失楽園 九
巨大魚龍ウアピの過去。千年前の話です。
「私がなんとかしてあげようか?」
聞き覚えのある声に、ゾワりと怖気が立つ。振り向かずとも分かる、この悍ましい気配は……。
「生きて産まれたなんてラッキーだわ。ヒトと人魚の混血個体なんて最高の素材よ! 安心しなさい、この私がなんとしてでも生かして役立ててあげるから! そのまま死ぬよりずっと有意義じゃないの」
それは板切れにしがみつくガマガエルに見えた。どこかで見た筏の成れの果て―――あの島からここまでこんなモノでよく辿り着けたと驚く他ないが――、ボロボロになって今にも壊れそうなそれに、枯れ枝のように痩せ細った緑の化け物がいた。
「お礼を言うわウアピ。あなたのおかげで魔の泉の場所が分かったのよ! その尻尾に刺さった魔法具の信号を辿ってきたの」
「ギュリギュリッ」
「なんだこいつは!」「なぜこんな奴の侵入を許した? 守りの人魚たちはどうしたのだ」「今すぐ摘み出せ」
「うふふ。亜人は満月に出産すると言うのは本当だったのね。河口の守り手の人魚たちも自分の番やきょうだいのお産で気もそぞろ。平和に慣れきっていて警戒心ゼロだったわ。おかげで簡単に通れたわよ。海を渡って来るのは大変だったけどね! 仲間を魔法で縛って盾にしたから私は無傷で済んだけど。その代わりみんなは魚龍に齧られちゃったわ」
「ギュリギュリ!」
私はなぜか慌てて筏の上を見た。キルケーの後ろにあるのは血まみれの何かだ。
胸が嫌な感じにざわつく。あれが何か確かめなければならない気がする。
「ギュリ」
プーズーに赤子を託す。しっかりと子を抱きしめた彼女はジリジリと後退してキルケーと距離を取り、長たちは攻撃魔法の構えを取った。
私は一旦水中に潜り筏の下を通って反対側に回り込む。
皆のお産で泉の水は濁っていたけれど、私の鼻は覚えのある匂いを嗅ぎ取った。筏から滴る血液が作りだす赤い靄を、私は口に含んだ。
……なんだろう? この香りは何だったっけ? 私は鼻先で筏を押し上げてひっくり返した。
「何するのよ! この化け物め!」
ガマガエルが水に投げ出されて怒鳴る。ガマガエルなんだから泳げば良いのに。
私は水中で筏から落ちたものをキャッチした。体があちこち齧り取られたヒトが三人……虫の息だ。早く陸に上げてやらなければ。
「その人間たち、生きているのか? それならば我々の血で『再生』してやれるぞ!」「ウアピの番がいるんだろう? まあ『支配』してしまうことになるが、死ぬよりマシだろう」
人魚たちが口々に言う。『再生』『支配』……? なんだっけ? 回らない頭で必死に記憶を漁るが、ただ嫌な予感だけが胸をかすめる。
「あははははっ! もう遅いわよこの野蛮な人魚ども! 「勇者」に仕掛けておいた『白夜』はもう発動し始めたわよ。この泉は私のモノになる」
「な、何を言っているんだアレは?」「『白夜』だって? 大昔に滅んだ禁忌魔法だぞ」
白く眩しい光が辺りに降り注ぎ始めた。何かとてつもなく嫌な気配が辺りを覆い始めるのが分かる。
気配に気がついた魔物たちで森は一気に騒然となった。獣たちが群れをなして森を逃げ惑い、川は我先に逃げ出そうとする魔魚たちで溢れ、夜空は翼ある魔物でいっぱいだ。身をくねらせて飛ぶ翼蛇の群れが、白い光に触れて腐り落ちるのが見える。
「ギュリギュリ!」
「皆、逃げるのだ! 閉じ込められるぞ!」
「ウアピ、逃げて! この子は私が連れていくから! あとで落ち合いましょう!」
眩しくて何も見えない。私はプーズーを信じて赤子を任せるしかなかった。人魚たちが逃げ惑う中、私は無我夢中で目の前に浮かんでいたヒトの体を口に挟んだ。匂いが混濁して識別はできなかったが、大切なものかもしれないと思ったのだ。そしてその後はただ必死に泳ぎ続けた。
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