解放
川に飛び込んだ私たちは、海を目指して泳ぎ始めた。
でも海馬が早すぎて、すぐに追いつけなくなってしまう。ヒッポの泳ぎ方はなんかこう、普通じゃない。
海馬のお腹から先は水の中では魚の形になるんだけど、それを蛇のとぐろみたいに巻いてシュっ! と伸ばすんだ。その一蹴りで百メートルくらい一気に進む。ヒッポは水中世界の最速に違いない。
というわけでナウエルと一緒に背中に乗せてもらうことにした。効率重視だ。え? なんで転移しないのって? 魔力が勿体ないからだよ! 魂の解放でしこたま魔力を使う予定だし、グレテルの結界のせいか、魔の森で魔素をあんまり補給できなかったからね。節約しないといけない。
膝の上で白い袋がしゃらしゃらと鳴っている。中に入っているのはグレテルから貰ったたくさんの魔宝石だ。キルケーが千年前に魔の森に隠していたものなんだって。
河口に出ると、魔物イルカたちが楽しげに跳ねているのが見えた。
(イルカくんはどこだろう)
私は幼馴染の友達を探した。大怪我をしていたけど無事なんだろうか。
その時、一匹のイルカが群れから離れて寄ってきた。
「ギイギイ」
「イルカくん! 良かった! 元気になったんだね」
大きな傷がいくつも開いていたお腹のあたりは、白い筋みたいな傷跡が残っているだけだ。泳ぎも前と変わらずしなやかでホッとする。
思わず頬擦りする。イルカくんが無事でよかった。
「君の名前はラカルというんだよね。エル・クエロに教えて貰ったよ」
「ギイ」
(ぶるるっ)
海馬の鳴き声に前を向くと、海中に転移魔法陣が出現していた。
ヒッポは魔法使えるのかー、助かる!
でもなんで最初から転移魔法を使わなかっただろう。もしかして、ラカルがここで待っているのを知っていて、私を会わせる為にここまで泳いできてくれたのかな。
私は感謝を込めて海馬の美しい首筋を撫でた。翡翠の瞳が優しく細められる。
「じゃあ私たちはいくね。ラカル、魔法陣を頼んだよ」
「ギイギイ」
魔物イルカのラカルには、ここに残って魔法陣の見張りをして貰うことにした。何が起こるか分からないから、すぐ避難できるように、魔法陣は維持しておかないとね。
***
目を開けると私たちは巨大な尖塔の真下に漂っていた。
「ここは……研究塔? ずいぶん荒れてるね」
キルケーの過去では、壮麗な大聖堂のような建物だったと思うのだけど、見る影もない。全体的に褪色し、ひどいところは崩れている。他の尖塔がかつての形状を保っているのと比べると、異様な劣化の仕方だ。
いったいなぜ? と首を傾げていると、ナウエルが慌てて私を海馬から引きずり降ろした。
「まずい。早く降りろ」
「え?」
「ぶるるっ!」
ズズーン……
激しく嘶いたあと、海馬は研究塔に突進した。
「昔からこうなのだ。ヤツは異様にこの尖塔を敵視していてな……。一体なぜかと思っていたのだが、まさかヤツの魂がここに閉じ込められていたとは」
「そっか。最深部の入り口は、この尖塔だったね」
ナウエルを見ると「ああ」と短く頷いた。彼は最深部に閉じ込められている魂に、長いこと興味を惹かれて研究していたそうだ。壮大で美しく、永遠に手の届かない何かを秘めた、不滅の魂。この世界に一つだけの特別な魂。
彼はこの魂の持ち主を、ずっと神や天使のものだと思っていたそうだ。
「まさか海馬、君のだったとはな。 おい! 尖塔が崩れたら魂の部屋に行けなくなるぞ。今結界を解いてやるからこっちに来るんだ」
「ぶるるっ」
鼻息荒く戻ってくる海馬に思わず苦笑する。ちょっとヒッポってさ、無邪気というかアホの子なところがあるよね……。だからナウエルもすごい魂の持ち主だとは思わなかったのかな。
ああー、でも【隔魂術】の影響で精神荒廃起こしてるって可能性は十分あるな。だって六千年だよ? まともでいられるワケがないというか。うん、早く解放してあげよう。
尖塔には扉が見当たらず、ただ外壁の一部に魔法陣が描かれていた。かつて黒髪紫眼の『研究員』たちは、この魔法陣に魔力を込めて出入りしていた。一般市民は決して立ち入れないようになっていたのだ。
ただし人魚にとっては、泳ぐより容易く解ける結界だ。魔法陣に指を添えるだけで、ウニョーンと外壁に穴が開いた。
尖塔の内部は没入装置の塔と同様、綺麗なものだ。魔法生物で作られた内装は劣化知らずのようだ。ただし外壁の崩れの影響か、ところどころに大きなヒビが入っている。
まさか私たちがここにいる間に崩れてくるってことはないよね……? ないと思いたい。
広い玄関ホールには、例の泡がいくつも漂っている。これに乗って任意の階層に行けるそうだが、地下に行くには階段を使う。
階段室の扉には、やはり結界が張られている。
「この先の結界は特殊なもので、俺には解けなかった。君もそうだったんだろう? 海馬よ。」
「ぶるる」
ナウエルの問いかけにヒッポの翡翠の瞳が強い輝きを放つ。
驚いたことに、目の前に展開されている結界には、私の前世の世界の技術が応用されているようだった。魔法とは全く異なる技術体系……海馬とて解除不可能なはずだ。こんなものを魔法陣に取り込むなんて、キルケーは本当に凄い人だったんだな。
グレテルから渡された袋の中から、白色に濁った魔宝石を一つ取り出す。魔力を流すと、硬質な音と共に結界が砕け散った。
そのあとは緩やかな下り坂をひたすら進む。多数の罠が仕掛けられていたが、グレテルから貰った魔宝石で全て解除できた。罠と結界を仕掛けたのはキルケーだもんな。
彼女の協力が得られてよかった。そうでなければここまで辿り着くのは難しかっただろう。
「眩しい……」
私たちは、とうとう最下層の小部屋にたどり着いく。ここが海馬の魂が在る場所だ。
「あれがヒッポの魔宝石?」
海馬の魂を隔ているのは、特大の魔宝石だった。水晶の透明な海に数多の星が輝いている。
(なんて綺麗なんだろう)
いつまでも見ていたかったけど、頭を振って袋の中から漆黒の魔宝石を取り出す。【隔魂術】の解除式が刻まれているものだ。グレテルによれば、これに海馬と一緒に魔力を注ぐ必要があるそうだ。
六千年も前にこの魔宝石を用意していたキルケーに思いを馳せる。
彼女は自分の魂を犠牲にして海馬の【白夜】を解除した。メガラニアへの復讐の為に。でも解除できたのは【白夜】だけであり、【隔魂術】はそのまま残ってしまった。キルケーは海馬の魂を完全には解放できないことに罪の意識を抱いていた。だから彼女は、あらかじめこの魔宝石に術式を刻んでいたのだ。いつかこの囚われの魂が解き放たれることを願って。
「ヒッポ、ようやくこの時が来たね。【隔魂術】の解除にはあなたの魔力が必要なんだ。一緒にこの魔宝石に魔力を込めて」
「ぶるるっ」
「俺もやろう」
そう言っている間にも、手のひらの魔宝石にぐんぐんと魔力が吸い込まれていく。海馬も魔力を込め始めたようで、漆黒の魔宝石が燦爛と輝き始める。
(う……これ、すごくキツイかも。魔力が吸い取られすぎる)
あまりにも魔力消費が多すぎて、頭の中に警戒警報が響く。このまま続けたらまずい……もしかして気絶してしまうかも。でもここで止めてしまったらどうなるか分からないから、続けるしかない。隣のナウエルも青い顔をしている。
――どうでもいいけど私の顔、絶対また魚龍になってるな。
冷や汗を流していたら、徐々に魔力の減りが遅くなってきた。
見ると、漆黒の石と海馬の水晶が眩い光の帯で繋がっている。そして次の瞬間、二つの魔宝石は激しくぶつかり、弾け飛んだ。
世界が真っ白になる。
***
「×!“#___! ×○rッ!!」
轟音に混じって、耳障りな叫び声が聞こえてくる。
言葉になってないのに、なぜか責められている気がして苦しくてたまらない。
全身に震えが走る。逃げたい、隠れたい……こわい。
「ヴィオレッタ、大丈夫か? すごい圧だ……部屋ごと破裂するぞ! 海馬よ天井を吹っ飛ばせ! 上を目指すんだ!」
「ぶるるっ、ぶるるっ」
激しい音と共に、恐ろしいほどの魔力がゴオッと上に向かって抜けていくのが分かった。海馬が天井を破壊したらしい。
強い流れに体が浮き上がる。
私はわけがわからないまま、力強い腕に抱きしめられ、真っ白な世界を垂直に突き進んだ。
(上はだめ。怖い声がするから、そっちに行きたくない! )
必死で訴えるが声にならない。ナウエルの胸に縋り付いたまま、異様な叫び声にどんどん近づいていく。
やがて上昇が止まり、ふわりと床の上に降り立ったのがわかった。
「ヴィオレッタ、ひとまず逃げてきたぞ。海馬の魂から魔力が溢れ出て、部屋ごと破裂しそうになったんだ。天井に穴を開けてなんとか防ぐことができたが、危なかった」
「ナウエル、ここはどこ? あの嫌な声は一体」
「ここは塔の上層だ。メガラニアの研究室だったところだな。声の正体は分からない」
真っ白だった視界が徐々に晴れてくる。
広い円型の大広間のようなところだが、大きく傾いだ上に、中心部に大穴が空いている。壁もヒビだらけで、今にも崩れてしまいそうだ。
だがそれよりも私たちは、床の上で蠢いている異形のモノに目を奪われた。
――ギェ、ギィヤアアア!
思わず耳を塞ぎたくなるような叫び声は、床でのたくっている巨大な芋虫みたいなモノから発せられている。どうやらさっきから聞こえてきた耳障りな叫び声は、この生き物? のものだったようだ。
ガラスのカケラのようなものが散乱した床には、おかしな姿の死体だらけだ。犬の体から人の首が三つ生えたもの、ツノの生えた蛸、全身が目だらけの赤ん坊など、悪趣味極まりない。その死体の山の中で、芋虫だけが青黒い血を流しながらグネグネと動いている。
「なんと……こいつは今になって命を得たというのか」
「なっ、なっ、これは何? ナウエル!」
あまりのグロテスクさに声が詰まる。見たこともないほど醜悪な生き物だった。
「メガラニア時代の人造生物さ。といってもコイツは未完成の試作品といったところだろうな。ガラス管の中で永遠に死んでいるはずだったのに。この芋虫ときたら一体なぜ生きているんだ。まさか、さっきの海馬の魂の解放の影響か? 莫大な魔力が放出されたことで、命を得てしまったのか。しかし、……なんということだ。魂まで宿ってしまっている」
「ひっ、でもこの芋虫みたいの、体が溶けてきてるよ」
「ああ。不完全な肉体だからな。ガラス管から出たら泡になって消えてしまってもおかしくはない。ひどいもんだな」
なんてことだろう。残酷すぎるせいか、醜さへの嫌悪からか、震えが止まらない。心の底から恐怖が湧いてきて、足がガクガクしてしまう。
――ギョベェエエエ!
芋虫が絶叫しながら真っ黒な瞳で私の方を見て、こっちに這いずってくる。心臓が止まりそうだ。
その目は絶望と憎しみに染まっていて……。
「こいつ、一思いに殺してやった方が」
「待って!」
私はあることに気がついて叫んだ。私のつま先から少し離れた床の上に、一粒の魔宝石が落ちているのだ。手に持っていた袋から、着地の衝撃で落としてしまったものだと思う。芋虫が目指しているのは私ではなく、どうやらその石のようなのだ。
体が溶けていくのにも構わず臓物を引きずりながら、その褐色の魔宝石に向かって這い進んで来ている。
(あれは、あれは確か主治医の魔宝石だ)
全身に鳥肌が立つ。
キルケーの過去で私は見た。主治医の記憶と人格が、その褐色の石に落とし込まれるのを。
(魂の持ち主は、その一部である魂のカケラに強く惹きつけあう。ということは、主治医の魂のカケラに必死で向かっていくこの芋虫はもしかして)
私は魔宝石を掴み、芋虫に向かって投げた。
――ギェ! ゲエエエ
芋虫は床に転がった魔宝石を、顔をうちつけるようにして受け止めると不器用に唇に挟んだ。このまま飲み込むつもりだろうか。
「ナウエル、隔魂術のやり方知ってる? この人にかけてやって」
「一体何事だ? ヴィオレッタ。この人だって? この芋虫がこの人造魂の持ち主だとでも?」
「そうだよ! お願いだから、今すぐかけて。このままじゃ、魂のカケラと融合できないまま死んでしまう」
ナウエルは「一体誰の人造魂なんだ?」とか言いながらも、すぐに芋虫に隔魂術をかけてくれた。
褐色の石はぼんやりと光を放ち、芋虫は静かになった。もしかして死んでしまったのかもしれない。
「ヴィオレッタ、こいつが誰だか心当たりがあるのか」
訝しげなナウエルに、曖昧に微笑む。
私は静かに芋虫に近寄り、そのそばに膝をついた。
動かない芋虫の顔を覗き込む。
分厚い唇も、土気色に変わったブヨブヨの肌も、無数にシワの寄った胴体も、青黒い血管が透けて見える重たい瞼にも、見覚えはない。
――ああ、私ときたら。
いつの間にか彼女の面影を必死に探している自分に気がついて、弱々しい笑みが浮かぶ。
もう本当に過去のこと、前世のことなのにね。
(魂とそのカケラは、うまく融合できただろうか。この生き物の命が尽きるまでに、ちゃんと元に戻れただろうか)
おぞましい姿に慄きながらも、目が離せなかった。ぐったりと力の抜けた太い腹からは、臓物がこぼれ落ち、悪臭を放ちながら腐っていくというのに、私は彼女の体に手を伸ばした。
なぜだろう?
前世で誰よりも慕わしかったのに、遠い人だった。触れて欲しくても、叶わなかった。だからだろうか。
だからこの指は彼女に触れたいのだろうか。触れて、どうしたいのだろうか。
今更、本当にいまさら。
「かあさん。」
そう小さく呟いたその時、芋虫の青黒い瞼がカッと見開かれた。
赤く燃える瞳が、見覚えのある嘲りと憎しみに燃え上がるのを、私は見た。
「げベェぇエエエエッ!!」
恐ろしい叫び声と共に芋虫の口から熱い液体が迸り出て、私の顔、首、胸、頭、腹、手足……全身にかかる。
――熱い、痛い、これは酸!? からだが、顔が、痛い、痛い、熱い、熱い!
私は叫び声を上げながらのたうちまわった。ナウエルが慌てて駆け寄ってくる気配がするが、途方も無い熱さと痛みに絶叫し続けることしかできない。
「ヴィオレッタ! ヴィオレッタ! まずい、すぐに洗い流さねば」
ナウエルが水魔法で私の体を濯ぐが、余計に熱が広がって苦しい。
自分自身の絶叫がわんわんと響いて煩い。建物が崩れるような轟音も煩い。
遠くからにヒッポの嘶きが聞こえる。ああ、ヒッポは魂をちゃんと取り戻せただろうか。メガラニアを、海底の魔素湧出孔を塞いでいる大陸を、浮き上がらせたいと願っていたが、今まさにそれが行われようとしているのだろうか。
いや違う、きっと全てが破壊され、全てが土塊に戻されようとしているに違いない!
破壊に次ぐ破壊、爆発に次ぐ爆発、全ては踏み躙られて砕け、その小さなカケラでさえ溶かされて無になってしまう。
私はシューシューと全身が溶けていくのを感じながら、凄まじい轟音と振動に世界の終わりを思った。本当に終わって欲しかった。だって痛すぎて辛すぎたから。
目が見えなくなって耳も聞こえなくなって、口も聞けなくなってもまだ痛かった。ドロドロと溶けていく体が厭わしく、清潔な炎が懐かしかった。早く全身を包んで燃やし尽くし、痛みから解放してほしかった。
私に吐きかけられた酸、憎悪で濁った瞳、嘲りに歪んだ表情、その全てを忘れたかった。
(――かあさん、なんでそこまで私を……)
その時だった。輝く何かが、ごおっと音を立てて私を包んだのだった。




