お菓子の家の魔女四
「いやー、助かったよ! ありがとうそこの女の子!」
場違いに明るいその声に思わず振り向くと、月・の・光・の・よ・う・な・も・の・がふわりと浮かんでいた。
「え?」
月って空に浮かんでいるものじゃないの?
夜のない都で育ったあたしは月を見たことが無かったけど、それくらいは知っていた。
それともあれは、水に映っている月なのだろうか。
「あなたの名前は何? あたしはヴィオレッタって言うんだ。悪いんだけどもう一仕事頼みたいんだけどいいかなぁ? どうぶつ達にご飯を配るの手伝って欲しいんだよねー」
矢継ぎ早に話しかけてくる月・光・に目を丸くしていると、赤髪の男が大股でやってきてため息をついた。
「殿下は再生中タガが外れたように喋りまくるのだ。いつものことだから無視して良い。それよりこっちを手伝ってくれ」
「は、ハァ」
男に背中を押されて、あたしと弟はその得体の知れない光・に背を向けて歩き出す。なめらかに喋り続けるその声は、まるで音楽のように心地よく耳に響く。あどけなくやわらかく、ふっくらと艶がありすきとおったその音色は、いつまでも聞いていたいと思うほど美しかった。
ぐいぐいと強引に背中を押されながらも、あたしは未練がましく振り向いた。すると、淡い真珠色の月・光・は闇からじわりと滲み出てきたような何かに縁取られていく。闇よりも黒くつややかなそれは、ゆるくうねる豊かな黒髪だった。真珠色の光は滑らかな肌に変わり、ふんわりと綻んだ花びらからは、絶えずうつくしい音色が流れ出しているが、よく見ればそれは幼いくちびるなのだった。
やがて真珠の肌には僅かづつ陰影が生まれ、まろやかな額や優美な曲線を描く鼻梁が浮かび上がる。そして瞼の下からは、息を呑むほど瑞々しい紫水晶の光があらわれた。
「なんてきれい……」
それは今まで見たこともない美しい存・在・だった。
つめたい夜の森に今にも溶けていきそうに儚いのに、見ている者の魂を底なし沼に引き込むような妖しい魅力。
いったいあれは何なのだろう? 妖精、妖魔、魔物……何にしても危険だ。危険だとわかるのに目を離せない。赤髪の男が「もう見ない方が良いだろう」と強引に頭を掴んで前を向かせてくれなければ、息をするのも忘れて見続けていただろう。
赤髪の男はアレをで・ん・か・だと言っていた。私が焼き殺したあの女の子のこともで・ん・か・と呼んでいたけれど、何か関係があるのだろうか。
そもそもで・ん・か・って何だろう。思い当たるのは「殿下」。王族に対して使う呼び名だ。ではあの子は、最近帰ってきたっていうお姫様だったの? まさか! でも、でも確かお姫様王女殿下はヴィオレッタという名前だった。
ちょっと待って! さっき『月光』が名乗っていたのもヴィオレッタ。
ということは、ということは。
「……わけ分かんない。気味が悪い」
あたしは考えることを放棄して、手に握った袋をぎゅっと握った。中の宝物が擦れ合う感触が、あたしを現実に引き戻す。
そうだ、お姫様とかあの女の子とか、月光とかどうでも良い。重要なのはこの手に握った宝袋だけ。これを持って弟と一緒に家に帰ることができればそれでいい。
そして無事に帰ることができるかどうかは、この赤髪の男にかかっている気がする。大人しく言うことを聞いて、帰るチャンスを窺うのだ。
男に押されて小屋前のひらけた場所に着くと、そこにはいつの間にか長テーブルと椅子が置かれていた。テーブルの端には寸胴鍋や湯気を立てるパン籠が置かれていて、どうぶつ達がご飯を待つ人間みたいに席についている。
「ヅヅィ」「キュッキュ」
リスくんとモモンガくんが「待ってました」と言うように近づいてきて、あたし達にきれいに畳まれたエプロンを差し出した。
「私がよそうから、お前たちはどうぶつたちに配るのだ」
赤髪の男はそう言いながら、自らの長髪をぐいっと紐で束ねてエプロンを着ける。何故かふわふわで真っ白なお姫様みたいなやつだ。
「あのおじさんのエプロンへん」「シッ、アンセル!」
慌てて弟の口を手で塞いでチラリと男の方をうかがったけれど、男はギロリとこっちを睨んだだけで忙しげに手を動かしている。
「無駄口をきいている暇はないぞ。どうぶつたちはいつも二百匹以上来る。さあ! その皿をテーブルに運ぶのだ。おっと、その前にお前はその毒の血で汚れた手を洗うべきだな。顔も拭え。洗ったらモモンガに見てもらえ。かすり傷でもあったら毒が体に入るかもしれんからな」
「は、はい……」
意外にもあたしを心配してくれているのだろうか? 男の言葉に戸惑いつつも、モモンガくんに案内された水場で手と顔を洗って、傷がないかチェックしてもらう。ヅヅィと満足気に頷いているので大丈夫なのだろう。服に付いた血はどうしようもないと思っていたら、リスくんがシンプルなワンピースを渡してくれたのでありがたく着替える。
それからアンセルと一緒にエプロンを着けて配膳を手伝った。男が深皿に具沢山のスープをよそうのを受け取って、トングでパンを皿の端っこに載せる。それから恐る恐るどうぶつ達の前に運ぶ。
ヤマネやウサギなんかは大きくても可愛いからまだ良いのだが、問題は虫たちだ。特にカマキリの点のような目はゾッとする。
恐ろしさのあまり、手が震えて深皿を取り落としそうになった。すると、カマキリがにゅっとその鎌を突き出して皿を支えた。点のような目であたしを見つめて、「……ブッ」と気味の悪い声を出しながら首を傾げる。
「ヒッ」
全身にブワッと鳥肌が立って、ふらりとよろけながら意識を手放そうとしたその瞬間とき、
「カマキリくんは、『大丈夫?』って聞いてくれたんだよ」
うるわしい声と共に、華奢な手があたしの両肩を支えた。かぐわしい香りが、遠のきかけていた意識を優しく手繰り寄せる。
振り向くと花びらのような唇がほころんで「ふふ」と笑う。紫水晶がいたずらっ子のように輝き、真珠色の肌にゆっくりと赤みがさしていくのを、あたしはぼうっと眺めた。
すっかり人の形に成っているけど、この少女はさっきの『月光』だ。そして信じられないけれど、あの焼け死んだはずの女の子に良く似ている気がした。




