海獣サーカス
途方もなく大きなものが空から落ちてくる。
轟音。
海が割れて大波となり、切り立った崖に打ちつける。
崖の上には声を忘れた灰色の群衆。
彼らの顔には潮辛い飛沫が降り注ぐ。切り立った崖の上にいるというのに。
群衆が見つめる先はひとつの浮島。そこに立っているのは白い上半身を晒したほっそりとした人物だ。
太陽に溶けるような金の髪を潮風に靡かせて、かれはさっとしなやかな手をあげる。
すると再び海が割れて巨大な何か――鯨だ――が虚空へと飛び上がり、飛沫をあげて弧を描き再び轟音と共に海に沈む。
観客たちは自らの目を疑う。
だってあれはただの鯨ではない。魔鯨だ。血に染まった眼に捩れた巨体。船を襲って人を喰らう魔物だ。
人間がその魔鯨を意のままに操るだと? それだけではない。鋭く長い角を持ったイッカクや魔物イルカたちも、かれに従順に従っているのだ。
あれは何者だ?
まだ子どもであり、少年か少女かも判別できないが、真珠色の肌がうつくしく艶かしい。
観衆は思う。まるで伝説の魔妖精のようだと。水辺で人を誘い引き摺り込むというあの。
「さあさあみなさん」
浮島の子どもは両手を広げて、甲高い声で叫んだ。
「もしもぼくのショーが楽しかったなら、この哀れな旅芸人にお恵みを! これからそこに行くから、この皿にお金を投げ入れておくれ」
そう言うが否や魔鯨の鼻先に飛び乗り、あっという間に観客たちがいる崖に飛び移った。
魔鯨の血に染まった眼を見て、皆は恐れに悲鳴を上げる。
ここは聖結界からわずかに離れた小島。魔物は滅多に現れないが、襲われたらひとたまりもない。この魔鯨なら数百人いる観客など一呑みだろう。
そんな観客たちの恐怖を鎮めるように、子どもはかろやかに踊ってみせた。空と同じ色の瞳に笑いを滲ませ羽のようにひらひらと。
観客たちは感嘆のため息をつき、次々と硬貨を皿に投げ込んだ。
「広めておくれぼくら海獣サーカスを、王都アマティスタにあまねく。えらい貴族たちや、王様や姫様にも伝わるように」
掠れた声が甘く耳朶をくすぐる。老若男女皆釘付けだ。別格に美しいこの生き物は何だ? 象牙のように白い肌には染みひとつなく、小さな顔は芸術品のように整っているがそれだけでない。目の前にいるこの子どもは、見ている者の世界を消し去ってしまう。かれ以外を感じられなくしてしまう。
観客たちはただ見る。まばゆい光の中の一人の子どもを。空を舞う魔鯨よりも信じがたい奇跡のような美しさ。
「魅了を解け。無礼者」
ひそやかな声とともに、横腹にヒヤリとしたものが当てられる。ナイフ?
子どもは驚いたように空色の目を見開いた。それから小さな鼻腔をぴくぴくと動かして、声の主の体臭を探った。
どうやら声の持ち主は王都の中心部に住むヒトらしい。体から漂う魔素の香りに惹きつけられるが、なぜか嗅ぎ慣れた仲間の匂いが混じっている。一体何者だろうか?
いやそれよりも、さらに背後から漂ってくるこの香りのなんと芳しいこと! 魔素が滴るほどにたっぷりと含まれた血肉に、思わず子どもの喉が鳴る。
思わず匂いの主に振り向こうとすると、横腹のナイフがチクリと皮膚に刺さる。
「御前であるぞ! この下賤な旅芸人風情が」
そう言いながら、燃えるような赤毛の少年が睨みつけてくる。人魚に似た体臭とヒトと魔素の混じった香り。
――ああそうか。こいつはカルフ様の。
子どもは長の一人を思い出す。彼女は千年ほど前に赤毛の少女に血を与えたと言っていた。この独特の匂いのする少年はその子孫といったところだろう。
ナサレナの子孫たちは、デルガドと言う家名で王家に仕えていると聞いたことがある。であれば、この少年の後ろにいる芳香の持ち主はもしかして……。
かれはナイフに構わず振り向いた。少年が息を呑んでナイフを引っ込める。どうやら本気で刺す気は無かったようだ。
――!
子どもが目を見開く。そこにいたのは、どこか気だるそうにこちらを見ている黒髪紫眼の少女だった。
お忍びで来たらしく目立たない服装だが、平民とは明らかに纏う雰囲気が違う。白く幼なげな顔にあどけなさはなく、紫の瞳は尊大な無関心に冷え切っている。
「ラウール、案ずるな。この者の魅了など妾には効かぬ」
低く掠れた声が小さな唇から漏れた。
ひどく怠そうだ。見る間に青褪めていく肌に、額いっぱいの汗。
「アマリア様! 大丈夫ですか?」
慌てた様子で赤毛の少年が駆け寄る。アマリアと言うのが彼女の名前らしい。
「大事ない。あの忌まわしい呪いのせいだろう。聖結界の外では数刻が限界のようだな」
「呪いって何? それと君は王女様とかなの?」
子どもが尋ねた途端、赤毛が振り返って怒鳴りつける。
「だまれ! 誰が直答を許した!」
「……よい、答えてやろう。妾はフェリペ王の娘アマリア。お前の言うとおり王女だ。そして、妾たち王族は生まれてすぐに呪いをかけられるのだ。聖結界から離れると耐え難い苦痛に襲われる呪いをな。全て琥珀の瞳の一族ども――コンラドの子孫たちの仕業よ。奴らは王色を宿した子が生まれると、すぐさま一族で押しかけて赤子に呪いをかけるのだ」
「また呪いなどど。アマリア様、あれは単なる忠誠の儀式ですよ」
「何が忠誠なものか! 王族が逃げぬように繋ぐ鎖だ」
「またそんなことを……。お体が心配です。さあ帰りましょう」
赤毛が姫を抱き上げてよろよろと歩き出す。細身の少女とはいえ、小柄な少年には荷が勝ち過ぎているようで危なっかしい。
子どもは慌てて駆け寄って手伝おうとするが、「下賤な者が触れて良いお方ではない」とすげなく追い払われる。
「待ってください! ぼくは……ぼくの名はナウエルと言って」
待ち侘びていた邂逅があっという間に終わってしまう。なんとかしてこの魔素に満ちた肉を海に近づけなければ! そうすればもしかしたら魔物たちが……!
焦って追いかける子どもに、少女は冷たい一瞥を投げた。
「ナウエルとやら。見事な見せ物だった。褒美にお前を王宮に呼んでやろう」
「え?」
「今夜こい」
「はははっ、またお戯を。このような者、門番が入れるわけがございません。……おい近づくな! 追ってきたら切るぞ」
歯を剥いて威嚇してくる少年の肩越しに、少女は(まっていろ)と口を動かした。
ヨロヨロと去っていく二人を、たった数十メートル先にあった白金の紗が包み込む。
子どもは眉をしかめてそれを見ていた。魔物避けの聖結界と呼ばれるそれは、子どもにとっては触れれば死を意味する不吉なものだからだ。
ぼくを王宮に呼ぶだって? いったいなぜ? サーカスがお気に召して、褒美でも取らせてやろうというところだろうか。
子どもは首を傾げた。
もし王宮に入ることができれば魔素に満ちた肉がごろごろしているはずだ。魅力的な話ではあるが、人魚は結界を越えられない。招待されても困るのだ。
かれら人魚が王宮に足を踏み入れられるとしたら、方法はひとつしかない。誰かに魔法で召喚してもらうことだ。だがヒトに召喚魔法など使えるわけもない。王であるフェリペなら可能かもしれないが、とっくに狂っていると聞く。王女のわがままなど聞き入れるはずもない。つまり待っていても無駄だ。
ナウエルは踵を返して岸壁へと向かった。魅了にかかってぼんやりとしている観客たちの間をすり抜ける。
海に帰ろう、長居は危険だ。たまに魅了が効きすぎて、襲ってくる者がいるのだ。
子どもは音もなく海に潜り、尾鰭をきらめかせながら伸びやかに海底を泳ぎ回った。今日も偶然、岸壁から落ちたり、腹を減らした海獣に齧られたヒトの死体が浮いている。
人魚はヒトを襲うことはできない。せいぜい魅了をかけるくらい。だが、偶然ならば仕方がない。許されるギリギリの線だ。
どれ、今日のご馳走はどんなだろう。
富裕層らしい老婆が一人と、下級貴族らしい若い男性の死体。そこそこ魔素の濃い遺体が手に入った。
「うむ、上々だ」
ナウエルは笑みを浮かべる。
長たちに内緒ではじめたサーカスは、瞬く間に王都で話題になった。最初は魔素の薄い平民やスラムの住人ばかりだったが、評判を聞ききつけて中心街に住む富裕な平民や貴族たちも来るようになってきた。
彼らが偶然死ねば、魔素の濃い肉が手に入るのだ……。
「これでエル・クエロの性化を助けてあげられる。そしてぼくも大人の人魚になれる」
番との未来にナウエルは顔を輝かした。
大人の人魚になるにも多くの魔素が必要なのだ。水葬の死体を仲間で分け合うだけでは厳しい。
贅沢を言えばより魔素の濃い上級貴族や王族の死体が欲しいが、彼らは結界外の得体の知れないサーカスなどには近寄って来なかった。
今日のあの王女を除いては。
「あの肉が手に入れば、子を宿すことだってできるかもしれない。あーあ、もう一度見に来てくれないかなぁ、あの子」
この若い人魚には、ヒトを喰らうことへの忌避感はまるで無かった。幼い頃から食べ慣れているせいなのか、それともかれ特有のものに拘らない性質のせいなのか。かれにとってヒトはごく日常的な食べ物に過ぎなかった。
ナウエルはしもべである魔物イルカに死体を預けると、海をゆったりとただよいながら、王女の芳醇な香りに思いを馳せた。
あの子の肉、あまいだろうなぁ。死んですぐの柔らかいうちに食べたいな。血の一滴だって溢したくないから、あの大きな岩の上で食べよう。溢れた血が舐めとれるように。食べてる最中にきたなくならないように、一番切れるナイフでお腹を開いて……。
子どもは目を閉じて美食に思いを馳せる。
あの黒髪はとっておこう。もったいないから編んで籠か何か作ろう。紫の瞳もすごく綺麗だけど、目はあっという間に血の色に濁ってしまうからなぁ。食べてしまうしかないんだよね。あの小さな二つのくちびるは最初に食べたい。優しく歯を立てるだけで、きっとすぐに血が溢れてくる。それを舐め取りながらゆっくりと齧って……。
夢想しながら、ナウエルはいつの間にか海底遺跡に来ていた。
不可思議な塔が林立するそこは、かつて卓越した魔法により栄華を極めたメガラニアという都だったという。
神々の怒りに触れ、大陸ごと沈められたと言うそこは、今や魚龍や魔物イルカ魔王イカなどの巨大な海棲生物たちの格好の繁殖地となっている。
ナウエルたちの祖先が造られたのも、メガラニアの魔法研究所だったという。黒髪紫眼の上層民たちの中でもトップに君臨した研究員達は、ヒトの可能性や居住可能地域の拡大を目的に、鳥人や人魚などの様々な亜人を生み出したのだそうだ。
メガラニアの魔法と技術は海底に消えて久しい。以後六千年、賢者と呼ばれるほどに優れた魔術師がどんなに技を尽くしても、メガラニアの魔法遺物には到底及ばない。今現在でも、かの文明の魔法遺物は世界中で高値で取引されているのだ。
この海底遺跡には、そんな失われた魔法遺物が多数眠っていると思われるが、海底千メートルにヒトが辿り着き探索するのは容易ではない。
希少な魔法遺物を使えば数十分の探索は可能だが、これまでの大規模な調査はほとんどが失敗に終わった。広大で複雑な都市のどこに遺物があるのかは不明であり、そこに辿り着くまでに、魚龍や魔王イカなどに襲われて命を落としてしまうことが殆どだからだ。
ここを自由に探索できるのは人魚くらいだ。だが彼らは遺物になど興味がない。幼い頃に一度は社会科見学的に長に連れて来られるが、大抵の人魚たちにとってはただの古めかしい遺跡だ。
こんなところを好んで探検するのは変わり者のナウエルくらいだ。
尖塔の小部屋を次々と覗き、中にあるガラクタ(魔法遺物)をいじくりまわし、ずらりと並んだガラス容器の中で永遠に目を閉じている人造生物達を眺め、大掛かりな装置に入って、人造魂の持ち主の生に没入してみたり。
特に最深部の小部屋は彼の長年の興味の的だった。分厚く重ねられた結界の中に何かの魂が在ることに気がついたのだ。
ヒトをはじめ生物の魂は千年も持たずに消えてしまう。魂そのものは不滅だが、それは肉体の死と再生を繰り返すのが前提なのだから。
メガラニアが滅びた六千年前から閉じ込められているのであれば、これは普通の魂ではない。
神々? 超越者? 星の意思? ……検討もつかないナニカが閉じ込められているのだ。
ナウエルは夢中になって、その魂の謎を探った。番のエル・クエロが許してくれるのを良いことに、自由なこども時代の大半を、謎の魂の探究に注ぎ込んできたのだ。
いいではないか、どうせ大人になったら子育てに明け暮れる日々が待っているのだ。そしてすぐに死が迫ってくる……。今は好きなことをやりたい。
王女の甘い肉に想いを馳せていたかれは、中央広場に刻まれた魔法陣に寝そべった。メガラニアの時代に巨大な魔獣を召喚したそこには、今ではしんしんとマリン・スノーだけが降り積もっている。
子どもは王女をどう食べようか熱心に考え続けた。叶うはずもない夢なのだが、アマリアの芳醇な香りに酔ったせいで、無意識に僅かな可能性に賭けていたのかもしれない。この魔法陣の中にいれば召喚魔法に確実に応えられるのだ。
うっとりと眠りについたかれが次に目を覚ましたのは、王宮の水牢の中であった。




