泉の底に
どこまでも透明な泉は深くなるほど青が濃くなり、果てがない。太陽の光が遠くなるにつれて、薄い青が紺になり、やがて暗闇に包まれる。上下が分からなくなってきたあたりで浮上しようと思ったが、何か煌めく霧のようなものが視界をよぎった。
(あれはなんだろう?)
近づいてみると、何層にも複雑に絡まり合った魔法陣がキラキラと光を放っていた。中心には蓋のない棺や宝石箱のようなものが浮遊しているが、中は空だ。
これは一体なんだろう?
魔方陣の一つ一つは割と単純な作りが多かった。「接合」「修復」「吸収」「再生」「育成」などなど数百ほど。恐ろしいほど魔素濃度の高い領域を利用して、何かを創るか修復するかしていたのだろうか。
棺には三歳の幼児くらいの人型のくぼみがある。不思議な素材の棺には、僅かだが皮膚や毛髪らしい組織も付着していた。
どこかで見覚えがある色合いだけど、思い出せない。ここに来てからというもの、何かを思い出そうとすると頭にもやがかかるのだ。
とてもまずい傾向なのだという自覚はある。無理やり塞いだ傷口の奥が腐敗しガスが充満しつつあるというのに、見て見ないふりをしている。圧は刻一刻と増しており、いつか全身を侵す毒として噴き出すだろう。
まあ、命がいつどう終わろうと、どうでも良いのだけどね。余生を生きているだけの私にとっては。
ただ生物としての本能が、激痛を回避しようとしているわけで。
思い出すのはあきらめて一旦陸に上がることにする。
急に重く感じるようになった体をゆっくりと浮上させていくと、何故か水面近くでルーカスが揺蕩っていた。
どうやら溺れたようで白目を剥いている。
(アホか)
一体何をやっているんだこいつは。
仕方なく岸まで運んでから、水を吐き出させた。今回は血を与えるまでもないだろう。
しばらくして目を覚ました下僕は、私を見てなぜかぶるっと震えた。なんだろうね、この拗ねたような、それでいて縋るような眼差しは。
「なんであんた溺れ」
「私のせいですが、謝罪はしませんよ」」
は? 何いってんのこいつ。
被せるような乱暴な物言いに思わず眉を顰める。
「私のせいで殿下のお母上は!」
「黙れ」
地を這うような低い声と、ルーカスの喉ギリギリに突きつけられている水槍に驚愕する。
なんと、両方とも私が放ったものだ。無自覚な防御反応なのだろうか。
頭が割れるようにズキズキと痛む。
お母上? 母……?
ぼんやりと霞む意識の裏で、もう一人の私が恐慌を来している。傷の奥の腐敗ガスが急速に圧を増し、肉ごと弾け飛ぶのを防がんと、無数の水槍を生み出してルーカスに突きつける。こいつを黙らせるのだ。思い出したら私の精神は弾け飛ぶ。
「私のことなどどうとでもっ、しかしシンマス氏は生きていますぞ! そして破損したアメジストも修復できるのです!」
そう訴える下僕の言葉に、私は攻撃を止めた。
シンマスが生きている。
アメジストは直せる。
何ことやら分からないが、恐ろしい勢いで膨らんでいた圧が急速に萎んでいくのがわかった。そしてもやの向こうから失っていた記憶がヒタヒタと波のように打ち寄せてきた。
ママ……が生きている。
いや、冷静になれ私。
ママとしての人格は人工魂と分かれたことで失われただろう。だから、
「ママになる前のシンマス・モレノとして生きているということ?」
「それは分かりませんが、空から泉に落ちた時に彼を見たのです。少なくとも彼の肉体は生きて動いていましたぞ」
「そう、ああそうなんだ! ママの体は生きているんだ……! もうそれだけで私」
最悪の事を想定していただけに、胸が温かくなって涙が溢れる。
「ふむ、喜ぶのはまだ早いですよ。泉の深部から浮き上がってきた彼と水中ですれ違ったのですが、ヤツは無情にも溺れている私を無視して泳ぎ去っていきましたぞ……。何やら禍々しい真っ赤な魔法石を首から下げて、別人のような雰囲気を纏っていました。至近距離で見たのでシンマス氏に間違いはないのですがね」
「溺れている人を無視していくなんて、いくら相手が下僕でもママらしくないけど……でも確かに見たんだね?」
下僕の報告に眉を顰める。ママになる前のシンマス・モレノもとても情が深い人だったはずなのに、おかしい。
そして真っ赤な魔法石という情報にもなぜかひっかかりを覚える。
ああそうか! 前世の乙女ゲーム『永遠を君に』でヒロインが首から下げていたものだ。確かヒロインの母親の形見が大粒の赤い宝石で、肌身離さず着けているっていう設定だった。
「あの宝石は、魔法陣の中にある宝石箱に安置されていた物だと思いますよ。おそらく人造魂の類でしょう。永い時をかけて魔法陣で修復されてきたのでしょうな」
「人造魂……ってことは、ママはまたネックレスで心を変えられてちゃってるってことか。それでママはどこにいったの?」
ルーカスによれば禍々しい雰囲気の人造魂みたいだし、ママが心配だ。
「わかりませんな! なにしろ溺れかけていましたからな」
「この役立たずめが〜!」
「なんですと? この私のおかげでシンマス氏の無事が確認できたのですぞ。それにこのアメジストも魔法陣で修復できるでしょうな。さっきもう一度泉に潜って魔法陣を確認してきたのです。まぁそのあとまた溺れたのですがね」
そう言いながら私に差し出す手には、あのひび割れたアメジストのネックレスがしゃらりと揺れていた。
「な、なぜこれがここにあるの?」
「私が持ってきたからですよ。あの妙な死体にあれこれ言われて、殿下は気絶した挙句消えてしまいましたが、その時手から取り落としたのを私が受け止めたのです」
そうだったのか。落としてさらにひび割れたらと思うとゾッとするので、素直にありがたい。
そう伝えるとルーカスはなぜだか胸を張った。
「ふむ、ですから私は謝りませんぞ! 」
「は? さっきから何を言ってんのさ。謝らないって何についてなわけ?」
そう呆れながら言った私の顔を、ルーカスは一瞬不思議そうに眺めた後、決まり悪そうにプイッとそっぽを向いた。




