水牢 三
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いったいこれはなに?
ズダ袋からニュッと出てきたものが何なのか、しばらく理解できなかった。
漂白されたように白くて、カサカサに乾いて傷んでいる。まるで流木のような何か。
「う、うう」
ソレがうめき声のようなものを出したので、私は飛び退いた。
見るとその何かの真ん中に、ひび割れて血が滲んだような割れ目が開いて、震えている。
さらにその上の、スッとナイフで切ったような傷がゆっくりと開く。
永い間潮に晒され続けたようなソレには余りにも不似合いな、瑞々しい紫の光が溢れる。瞳……だ。
だとすると、あの割れ目はくちびる?
そしてその上の突起は鼻……かな。
どうやらソレはヒトの顔らしい。
とても血の通っている人間には見えない。
髪も肌も漂白されたように色が抜け、乾き切ってひび割れ、ひどく窶れている。
見たところ男性みたいだ。干からびているせいで年齢不詳だけど、多分若者? 直線的な額にすっと通った低めの鼻、切長の目には見惚れるような紫の瞳が宿っている。
「あなたは誰? レオ?」
ウアピの過去で見た面影とは違う……というか、こんなに痛みきっていたらよく分からない。でも瞳だけはレオのものと同じ気がする。
エル・クエロを呼ぼうと姿を探したけど、もう行ってしまった後のようだ。
その謎の人物ははくはくと口を動かして、声を絞り出した。
「し、た、い」
「は?」
「お……れは、ただの死体、だ」
どうやらただの屍のようだ。いやいや、喋る死体がいるか。
声も見た目同様、カサカサひひび割れている。
「おま、え。その、ひ……とみ」
そう言いながら“死体氏”は私の目のあたりを指差した。手ももれなくカッサカサだ。お水を注いでやりたくなる。
と、その腕の下に何かが見えた。金属製の鎖だ。
見覚えがあるそれに、私は思わず手を伸ばして掴んだ。
しゃらり、という懐かしい音ときらめく紫の光。慌てて掌の上に受けると、ひんやりと滑らかな重みを感じた。
「こ、これっ、ママのアメジスト? どうしてこれがここにあるの」
鎖に編み込んであるリボンに見覚えがあった。間違いなくママのものだ。
急いで魔石ランプをかざした私は、あっと叫んだ。
「なに……このヒビ!! どうしてっ」
その情けないほど狼狽した声を聞きつけたのか、ルーカスが足速にやってくる気配がした。
「ご主人様?」
訝しげに眇められた下僕の瞳が、私の手にあるアメジストを捉える。
アメジストの中心には大きな亀裂が入っていた。
このアメジストには人造魂が宿っている。それがママの魂と結びついて、私を育ててくれたと。
「それって、もしかしてシンマス氏の着けていたっていう人造魂ですか? なぜここにあるのですか」
「わっ、分からな……、こっちが聞きたいよ!」
パニックに襲われて、思わず大声を出してしまう。落ち着かなくちゃいけない。でも震えが止まらない。
ママからアメジストが外れてしまったってことだけでも動揺するのに、割れているし、しかも水牢で見つかったっていうことは……。
「ねえっ、ママがここに来たってこと? 死体さん! そうなの?」
「まま? 母親のことか」
「男の人! 背が高くてがっしりしてて、茶色の瞳と髪で」
「……ああ。王が連れてきた男か。彼はもうどこにもいない」
どこにもいない?
私の頭は真っ白になる。
「死んでしまったということか?」
ルーカスが低い声で問う。
「死? 解けることをを死というならば」
煙に巻くような返答。思わず怒鳴りつけてしまう。
「ふざけないで! ちゃんと答えなさいよ!」
死体は、何かを思い出そうとするように、その白く乾いた手を顎の下に当てた。
「ふむ……そういえばあの男、魂を手放したがっていた。娘を目の前で喪ったとかでな、肉体からこんがらがった魂が離れよう離れようとしていた。もう少しで魂がばらばらに千切れてしまうところだったな。だから王は男をここに連れてきたのだろう。その男は解けた……死んだと言うのが適切か? しかし魂は千切れずに済んだぞ」
「そんな……ママが死んだ? ああ……」
私はなんて馬鹿なんだろう。なぜ一秒でも早くママに会いに行かなかったのだろう。人魚の湖で何時間も過ごすのではなかった、マダム・シビラのところでドレスなど作ってもらうべきではなかった。無事な姿を見せてあげれば、ママは助かったかもしれない。
悔やんでも悔やみきれない。ママが死んだと聞かされて、気も狂わんばかりなのに、目の前で私が燃え尽きるのを見たママはもっと辛かったに違いないのに! なぜそんなママを何時間も放っておけたの!
――人間とはやっぱり違うのねぇ。
主治医の声が脳内にこだまする。お前はやはり人間じゃないんだ。前世も今も人じゃないんだ。化け物だから大切な人の気持ちも分からないのだ! お前が恩知らずの化け物だから、ママは苦しんで死んでしまったのだ!
化け物め!
化け物め!
化け物め!
「そんな……そんな……うそ、うそだうそだ。ママはきっと……どこかにいるの。死んだ……なんてうそ、うそだ。ママは生きてる……きっとどこかにどこかに……ママは生きてるの……」
唇から力ない呟きが際限なくこぼれ落ちていく。そんな自分の声をどこか遠くに聞きながら、私は久しぶりに(前世ぶりに)アレが来たのを感じた。
それは絶望の大きな口に丸呑みにされる前に、決まってやってくる不思議なゼリー状の物体で、ドゥルンと私を包んで世界から厚く遠ざけてくれるのだ。
あらゆる痛みが遠ざかり、あらゆる苦しみがぼんやりと霞んで、悲しみはゼリーに溶けて薄まり、怒鳴り声も嘲り笑う声も小さな呟きのように遠ざかる。私はその中でただただぼんやりとして、嵐が過ぎ去るのを待てばよい。喜びも楽しさもない灰色の重苦しい世界だが、とても助かるのだ。
このゼリーがあったから生き延びることができたのだ。生き延びる意味などわからなかったけれど、ゼリーなしで現実に滅多刺しにされるのは避けることができたのだから。
「これもまた過ぎ去る」
私はかつてつぶやいた。手術の最中にうっかり覚醒してしまって、自分の切断された四肢が隣のテーブルに載っているのを見たとき。
「これもまた過ぎ去る」
実験助手の不手際で窒息死しそうになっているというのに、主治医が『その顔ウケるわぁ』と嗤っていたとき。
「これもまた過ぎ去る」
昼食の時間に、『魔女が視界に入ると気持ち悪くて食べられない』とクラスメイト全員がわざわざ机を動かして私に背を向けた時。
「これもまた過ぎ去る」
何か大きな悲しみが、乗り越えられないような喪失が、正気ではいられなくなるような絶望が、今私の後ろを通り過ぎていく。
「これもまた過ぎ去る」
――卑怯者! と罵る声が遠くから聞こえたが、厚い膜に阻まれる。
「これもまた過ぎ去る」
――ご主人様! 誰かが叫ぶのが遠くで聞こえる。
「これもまた過ぎ去る」
静かに目を閉じて、開ける。
どれほどの時間が経ったのだろう。そしてここはどこだろう。
潮と森の匂い……どこかで嗅いだ気がする。霞んだ視界はゆっくりと晴れていく。
森だ。
湖が点在する広大な森。
「ああああああああああああ――っ!?」
その豊かな森に向かって、私は空から真っ逆さまに落下していくのだった。




