水牢に星は傾く
肉が腐るにおい。たえまなく打ち寄せる波でも洗い流せない、古く積み重なった腐臭。
暴力的とも言える臭気に、ナウエルは眠りから叩き起こされた。
たまらず鼻をつまんだが、咽の奥まで苦い。どうやらくさったもので濁った水の中にいるらしい。出口を求めて暗闇を泳ぎ回ると、指先が何かに触れた。
鉄の棒だろうか。出口らしきあたりを、立ち並ぶ鉄の棒が塞いでしまっている。
なんとか水面に顔を出し、ひとりごちる。
「まいったな、ひどい匂いだ。まるで呪いだ」
「祝福だ」
嗄れた声にはっとして振り返ると、そこには朽ちかけた流木のようなものが浮いていた。
流木の裂け目から声が漏れる。
「肉は朽ちても魂は還れるのだから、祝福だ。なのに死者たちは皆ここを恨む。俺は腹立たしいぞ」
どうやらこの流木は喋るらしい。こんな魔物は見たことも聞いたこともない。
――気味が悪いな。
ナウエルは静かに後ずさった。こいつは何だ。直感が浮かぶ。魚龍と成り果てたウアピの番。【白夜】に奪い尽くされた者……その名は、
「レオ?」
「……」
流木は答えない。
そのかわり聞き覚えのある声が答えを返してきた。
「そうだ、そ・れ・の名前はレオ。我が国の始祖のなれの果てだ」
そこには昼間に崖で会った少女の姿があった。
小さな岩に腰掛け、ランタンをかざしている。
「アマリア王女? ここはどこ?」
「ここは王家の水牢だ。ひどい匂いは妾の乳母が腐っている匂いだ」
そう言って王女はぽろりと涙をこぼした。尊大な表情はそのまま、まろい頬を涙がつたう。
「妾の母親同然だったが、王に殺されてしまった」
「……」
なんと言ったら良いか分からず黙り込む。ナウエルの母は魔素不足で早くに死んだが、特に泣くことはなかった。
その肉にはほのかに魔素が残っていたので、飢えていたかれは母親の死体を残らず食べた。それだけ。
そういえば長たちはなぜあんなに怒ったのだろう、とナウエルは今更不思議に思う。ヒトの肉は食べるのに、人魚の肉を食べるのはダメで、母親を食べるのは最悪だとか化け物だとかうるさかった。
お前は悲しくないのかとも言われた。悲しいってなんだ? 腹が減ると悲しいが。
「召使も、侍女たちも、妾に優しくしてくれる者はみんな殺されてしまう。王は気が狂っているのに、誰も止めない」
「そうなんだ」
とりあえず相槌をうつ。番のエル・クエロに言い含められているのだ。共感は難しくても、返事くらいはして欲しいと。
分からないなりに聞いてくれるだけでもマシと思えると言っていた。
色々と諦められている。
かれは少々変わった心を持って生まれてきたらしい。感覚が仲間たちと違うことがよくある。人魚は寛容なので仲間はずれにされるようなことはないが、自分の言動で落胆されたり怒られたりすると、いたたまれない気分になる。かれなりに、焦る。
「“そうなんだ“? それだけか?」
せっかく相槌を打ったと言うのに、アマリア王女は責めるようにかれを見る。
うわ、苦手なやつだ……とナウエルは焦る。またガッカリさせてしまった、怒らせてしまった。何か言わなければ。
「えと、腐る前に食えなくてもったいなかったね」
「……は?」
――あ、これ言ったらダメなやつだった。
口から滑り出た言葉を後悔しても、もう遅い。
アマリアは珍しい虫を見る目でナウエルを見下し、納得したように一人で頷いた。
「やはり魔物だな……。ふむ、まあ良い。妾がお前を召喚させたのは、別に泣き言を聞かせるためではない。お前は人魚なのであろう? 巷で話題になっている海獣サーカスの話をレオにしたら、人魚に違いないと言うのだ。そしてレオが言うには、人魚はその血で人の命を救うことができると」
少女はつと立ち上がると、ぴょんぴょんと水面に突き出た岩を飛んで、水牢の端へと移動した。
「この者をお前の血で助けられぬか?」
そう指さしたのは、肉が僅かにこびりついた髑髏。白っぽいドレスを着ていることから元は女性だろう。
「無理に決まってる! もう腐ってるじゃないか。人魚の血で助けられるのは生きている者だけだ」
「乳母は無理か……。ではこっちはどうだ?」
そう言いながらまたぴょんぴょんと岩を飛び跳ねた彼女は、大きめの岩の上に横たわっているヒトらしきものを指差した。
大柄な男性らしい。切り裂かれた上に溺れかけ、今にも死んでしまいそうだ。
「このヒトは誰? 君にとって大事なヒトなの?」
「いや、知らん男だが」
「いやいや、知らん男をなんでわざわざ助けるの? 人魚にとって血の再生はそう何度もできるものじゃない。一度に助けられるのはひとりだけだし、そのヒトが滅びないと新しい再生はできないんだよ」
「なんと! そうなのか……。ではこれから妾の大切な者が傷つけられたら、その血の再生とやらをやってくれぬか?」
「なんでぼくが君の願いを叶えなきゃいけないの?」
「ふむ、報酬は好きなだけ出そう。そうだ、お前がヒトの死体を食うなら、この男が死んだら持って帰って良いし、新たな囚人が死んだら都度お前にやるとしよう」
「うーん、それは願ってもない取引だけど……、いいのかい? だってぼく達人魚の血で再生したヒトは以前の人格が消えてしまう場合も多いよ。それにぼくらの僕になってしまうしね。それでも良いのなら、死体が貰えるのは嬉しいよ」
「そうか……。人格が消えてしまうのか。でも、死んでしまうよりはマシだろう。ではこれから新たな死体が出たり、妾の大事な人間が死にそうになったら、レオに再びお前を召喚させよう」
アマリアは白い手をナウエルにさし出した。傷ひとつない白く柔らかな、花のような手。
ナウエルは食欲を刺激されながらそれをそっと握った。契約成立の握手。
その瞬間、ふたりは同時に天井を眺めた。いや、フジツボがびっしりとこびりついた天井越しに、見えないはずの空を眺めた。
何かが迫っている気がした。大きな星が自分たちに傾いてくるような、そんな感覚。
空色と紫色の瞳が絡み合う。片方は相手を肉としか見ておらず、もう一方は下等な魔物と見下したはずだったが……。
「レオ! 飛ばして」
慌てたようにアマリアが叫んだ。
ばしゅっ。
目の前の空間からナウエルが掻き消えた。今頃結界外の海中でキョトンとしているだろう。
流木のようなモノが、面倒くさそうに顔らしきところを歪めていて文句を言う。
「召喚させたり追い出したり、随分と人使いが荒いな。俺はお前の先祖だと言うのに」
それから枯れ枝のような腕を伸ばして、俯いて震えている王女の黒髪をそっと撫でた。
「はあ、まったく。泣いているのか? 俺はただのしかばねだ。何もしてやれぬというのに……」
レオは不思議だった。枯れ果てたと思っていた様々な感情が、この小さな王女に対してだけ僅かに湧いてくるのだ。
血が繋がっているから?
いいや、レオは【白夜】で朦朧とした意識のなか、自分に何人もの子どもがいたことは分かっていたが、誰ひとり思い出せない。
(キルケーに何人もの妃をあてがわれたのだが、そちらも全く覚えていない)
それなのに幼いアマリアが泣きながら水牢に入ってきた光景は、昨日のように鮮やかに浮かぶ。
仲良しだった侍女が水牢に入れられたと聞いて、こっそりやってきたのだという。
震えながら小さな声で侍女の名を呼ぶ彼女を、哀れに思って声をかけたのだっけ。
最初はレオの姿に怯えていた彼女だったが、すぐに慣れて何かと理由をつけては会いにくるようになった。
孤独のせいだろう。
ひとりぼっちと嘆く彼女を喜ばせてやりたい一心で、魔の森の扉を開いたりもした。
幼い王女の髪を撫でながら、レオは僅かに蘇ってくる人間的な慈しみの心を静かに噛み締めた。
少女が俯いて震えているのを、乳母の死を嘆いているのだと思ったからだ。
しかし実際は違った。少女は未知の感覚に震えていたのだ。
人魚と触れ合った手が熱い。甘い痺れが腕の血管から這い上り、体中に火を付けていく。アマリアはいったい自分に何が起こってしまったのか分からず、ただ戸惑った。
「また森に行くといい。彼らが待っている……スープを振る舞ってやるのだろう?」
こうして人喰い人魚と王女は奇妙な取引を結んだ。
新たな囚人が息絶えるたび、アマリアはレオにナウエルを召喚させた。
ヒトの死体を喜んで喰う魔物を、なぜ自分は愛するのか。これほどまでに惹きつけられるのか。
アマリアは苦しんだ。
レオもまたそんなアマリアを見て、ひどく苦しんだ。絶望の果てにまだ絶望があったとは。
人魚の番となることは、逃れることができない運命のようなものだ。レオは身を持って知っていた。
知っていたからこそ、ナウエルを召喚することを拒否できなかった。番と引き離される苦しみも良く知っていたからだ。
だが二人の逢瀬が齎す結果はアマリアの死だ。人魚の子を孕めばヒトの女は死ぬ。
キルケーがその昔、嗤いながらレオに教えたヒトと人魚の禁忌タブーによれば、人魚がヒトの子を孕めばウアピのように魚龍と化し、ヒトの女が人魚の子を孕れば死ぬ。
全てを失った先に見つけた小さな少女光を、また惨たらしく失うとは。
だが小さな少女アマリアの妊娠と出産は惨たらしいだけではなかった。
もっと壮絶で、もっと大きな犠牲を伴った。
王女は自らの肉体だけでなく魂までも、腹の子に注ぎ尽くして絶命したのだ。少女の精神はレオが怯むほど頑健で強情だった。
なんとしてでも無事に子を産むのだと言う彼女のために、レオは王の前に姿を現し、知識を与え、説得した。
そしてナウエルの血の再生はその後十年以上、アマリアに行われるようになったのだ。




