自分を殺させようとすんの」

 マキオは初めて口を開いた。

「生きてるの、つらくて」

 少年は少し驚いたように答える。月並みな言葉だとマキオは思った。だが、少年が日常的に誰かに暴力を受けていることは明らかなので、きっと切実なのだろうな、とも思う。

 乾燥機から洗濯物を回収にきた人が入ってきたので、ふたりは少しの間無言になる。人が出て行くと、少年は小さな声で、自分のことをたどたどしく話し始めた。

 少年は、母の再婚相手から虐待を受けているらしい。再婚相手とはいうが、正確には内縁の夫のようだ。少年は、母親の内縁の夫のことを『あいつ』と呼んだ。『あいつ』の暴力に対して母親は見て見ぬふりを決め込んでいた。夜の仕事をしている母親だが、彼女ひとりの収入では苦しいのだろう。母親は『あいつ』に頼るしかなく、逆らうことなどしない。それをいいことに、少年はただそこにいるだけで『あいつ』に暴力を振るわれた。食事も満足に与えられず、小遣いももらえない。まだアルバイトなどができる年齢ではないため、学校で必要な文房具なども母や『あいつ』の服のポケットを探って得た小銭でなんとか賄っていた。そんな生活なので、少年はいつも腹を空かせていた。学校には給食があるので平日はなんとかなるが、母親が給食費を払わないので教師の目が痛い。それだけでもつらいのに、少し前から、少年が入浴していると『あいつ』が風呂を覗くようになった。最近では少年が入浴していると中に入ってこようとする。幸い、浴室には内側から鍵をかけられるようになっていたので、中まで入ってこられることはなかったが、鍵をかけていると『あいつ』は途端に不機嫌になり、風呂から上がると殴られたり蹴られたりする。鍵も、いつか壊されるのではないかと気が気ではない。少年は、こわくて風呂に入れなくなった。『あいつ』が出かけているときを見計らってこっそりと風呂に入るようになった。

 そして、今日のこと。少年が布団でうとうとしていると『あいつ』が自分の布団に入ってきた。きついアルコールの臭いがした。ごつごつした手で身体を撫でまわされ気持ちが悪かった。その手から逃れようと身を捩ると、でっぷりとした身体で圧し掛かられ、身動きが取れなくなった。着ているものを無理矢理脱がされそうになり、「いやだ」「やめろ」と、思わず叫んだ。自分が思うよりも大きな声が出た。そうしたら、「騒ぐな」と言われ殴られた。母は仕事へ出ていて不在だった。もし家にいたとしても、きっと助けてはくれなかっただろう。身体も小さく、非力な自分では力では到底敵わない。おとなしく犯られるしかないのか。少年が絶望しかけたそのとき、『あいつ』のスマートフォンが鳴った。音のする方へ目をやると光る画面が見えた。『あいつ』は音と光に気を取られ少年を押さえ付ける力を弱めたものの、スマートフォンを取ろうとはしなかった。暗闇でただひとつ光っているそれになんとか手を伸ばした少年は、掴んだスマートフォンで『あいつ』のこめかみを思いきり殴った。『あいつ』は呻いて、少年の上から脇へ、ごろりと移動した。その隙に、少年は素早く起き上がり、スニーカーを素足に引っかけると、逃げるように外に出た。

 乾燥機が止まるまでの間、マキオはそれをただ聞いていた。小学校三、四年生くらいに見える少年だが、実際は中学一年生だという。きっと栄養が足りていないのだ、とマキオは思う。

「死んだの? そいつ」

 すっかり乾いた服を乾燥機から取り出し、それを身に着けながらマキオは少年に尋ねる。

「たぶん生きてる」

 少年は首を横に振る。その声には絶望が窺えた。

「残念です」

 少年は絶望をはっきりと言葉にした。

「もう家には帰れない。帰りたくない。帰ったらきっと……」

 泣くのを我慢しているかのような声で少年は言葉を紡ぐ。

「今度こそ犯られる。死なない程度にボコボコにされて、犯されるんだ」

 少年の暗い声は、煌々と明るいくせになぜか寂しいコインランドリーの空間に行き場なく漂っているようだった。

「いっそ、殺してくれたらいいのに」

 暗い声は暗い言葉をどんどん吐き出していく。

「『あいつ』に殺されて終わるなんてクソみたいな人生だけど、生きて辱めを受けるよりは全然マシだ」

「うちにくる?」

 どす黒い言葉を吐き出し続ける少年に、マキオは軽い口調でそう提案する。

「え」

 少年は驚いたようにマキオを見た。

「家には帰れないんでしょ。うちにきたら」

「いいんですか?」

「いいよ、ひとり暮らしだし。うち広いし、きみひとり増えたって問題ない」

 マキオは少年を連れて二駅ほど歩いて自宅マンションへ戻った。コインランドリーへ寄ったせいで、もう終電が出てしまっていたのだ。少年は文句も言わず歩いて付いてきた。

 マキオの自宅は、ほぼ新築のオートロックのマンションだ。母が亡くなってから、父親だと名乗る人物から与えられたものだ。実際に会ったことはない。彼は母の葬儀にさえ顔を出さなかったのだから。マキオ自身、認知もされていない。しかし、その生物学上の父親から与えられたマンションの一室や毎月の有り余るほどの仕送りを、マキオは反発することなく享受していた。部屋に招き入れたものの、少年はきょろきょろと落ち着きがない。

「疲れたでしょ。お風呂入っていいよ。シャワーの使い方を教えてあげる」

 マキオは言い、少年を浴室に案内する。

「ひっろーい!」

 少年は浴室を見て、子どもらしくはしゃいだ声を上げた。

「シャワーだけでもいいし、バスタブにお湯張って入ってもいいし、好きにして」

 少年は興奮したように頷き、「その前にトイレ」と言う。マキオは少年をトイレのドアの前まで連れて行く。

「ねえ、すごい。トイレ、勝手に流れたんだけど。殺人鬼さんてお金持ちなの?」

 トイレから出てきた少年の言い様がおかしくてマキオは笑った。

「俺の父親がお金持ちなの。俺はただの殺人鬼。そんで、スネかじりの大学生だよ」

「殺人鬼さんの名前は?」

 少年がふとそう尋ねてきた。

「知りたい?」

「ううん、どっちでもいい。でも、なんて呼べばいい? 殺人鬼なんて呼ぶの、やっぱりよくないよね」

 質問に質問で返したマキオの言葉に、少年は少し考えてそう答えた。

「じゃあ、マキオって呼んだらいい」

 マキオの言葉に少年は頷いた。マキオは、少年の名前を尋ねなかった。知る必要もないと思ったし、名前を知ってしまっては情が移るかもしれないとも思った。こんな生活、きっと長くは続かない。いつか、近いうちに見つかって破綻するだろう。

 少年が風呂に入っている間、マキオは近くのコンビニで食糧と、少年用の下着や歯ブラシなど、最低限の身の回りのものを調達した。下着以外の当面の着替えは自分のものを貸せばいいだろう。レジに向かおうとして、少年の頬の腫れのことに思いあたり、マキオは冷却シートを追加した。

 風呂から出た少年に着がえを与え、腫れた頬に冷却シートを貼る。それから、サラダと弁当を食べさせ、歯みがきをさせると、マキオと少年は同じベッドで眠った。余分な布団はなかったし、マキオのベッドは広かった。

 自宅に少年を閉じ込めて、マキオは大学へ通った。本当は少年も学校へ行かせたほうがいいのだろうが、学校へ行くと家に連れ戻されるだろう。マキオは、中学一年生用の問題集を購入し、大学から戻ると少年にそれを解かせ、採点と解説をした。少年は文句も言わず、黙々と問題集を解いた。最初は、「意味がわからない。なにがわからないのかわからない」と半泣きだった少年だが、根気よく教えていると、徐々に自力で問題集を解けるようになっていった。

 女を殺していて帰宅が遅くなると、少年は、マキオの腕の新しい傷をわざわざ確認し、「遅かったね、マキオ」と少し不機嫌そうに言う。

「また誰か殺してきたんだ」

 少年は、まるで配偶者の浮気を咎めるような口調で言う。マキオは否定も肯定もせず、黙っている。

「ねえ、マキオ。僕のことはいつ殺してくれるの?」

 少年は、いつもそう言ってマキオを困らせる。

「僕、ずっと待ってるのに」

「俺は女を殺すのが好きなんだ。それに、殺されたがってるやつを殺しても楽しくなさそうなんだもん。気が向かないよ」

 マキオは言い訳のようにそう答える。

「だから、殺す代わりに、こうして監禁してるんだよ」

 そういうことを言うと、少年は半笑いのような表情で、上目づかいにマキオを睨む。

「どうして女の人を殺すのが好きなの?」

 少年の問いに、

「楽しくて、気持ちがいいから」

 マキオは簡単に答える。

「わかんないよ」

「わかんなくていいよ。わかんないのが普通なんだ」

 そう答えながら、マキオは、自分はおそらく少年を傷め付けていた『あいつ』と同じなのだろう、と思う。『あいつ』はきっと、少年を傷め付けることが、楽しくて気持ちがよかったはずだ。

 リビングのソファに座り、握力のトレーニングをしているマキオに寄り添い、少年は本を読む。マキオが外出している間の暇な時間、少年はマキオの本棚に興味を持ったらしい。少年は、新しいおもちゃに夢中になるかのように本を読んだ。

 少年は時折、「幸せというものがどういうものかわからなかったけど、いまのこの状態がそうなのかもしれない」というようなことを、たどたどしく口にした。その度に、マキオは苦しくなった。『あいつ』となにも変わらない自分に、そんなことを感じる少年を、哀れだと思った。

 いっしょに食事をし、いっしょにテレビを観て、そしていっしょのベッドで眠る。ほとんど家族みたいな生活を、マキオは日に日におそろしいと感じるようになっていた。就寝時には、少年はマキオに抱きついてくる。眠っているらしいので無意識なのだろうが、自分はこんなふうに信頼して身体を預けるに足る人間ではないのに、とマキオは思う。そもそも、きっと生まれたときから人間ではなかった。殺人鬼なのだ。だからといって抱きついてくる少年を振りほどくことはしなかったが、マキオは、少年の体温を熱いなあ、と思う。起きているときでも、少年はマキオに抱きついてくることがあった。そんなときも、マキオは、余計な動きをせず、ただ少年のしたいようにさせていた。そして、少年の体温を熱いなあ、と思うのだ。

 マキオは時折、少年の首を絞める夢を見た。少年の細い首は、マキオの両手にすっぽりと収まり、力を入れたときの感触が妙にリアルだった。首を絞められた少年は、いつも笑っていた。その夢を見たときは、とても気持ちがよくなり目覚めるといつも夢精していた。

 このまま少年を監禁していてもいいことはないだろう、とマキオは考え始めた。自分は、『あいつ』と同じなのだ。いつか、少年に対して『あいつ』と同じことをしてしまうかもしれない。そう思うと、おそろしくなったのだ。少年をそんな目に遭わせたくなかった。つらくて逃げてきた先でまでそんな目に遭うなんて、そんな酷いことがあっていいはずがない。冷酷に、ただ快楽のためだけに罪なき女たちを殺してきたマキオが、そんな矛盾したことを考えている。その事実も、マキオにとっては恐怖だった。自分が自分でなくなるような気がした。

 少年をこれ以上ここには置いておけない、とマキオは思う。警察だって仕事をしている。自分はいつかは捕まるだろう。そうなると、少年はひとりになってしまう。居場所がなくなってしまう。だが、少年は家には帰れない。もし帰ったら地獄が待っている。少年をここから解放し、安全に家に帰すためにはどうしたらいいか。マキオの脳は簡単に答えを導き出した。『あいつ』を殺せばいいのだ。

 テレビやネットのニュースでは、少し前から、『連続女性絞殺事件』という見出しが目に付くようになってきていた。マキオは、『ラブホ街の絞殺魔』と呼ばれているらしい。いずれにしても、そろそろ罰を受ける覚悟を決める必要があった。その前に、この生活をもう終わりにしなければいけない。

 しかし、いままで華奢な女ばかりを殺してきたマキオは、中年の男を殺すとなると自信がなかった。いくら握力を鍛えていても、素手での絞殺は難しいだろう。そう考えたマキオは、ネットでサバイバルナイフを購入した。少年に見つからないように駅に設置されている宅配用のロッカーで受け取ることにする。

 準備を整えたマキオは、少年に、「一度、きみの家の様子を見てこようか」と提案した。

「うん。あいつが生きてるかどうかだけでも確認できたらいいかも。死んでてほしいけど、無理だろうな」

 少年は疑う様子もなくそう言った。少年から住所を聞き出したマキオは、いつも『あいつ』が出かけるという午前中の時間帯に少年の言うアパートへと向かった。マキオが少年と出会った、あのラブホテル街の近くだった。

 しばらくアパートの周辺を堂々とうろつきながら、マキオは男が出てくるのを待った。少年の言った部屋番号のドアから出てきた男のでっぷりとした腹を見て、胴体を狙うのはよそう、とマキオは思う。きっと脂肪に守られて、致命傷を与えることはできない。となると、頭部か首か。やはり首だ。

 マキオは、ごく自然に真正面から男に近付き、すれ違う瞬間に、男の首を素早くナイフで切り付けた。首から血を噴き、男は首を押さえながらその場に崩れた。もし致命傷ではなくとも、大量の血を失ってきっと助からないだろう。

 こんなに上手くいくとは思わなかった。だが、返り血を浴びてしまった。汚いな、とマキオは思う。だから刃物は嫌いだ。気付くと、小さな悲鳴と共に人影がすっと通りの角に消えていくのが見えた。きっと、近所の誰かに見られたのだろう。これで本当に終わりだな、と思う。まあいいか、と思ったが、未だマキオのマンションにいるなにも知らない少年のことがふいに頭に浮かび、捕まる前に一旦家に帰ろうとマキオは走り出した。捕まらず帰り着けるかどうかの心配など頭になく、ただ、少年に『あいつ』はもういないということを伝えようと、それだけだった。もう大丈夫。もうこんなところにいる必要はない。安心して家に帰ったらいい。そう伝えるつもりだった。

 目の前の歩行者用信号機がマキオの味方をするように青に変わる。マキオは止まることなく道路の向こう側へ走った。そして、横から接近してきた信号無視のトラックに弾き飛ばされた。そののち、道路に打ち付けられたマキオをトラックは数メートルほど引きずり、そこで停車した。道路に潰れたように倒れているマキオの身体は血だらけで、それが返り血なのか、マキオ自身の血なのか、もうわからなかった。



 目撃証言により、マキオは四十代の男性を殺害した疑いがあるということで捜査対象となった。ところが、採取されたマキオのDNAが、世間を賑わせている『連続女性絞殺事件』の被疑者のものとみられる皮膚片や毛髪のそれと一致したのだ。意外なところで別の事件が解決に向かったため、マスコミは沸いた。マキオの犯行は行き当たりばったりで、もともとなにかを隠そうともしていなかったため、証拠には事欠かなかった。女たちの爪の間や衣服にはマキオの痕跡がはっきりと残っていたのだ。マキオの頭は潰れてしまっていたが、なぜか奇跡的に無事だった腕には、確かに女たちの付けたであろう傷も残っていた。

 令状が下り、家宅捜索がなされ、その際にマキオの部屋でひとりの少年が発見された。マキオのものらしいぶかぶかのティーシャツとジーンズを身に着けた小柄な少年が、広く清潔なリビングのソファに、ぽつんと座って本を読んでいた。その光景の意外さに捜査員たちは驚き、慌てた。

「あなたは誰? どうしてここにいるの? 自分の名前を言える?」

 少年はすぐには口を開かず、ただ放心したような表情で涙を流した。

 少年はこのとき、マキオはとうとう捕まってしまったのだと思っていた。何日も帰らないので心配していたのだ。逮捕されたのならニュースになっているはずだが、こわくてテレビを点けることができなかった。まさか死んでいるなんて思わなかった。連れて行かれた警察署で、少年はこれまでの経緯を洗いざらい話した。自分の名前、通っている中学校、虐待を受けていたこと、母親の内縁の夫にレイプされそうになったこと、その際に殴って家を飛び出したこと、そしてマキオに出会い、自分を殺してほしいと頼んだこと。すべてを正直に話した。警察からは、マキオが『あいつ』を殺した後、事故で死亡したのだと聞かされた。飲酒運転で信号無視のトラックに轢かれたのだということだった。

「うそだ」

 少年は震える声でそう呟いた。

「うそでしょ」

 そう言って、少年は静かに涙を流した。


 マキオが連続殺人だけでなく未成年を誘拐、監禁していたということで、さらにマスコミは沸いた。マキオの名前は一気に世間に知れ渡る。世間はマキオを凶悪だと罵り、マスコミはセンセーショナルに騒ぎ立てた。

 マキオが、皮肉にも槙尾正義という名だったことを、少年はテレビのニュースで知った。

 『連続女性絞殺事件』の被疑者と見られる槙尾正義は、通っていた大学では誰とも親しい付き合いをしていなかったらしい。しかし、話しかけられれば笑顔で応じる、人当たりのよい人物だったという。監禁されていた少年は、なぜ殺されず無事だったのか。槙尾正義は小児性愛者だったのか、だとしたらなぜ大人の女性ばかりを狙ったのか。女性に対しては憎悪を覚え、少年に対しては歪んだ愛情を抱いていたのでは。などと、憶測の域を出ないが、人々の興味を引くような報道がされた。監禁されていた少年に関しての詳しい情報は、少年が未成年だったことはもちろん、少年の家族から捜索願が出されていなかったこともあり伏せられていた。

 マキオによる犯行の証拠はじゅうぶんにあったものの、被疑者が死亡しているため、書類送検ののち、不起訴となった。そんなふうにひとしきり世間を賑わせた『連続女性絞殺事件』だったが、『ラブホ街の絞殺魔』である槙尾正義が、とある大物政治家の隠し子らしいという噂が流れ始めたあたりで、報道はピタリと止まった。

 みんな好き勝手言っている、と少年は思う。マキオが女を殺すのに理由なんてない。女に憎悪なんて感じているはずもない。楽しいから、気持ちがいいから殺していただけだ。あえて理由を挙げるなら、それだ。趣味だったのだ。最悪の趣味ではあったけれど。

 だけど、マキオは結局、少年のことは殺してくれなかった。僕が女じゃなかったからだろうか。僕を殺すよりも『あいつ』を殺すほうが楽しかったとでも言うのか、そんなことを思ってみたりするが、本当はちがうのだと、少年は理解していた。マキオが『あいつ』を殺したのは、きっと少年のためだった。少年の憂いを取り除こうと思うくらいには、マキオは少年のことを考えてくれていたはずだ。そういう意味では、「歪んだ愛情」という陳腐な言葉は、意外とふさわしいものだったのかもしれない。だって、マキオは少年にやさしかった。ごはんを食べさせてくれて、怪我の手当てをしてくれた。勉強を教えてくれたし、甘えても邪険にせず受け入れてくれた。本を読むことを覚えたのも、マキオの部屋に本棚があったからだ。マキオは、被害者たちにとっては絶対的に凶悪な人物だったが、少年にとってはぼんやりとした正義の味方だった。

 その後、少年は親元を離れ施設に入った。少年がそう希望し、母親も反対はしなかった。

 慎ましやかだが衣食住を与えられ、誰からも虐げられることはない。施設に入居する際に転校をし、それ以来、ひっそりと穏やかに暮らしている。学校で友だちもできたし、給食費も施設がちゃんと払ってくれる。授業に付いていけないということもない。図書室には、マキオの本棚の蔵書以上のたくさんの本がある。中学生でも、許可さえ得ることができれば夕刊配達のアルバイトをすることが可能だということも、少年は施設に入ってから知った。必要なものが保障された、安心安全な生活。以前よりは確かに幸せだった。だが、マキオという殺人鬼と暮らしたあの日々が、少年にとって、きっと人生でいちばん幸せだった。あの幸福を超える幸福なんて、はたしてこれからの人生に存在するのだろうか、と少年は思う。そう思うと、自分がたまらなく不幸な気がしてくるのだった。



ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ