秋刀魚のある幸せを
握手会の当日、朝から風呂に入って身だしなみを整えた。シャツとスラックスの他に、おろしたてのジャケットと、よく磨いた革靴を身につける。
会場まで、ドキドキしながら歩いた。手汗をかかないように、ジャケットのポケットの中でハンカチを握りしめながら、スタッフにチケットを渡し、長いファンの列を待つ。
列は、みみりんの向かって右から、いろは坂の形状を取って伸びており、長話をしようとするファンは、スタッフに肩をつかまれて、左のほうの出口に流される。
男だけじゃなくて、女性や小さな子供、その親、オバサンやオジサン、色んな人がいる。流石によぼよぼの老人はいなかった。
遠くから見てる間も、みみりんは一人で色んな人達と握手を交わし、短い言葉を交わし、お礼を欠かさない。
やっぱり、みみりんは、私達「みみり教」の信仰している通りの、純粋な天使だった。だけど、もう一つ分かった。19歳になった彼女は、確かに成長している。心だって、12歳の時とは違うだろう。
彼女も、感情や好き嫌いのある、人間なのだ。だけど、応援していると声をかけてくれる人達には、しっかり応えようとしている。
そいつが、いかにデブでも、顔にふきでものがあっても、手がべたべたして居そうでも、みみりんは全然嫌な顔はしない。
実際、握手をする直前まで指をしゃぶっていた小さな子供の手でも、平気で握り返していた。
アイドルって言うのは、みんなに「理想と夢を見せる仕事」なんだ。
そして、私の握手の番が回ってきた。私は天使と手を握る時、「君のおかげで変われました。ありがとう」と伝えた。細かい事を言っている時間は無い。みみりんは、この後も何百人と言うファンと手をつながなきゃならないんだから。
みみりんは、私の何が変わったのかは分からないだろう。だけど、「ありがとうございます」と言って、両手で私の手を包んでくれた。
きめの細かい、華奢な指の感触は、まさに「アイドル」のものだった。
こうして、私の天使と手をつなぐ夢は、成就された。
会社の屋上で、空にみみりんのお姿を思い浮かべる。昔の漫画の真似だ。其処にみみりん本人は見えなくても良い。幻覚を見たって面白くない。でも、空に思い浮かべるって行動は、気分の問題だ。
食後のラジオ体操をして、腕時計を確認する。後10分で午後の仕事が始まる。そろそろ戻らなきゃな、と思っていた。
そこに、「木下さん」と、同僚の声が聞こえた。ずっと前に、世の男共に「50kgもあると女性として見てもらえない」とぼやいていた女性の同僚だった。
その同僚は、「これ、読んで下さい」と言って、手紙を渡してきた。心なしか、彼女の両頬はほんのり赤らんでいたように見えた。
私は、生れて初めて、異性からの恋文と言う物を読んだ。
人生はトントン拍子には行かないと言うが、100kg越えからの、約40kg以上を削る、長い長い減量の期間から考えれば、トントン拍子にその話は進んだ。
恋文をくれた女性の同僚、稲垣さんと、結婚を前提にお付き合いを初めて、1年間お互いを知るために付き合った後、結納を交わして、入籍するまでの話だ。
稲垣さん…いや、伊智子さんは、確実に体作りを達成して行く私を「決めたことはやり通す力を持った人だと思った」と、恋文に書いてくれていた。
その、決めた事をやり通せた原動力は、アイドルに対する恋心だったんだと伝えると、伊智子さんはますます私を気に入ってくれた。その恋心を分けてほしいと言われて、私は「喜んで」と答えた。
私達はめでたく両想いとなった。
伊智子さんがどんな女性かって言ったら、メイクや体作りに興味があって、ごく一般的な女性だと思う。そんなにギラギラしてないけど、野暮ったくもない。
私の思い違いかもしれないが、笑った顔が、みみりんに似ている。何より、母さんみたいにイカレチャッテいない、当たり前の感覚を持ってる所が、一番私の心にフィットした。
入籍と同時に実家を離れ、マンションを借りた。それから二人で貯めた貯金を使い、夫々の友人を呼んで、細やかな式を挙げた。
歯磨きをしている私の後ろで、娘と息子が、どっちが先に洗面台を使うかでじゃんけんをしている。彼等は私の肥満遺伝子を継いでいるので、少し太りやすい。
栄養管理に気を付けて、体を動かす遊びを「楽しい」と思ってくれるように、ボールや縄跳びを与え、遊具のある公園に頻繁に遊びに行った。
私が家事を受け持った日は、伊智子さんは子供達と一緒に公園に運動をしに行く。眠る前に家族で筋トレをするのは日課だ。
母さんが退院できたと言う知らせを聞いた後日、実家に行って、私が結婚した事と、子供がいる事、つまり母さんの孫ができた事を教えた。私が、母さんの恋人ではないんだと言う事を、間接的に伝えた。
母さんは、何の涙かは分からないけど、両頬がグチャグチャになるくらいに涙を流した。そして、「ごめんなさい」と、小さく呟いた。
父さんから聞いた話によると、母さんは父さんに、「やっとあなたの姿が見えた気がする」と言っていたそうだ。母さんは、ずっと「昔の恋人の面影」に憑りつかれていたんだ。
たぶん、これからの道のりも長いだろう。良好に進んでると思っても、訳の分からなくなる極度の空腹も、停滞期も、リバウンドもある。
あの、一年半に及ぶ減量と言う苦難は、私の人生の教訓に成った。
もし、子供達が今後、ブクブクと太り始めるようだったら、私は彼等に声をかけてあげよう。「まず心の脂肪を脱げ」と。
今日の夕飯の係は私だ。秋刀魚を塩焼きにして大根おろしとショウガを添えよう。




