失楽園 七
巨大魚龍ウアピの過去。千年前の出来事です。
靄がかかった頭で私は泳ぎ続け、ようやく魔の森がある南大陸の端に泳ぎついた。体が随分大きくなってしまったようで、いつも通っていた河口がやたら狭い。
背中の焼けつく痛みは幾分治ったが、思うように首が回らない。キルケーに投げつけられた何かが刺さっているのだが、どうなっているのか確認することはできなかった。
私は魚龍のような姿に変わっているらしかった。それも類を見ないほど巨きな……。
これでは誰も私とは分からないかもしれない。
誰も? 誰かいたっけ?
『里』という言葉がぽかんと浮かんだけど、それが何を意味するかも忘れてしまった。
ただ泳ぎ続ける。腹の中に何かがあって、魔素を強く求めている。それだけは分かるのだ。
これから数週間、私は魔の泉で蹲る。
濃厚な魔素にこの身を浸して。
それだけが今の私の望みだ。
「魚龍?」
「大きいぞ! これほどのものは見たことがない」
「背中に何かくっ付いているぞ、うんうん、なんだこりゃあ、ちっとも取れねえなぁ」
「長に報告を」
「おいお前さん、大きい魚龍よ。この支流は随分浅いぞ。進めば腹が傷つく。海に戻りなさい」
「ギュリギュリ」
私の鼻の奥からおかしな音が出る。何故だかこころが浮き立つ。知っている声のような気がする。
ひとつになってしまった目で彼らを眺める。ふとあたたかな思いが胸によぎる。でも何なのかは分からない。
「長がきたぞ」
「なんと……なんと。これはウアピよ……あのウアピだ」
「ウアピですって!? まさか。確かに色合いはそうだけども」
「番を……プーズーを呼ぶんだ」
プーズー? 胸がチクリと痛む。私は逃げるように泳ぎを早めた。腹が川底を擦らないように体を斜めに傾げる。
「ああ……こんなことになるとは……。良いか皆、ウアピはヒトの子を身籠ったのだ」
「ヒトの子ですって? ヒトってあの北大陸にいるとかいうモノたちですか?」
「そうだ。奴らと関わることなぞ永遠にないと、タカを括っていたのが愚かだった。儂の責任だ。若い者たちに禁忌を教えなかった……」
「禁忌? なんですかそれは」
「人魚はヒトの子を身籠ると魚龍に戻る……いや変わってしまうのだ。そして子は……これの前で言うべきではないな」
「背中に何か刺さっているぞ」「ああ、さっきから抜いてやろうとしているんだが、ビクともしねぇんだ」
「プーズーが来たぞ!」
知っている柔らかな匂いがした。胸がさあっと冷える心地がする。
「ウアピ! あなたなの? あなたなのね? ああ!」
小さな人魚が抱きついてくる。私は己の硬い鱗で、その人魚が傷ついてしまうのではと心配になって動きを止めた。
まだ幼体の人魚だった。輝く桃色の髪、桃色の瞳。ツンと尖った可愛らしい鼻と、花びらのような唇。
「ギュリ……」
鼻の奥からまたおかしな音が漏れて、私は戸惑う。
胸の奥に冷たい雨が絶え間なく降り注いで、彼女の桃色の瞳から溢れる涙と入り混じった。
「プーズー。ウアピはヒトの子を孕ったのだ。知らぬ間にタブーを犯して、そのせいで魚龍になってしまった」
「……ヒトの子を? それではウアピは女性化したのですか?」
「そうだ。ヒトの男と番になったのだ」
「ヒトの男と……番に?」
「……ギュリギュリ」
鼻の奥が鳴る。よく分からないが、体が縮むような思いだ。
でも行かなくては。腹の中の何かが、魔素を浴びたいと餓えているのだ。私は遠慮がちに鰭を動かした。
「……子がいるのね。だからあなたは、魔の泉に行かなくちゃならないのね」
プーズーと呼ばれた人魚は、下を向いてポロポロと涙をこぼした。
私は小さくなってしまいたいと感じて身を縮めた。できる限り。
しかし彼女は口をひき結ぶと、やおらグッと顔を上げて私を真っ直ぐに見つめた。
それはとても強い眼差しで……。
「それならしっかりするのよ、ウアピ! 子を産むならそんな顔している場合じゃないわ!」
ニッと笑って私の臀のあたりをピシャッと叩く。
「さっさと魔の泉に行かないと、お腹の子が飢えてしまうわよ! さっ、私が先導してあげるから着いてくるのよっ」
そう言うが早いか、全力で泳ぎ始める。
途中で人魚たちがたむろしていれば、道を開けろと怒鳴り、大きな岩が川底に転がっていれば、仲間を呼びつけて私が通れるように退かしてくれた。小さい花のようなその姿からは想像もできない力強さだ。
「ギュリギュリ」
「お礼には及ばないわ……とは言え、もしもお腹に赤ちゃんがいなければ、ビンタ百回でも足りないわね」
「ギュ、ギュリ」
「ふふっ、まずはその子を無事に産むことだけを考えなさい。さあっ、魔の泉に着いたわよ」
私は一心不乱に泉に突っ込んだ。そこには妊娠中の亜人たちが身を横たえている。
彼女達は私の登場にギョッとして逃げ出したが、プーズーの取りなしでおずおずと戻ってきた。
「あんたウアピなんだって? ヒトの子を宿してそうなっちまったって聞いたけど」
「ギュリギュリ」
「難儀なことだねぇ!」
腹の大きな人魚達は、私の体を戸惑いながらも撫でてくれた。無事に子が生まれてくるためのおまじないだと言って。
赤ちゃん。
子。
そうか……。私は霞んだ頭で何事かを納得した。
腹の中の子は魔素をたっぷりと吸ってようやく落ち着いたようだった。
それから一月足らず、私は他の妊娠中の人魚達と共に、泉の底にひたすら横たわって過ごした。
時たまプーズーが果物やら肉やらを運んできたが、何も口にする気は起きなかった。
腹は見る間に大きくなっていった。
「次の満月に産まれてくるでしょうね」
うつらうつらしている私の頬に寄りかかって、プーズーが呟いた。
「ギュリ……ギュリ」
「長達や子を沢山産んだ人魚達が手伝ってくれるわ。もちろん私も。だから恐れることはないわ」
「ギュリ」
「あなたの背中のこれ、子が無事に産まれたら取ってあげるね。ヒトの道具らしいって長が言っていたけれど」
「……リ」
「ふふ、よく眠りなさい……」
お読みいただきありがとうございましす。




