心の中ではフルマラソン
最初に考え始めたのは、体から要らない肉を削ぎ落すことだ。エステで脂肪吸引をしてもらう方法も考えたが、脂肪細胞が無くなる事の恐ろしさを説くウェブ情報が、私を怯えさせた。
なので、体内にぎっちりある脂肪細胞は内在させることにして、普通の方法でダイエットを試みた。筋肉を鍛え、食事を変え、脂肪を燃焼させて体の外に出そうと言う作戦だ。
生れて初めてのダイエットのため、私は知識を欲した。
不細工なデブと言う事で有名だった芸人が、筋トレによるダイエットに成功して細マッチョになる姿を観たり、特定の物だけを食べて体重を減らす方法で10kg以上のダイエットに成功した一般女性の成果を観たりした。夜食としてポテチを食べ、口の中を濯ぐために甘い炭酸水を飲みながら。
情報を得て行く間に、私はふと手を止めた。パソコンの画面の中で、ポテチを食べている人が居ないのだ。砂糖入り炭酸水を飲んでいる人も居ないのだ。
私は、普段の皮脂ではなく、芋の纏っている油で汚れた指を、じっと見た。
2袋目に突入していたポテチを半分残したまま、私は自分の腹をいっぱいにしている者達を思い出した。米の飯と具沢山の味噌汁と、主菜副菜とデザートを「きちんと三食」食い、小腹の空いてくる10時と15時にマーガリンとジャムを挟んだコッペパンをむさぼり、食物繊維の必要性を感じるとポテチに手を伸ばす。
いや、必要だと思っているわけではない。私は、食べることは息をするのと同じだと思っているのだ。それも、脂肪細胞が喜ぶ、油のたっぷり入った食物を。
そう悟り、我が身の愚かさを、けたたましく笑ってごまかした。
そして、買い置きのポテチと、箱買いしておいた炭酸水を、とりあえず全部食べた。捨てるのはもったいない。だったら、今日は最後の晩餐としておやつ達を食べつくし、明日から減量に励もう。
日曜日に、生まれて初めての運動をしてみた。長時間歩くことは有酸素運動になると知ったので、散歩をしてみた。早く歩くと息苦しくなるし、何せ膝が痛いので、ジャージ姿にサンダルでぶらぶらと近所を徘徊した。何となく自販機の前で立ち止まって、コインを投入した。
そして、ダイエットコーラを選ぼうとしていた自分に気づいて、「意識が変わってきている」と感じた。
そうだ、私は痩せたいのだ。痩せるために、天使と手をつなぐために、こんな、膝が痛くつまらないだけの徘徊をしている。だけど、心の中では全力でマラソンをしているのだ。
私は感動の涙を浮かべながら、ダイエットコーラのボタンを押し、出て来た冷たい缶ジュースを一気に飲み干した。
家に帰ると、母親が「何か用でもあったの?」と聞いてきた。「別に」と答えて、夕食の香りがするダイニングに行った。
その日の夕食は、大人の両手ほどのハンバーグと、皿の半分を埋めるフレンチフライと、山盛りの飯と、どんぶりに入ったアサリと野菜の味噌汁、そしてデザートはプリンだった。
私は、味噌汁を残す事にした。何も手を付けずに、「これは要らないから、鍋に戻して」と言って、母親にどんぶりを渡した。
「なんで?」と、母親は聞いてきた。「いつも三杯は食べるじゃない。今日もいっぱい作ったんだから、食べてよ」と、食べるのは当たり前とでも言うように過食を勧めてくる。
「ダイエットしてるから」と、私が言うと、母親は「は?」と言ってから、大笑いして私の肩の肉をべちっと叩いた。私の要らない肉が、ふりそでの方までたふたふと揺れる。
「何言ってんの。ダイエットなんて、今の世の中に必要ないわよ。体が大きいほうが他人を安心させるんだから」と、母親は謎の信仰を振りかざす。
「体が大きいわけじゃない」と、身長165cmの私は主張した。「あんたが毎日食わせすぎるから、体中に要らない肉がついたんだろ。豚みたいに食わせようとするな!」と。
中年の域に到達して、ようやく親の意向に反抗した。「豚みたい」の言葉は、私の心も母親の心も傷つけた。
私が癇癪を起していると思った母親は、「じゃぁ、今日の夕飯は要らないのね?」と言って、私の席に置かれていたハンバーグとフレンチフライの皿を一番に引っ込め、生ごみの袋に投入しようとした。
「もったいない!」と、私は叫んだ。反射的に、「食べれる物を捨てる」と言う行動が非道徳的に思えたのだ。
「あんたが食べないって言ったんじゃない!」と、母親は何故かキレ返す。その両眼には、怒りと一緒に涙が浮かんでいる。「喜ぶと思って、一生懸命作ったのに」と、お仕着せがましく親の愛を説く。
「父さんと母さんが分けて食べればいいだろ?」と、私は打開策を申し出た。
「こんなに大きい肉の塊、あんた以外食べれるわけないじゃない」と、母親は言う。
其処に、罵り合いを聞きつけた父親が来た。「何怒鳴ってるんだ?」
母親は「哀れな妻モード」に入って、私が母親の料理なんて食べたくないと言ったと言いつけた。私は、夫に子供の言う事を聞かせろと懇願するお母さまの脇から、「味噌汁を要らないと言っただけだ」と述べた。
「じゃぁ、捨てるのは味噌汁だけで良いんじゃないか?」と、父親も打開策を出した。
そして、私の目の前には大人の両手ほどのハンバーグが戻ってきた。