時計塔の拷問官 二
黒く塗られた扉を開けると、むせ返るような血の匂いが溢れた。
――ごくり。
はっとして喉を抑え息を止める。なんてあさましい。
甘くて冷たい人魚の血。それは飢え乾いた喉を癒すだけでなく、引き裂かれた臓器でさえ蘇らせてしまう。
口中に溢れるほど注がれたそれを、かつて何度も飲み干したそれを、私はずっと求めてやまない。
仕方がない。人魚の血で【再生と支配】された者は、ずっとそれを欲するものなのだから。
けれど、私が欲っして良いのはカルフ様の血だけ。そう決めているのに。
頭を振って部屋の奥に進む。床の上に直置きされているのは蓋のない黒い棺だ。天井から落ちてくる血が桶に注がれて溢れ、赤黒い床を鮮やかに染める。だがそれは暫しの間だけだ。すぐに黒く濁った床に同化する。そして歩くたびに靴底にこびりつき、ジャリジャリと不快な音を立てる血糊になる。
棺桶に近づくといつも通り、まるで待っていたかのように、底から白い肢体がプカリと浮かび上がってくる。
蕾のまま凍ったような幼い顔。若木のようなほっそりとした手足、少女期特有のうっすらと脂肪に覆われた胴。二つの乳房は控え目で固く、とても子を産んだ女には見えない。
あの日このいとけない少女は、自らの肉体ばかりか魂までもを胎児に注ぎ込み、枯れ枝のような手足に膨らんだ腹という餓鬼にも見まごう姿で絶命した。その苦悶で歪んだ顔を私は忘れられない。人魚の血でみずみずしく再生してはいるが、生気のカケラもないこの無表情の底には、まだあの苦悶が沈んでいるような気がする。
「分からないわ。なぜそこまでしたの?」
少女を見るたびに問うてしまう。私は多くの子を産み育てたが、それはすべてカルフ様のためであった。ご主人様のためなら命さえ投げ出せるが、腹の子には丈夫に育って役に立てといった程度だった。
十五歳で成長が止まった未熟な体のせいなのか、多くの子が生まれずに流れたし、生まれてもすぐに死んでしまうものもいた。だからと言って、子に命を賭けたことはない。子は手段であり道具である。それ以上でも以下でもない。
ヒトの世界は母親と言うものに随分大仰な幻を背負わせているが、少なくとも私には当てはまらなかったようだ。私が人魚の僕だから? どうだろうか。本音が言えぬまま母という役割に閉じ込められている女は多かろう。
子孫たち――デルガド家――は十年前に尽く処刑されたそうだが、特に悲しみはない。
彼らについては、ただよくやったと言うだけ。人魚の子を孕めばヒトは死ぬからね。【白夜】発動前に王族が死ぬのは願ったりだ。
ああ、一人生き残ってヴィオレッタの従者となったとか。面白い偶然だ。
「なぜ堕さなかったのかしら。危険と感じていたでしょう?」
この少女、アマリア王女が懐妊したと知ったフェリペ王は、すぐさま卑しい旅芸人ことナウエルを捕縛した。
異様に整った容姿から魔物と見破った王は、激しい拷問を加えながら問うた。魔の物が、いったいどうやって聖結界をすり抜けたのか、どうやって王女と出会ったのか。そして魔の子を宿した王女はどうなるのかと。
ナウエルは答えずに、アマリア王女のために俺の血を採れと言うだけ。業を煮やした王は、望み通りにしてやろうと彼を時計塔に吊るして、血を搾りとる拷問にかけた。
一方アマリア王女は堕ろせという王の言葉を拒絶し、よりによって囚人たちを入れる水牢に立て籠ってしまった。身重の女には最悪の場所のはずのそこには不思議な結界が張られ、フェリペの魔法を持ってしても破ることができない。
数ヶ月の間水牢に立て篭もった彼女は、根負けしたフェリペの懇願に応える形で、もう危険で堕ろせない時期になってからようやく出てきたのだった。
産婆の下働きとして王宮に潜り込んでいた私は、水牢から出てきた王女の姿に息を呑んだ。
老婆のようにしわが寄った肌に、痩せこけた手足。美しかった髪はほとんど抜けてしまい、地肌が透けて見えていた。自分では一歩も動けぬ様子での彼女は、もう一人の枯れ枝のような人物に支えられていた。その人物はレオと名乗り、王女を預けると消えてしまったのだった。
王は荒れ狂って専属侍従を務めていたデルガド一門の処刑を命じ、王女に何人もの医者を付けたが容体は悪くなる一方。とうとう魔の者の戯言に賭けて、その血を王女に与えた。すると、枯れ枝のような肢体が柔らかな少女のそれに戻り、青白く冷めた死人のような肌には瞬く間に血色が戻った。
だがそれは一時のこと。しばらくたてばまた元の状態に戻ってしまう。王は王女を時計塔に運び、魔の者の血を間断なく与え続けることにしたのだった。それでも産み月が近づくほどに彼女は衰え、身体中に血を浴びせて何とか息をしている状態であった。
そして苦しみの果てに女児を産み落とした彼女は絶命し、王は嬰児を海に投げ捨てた。
黒髪紫眼の赤子はこの国の生命線。家臣たちは命を賭けて止めようとしたが、王の魔法の前ではひとたまりも無かった。
王は何故そのような凶行に及んだのだろうか。愛娘を死に至らしめた赤子が許せなかったのか。それとも……、ひょっとして逃したのだろうか?
私は一人歯噛みした。
なぜかって? 私は嬰児を殺そうとずっと隙を狙っていたからね。
海に捨てても人魚の子なら生き延びるであろう。人魚は呆れるほどお人好しだから、きっと海に捨てられた赤ん坊を助けてしまうだろう。赤子が成長したら、崩れかけた王都の聖結界を張り直してしまう可能性がある。
それじゃあカルフ様はずっと故郷に帰れないじゃないか。何より、この国があるかぎり私はカルフ様のお傍に仕えることができないのだ。
お人好しで頑固なあの方は、ヒトに混じって暮らすのが私の最上の幸せだと信じて疑わないのだ。ヒトの国がこの南大陸から消え去ってしまえば、私は堂々とご主人様と共にいることができる。
王があの子を捨てたのは、誰かの入れ知恵があったからであろうか? 私はナウエルを疑ったが、彼は喋ることができる状態ではなかった。次に水牢を探索した。水死体しか見当たらなかったが、なんとその水死体が勇者レオの成れの果てであった。
彼は私の姿を見て、ナサレナなる者の名を呼んで落涙したが、いったい何のことだろうか。そして不思議なことに私も、いつの間にか涙を流していたのだが、いったい何故なのだろうか。
分からぬ。分からぬが、レオとアマリア王女、そしてフェリぺ王との間で何らかの情報共有があり、人魚との盟約がなされたらしい。その一環として、私はこの時計塔で拷問官の役目を担うことになったのだ。
憂鬱な役割だ。
「けほっ……」
胸に鋭い痛みが走り、口から血の泡が奔り出る。
いつも通り、人魚の僕でありながら人魚を拷問にかけた「反動」がやってくる。
私は這って階段を登り、玄関の扉にたどり着く。そこに置いてある素焼きの壺を掴んで、震える指で蓋を取る。するとえも言われぬ芳香が鼻腔をいっぱいに満たす。続いて唇を押し当てて杯を傾けると、それは朝の風のように軽くつめたく、私の肉体に吹き渡っていく。
ああ生き返る。この瞬間のためなら痛みなど取るに足らない。
この血は麗しきカルフ様のもの。彼の方は永遠の少女そのものだ。新雪のような白肌に、冬の空のような色の髪と同色の瞳。可憐な唇はいつも微笑みの形をつくっている。それなのに淋しげなのは、はるか昔に番を亡くしたせいだろう。
どんな形で、どんな相手を亡くしてしまったのか、お聞きしたことはない。ただいつまでも忘れられない、とおっしゃっていた。
カルフ様はもうすでに二千年の齢を重ねているのだと言う。もう寿命なのだと。残されているのは、百年か、数十年か、数年か、数日か。分からないが、心残りは人魚族の行く末と、有難いことに私のことだとおっしゃっていた。
私の望みはカルフ様の憂いを取り除いて、そばにいること。カルフ様と共に死ぬことだ。そのささやかな願いのためならば、私はなんでもできるのだ。




