失楽園 二
ウアピの過去、千年前の出来事です。
ヒトは俺たちによく似た生き物だと言う。
いや、ヒトを元に俺たちが創られたのだから、俺たちがヒトに似ているのか。
はるか昔、メガラニアという大陸がこの南の海域に存在した。
そこに住んでいたヒトたちは高度な魔術文明を持っていたんだけど、ある時魔素を発見した――魔素に気がついたと言った方が良いかな?
魔素とは身の回りに漂うエネルギーで、星の血脈と言ったところだろうか。
発見のきっかけは魔物の研究だったそうだ。魔物はヒトより遥かに頑健で寿命が長く、魔術とは違う不思議な力を持っていた。
メガラニアの研究者たちは、魔物たちには特殊な回路があること、そしてその回路が魔素を汲み上げていることを突き止めたのだった。
魔素を発見した彼らは、それを手中に収めようと試行錯誤した。
魔素を汲み上げる回路として当初は希少な魔宝石が使われたが、もっと安価で手に入れやすいあるものが見つかってしまう。
それはヒトの魂だ……。
生きたヒトの魂を魔素を汲み上げる回路として利用するのだ。
魂の利点は入手しやすさや安さだけでなく、魔術を複数刻みつける媒体としても使えることだった。
ただし魂の持ち主も、魂そのものも無事では済まないが。
メガラニアは奴隷や戦争捕虜や下層民の魂を接収し始めた。
かくしてこの超古代文明は、数多の生贄のもと『禁忌魔法』を生み出すことに成功したのだった。
メガラニアの禁忌魔法の最先端は魔法研究所と呼ばれる場所だった。そこで数々の奇蹟が行われた。
俺たち人魚もその成果の一つというわけだ。
魔物とヒトを掛け合わせて創ったのが、人魚や鳥人や龍人……亜人と呼ばれる者たちだ。
研究所が亜人を創り出した理由は、彼らの夢想の探究だそうだ。
脆弱で寿命が短く残酷で争いを好むヒトよりも、高次の存在を創り出したいと願ったんだって。
星を損なうことなく共生し、謎多き自然を隅々まで探究し、争うことなく穏やかで幸福に満ちた長い生を送ること……。
そう言われてみれば、俺たち亜人は概ねそういう一生を送っているかな……?
創り手の思惑通りと考えると、なんとも言えない気分になるけど。
メガラニアは亜人を生み出してほどなく滅びてしまった。
一説によると星の怒りに触れて大陸ごと沈められたと言われているよ。
魔素のために接収された魂たちは、摩耗して死んでしまい、生まれ変わることができなくなってしまうんだって。
それが星の意思――上位の存在――の逆鱗に触れたとか……。
メガラニアの滅亡とともに禁忌魔法は失われた。そして、大陸沈没に巻き込まれて、ヒトだけでなく多くの亜人や魔法生物が消えてしまった。
けれど、俺たち魚人を含む何種類かの亜人たちは、魔素が強い魔の森に住み着いて、細々と命を繋いできた。
長たちによれば、俺たちがよく行く海底遺跡こそがメガラニアなんだそうだけど。本当かな?
「ぶるるっ」
ヒッポのいななきで我に帰る。現実逃避というか、想定外のフネとヒトの出現で思考が飛んでいた。
「ええと、ヒッポ、ヒトって海に飛び込んだらどうなるのかな。特にこんな嵐の夜に」
「ぶるるっ」
「うん、溺れるよね? 水中で息できないんだっけ? それから魚龍とかの魔物に食べられちゃうよね?」
「ぶるるっ」
「じゃあ……助けたりしたほうが良いかな?」
「ぶるるっ」
ふう……。えっとじゃあ助けに行くか。
それにヒトというものを見てみたくもある。
長たちの言葉を信じるなら、弱いのに残酷で争いを好むとか……?
ゴブリンの劣化版みたいな感じかな。ゴブリンたちは残酷じゃないけど、くだらないことでよく争ってはいるから。
俺は大きく海中を蹴って、大波をかわしながらフネに近づいた。
暴風で折れた木片が飛んでくるし、沈みゆくフネの周辺には巨大な渦ができていて危険だ。
ヒト助けとはいえあまり近づけないかな……。
「見て! ヒッポ、あそこで溺れているのってヒトかな?」
ヒトらしき生き物が、必死にもがきながら波に呑まれたのが見えた。
俺は海中に潜って一気にそのヒトに近づく。岩礁に叩きつけられそうなところを、かろうじて掴まえることができた。
どうやら気を失っているらしい。死んでないよね?
「うわっ、すごくあったかいな」
びっくりして思わず声が出る。
冷たい水に呑まれたというのに、そのヒトの体はぽかぽかと暖かいのだ。
アシカやセイウチなんかよりもあったかいかも……まあ彼らは分厚い脂肪で覆われているから、表面は多少ひんやりしているのかな。それに比べてこのヒトは筋張っていて痩せている。だからなのだろうか。
暖かさに驚きつつも、絶え間なく打ち寄せてくる大波をかい潜るのに必死になる。
この辺は岩礁だらけで、いくら俺でも叩きつけられるとダメージを喰らうから。今は自分より大きいヒトを抱えているので尚更大変だ。
「ええと、この辺の断崖に洞窟があったよね?」
今は満潮だから、洞窟の入り口付近まで海が満ちているはずだ。岩礁に注意は必要だけどなんとか行けるだろう。
「ヒッポ! 俺はこのヒトを洞窟に連れていくから、他に助けられそうなヒトがいたら頼むね!」
「ぶるるっ」
ヒッポはいなないて答えてくれた。
海馬は人魚よりさらに丈夫で力が強いので、任せて大丈夫だろう。
まだ成人前の俺の小柄な体躯と力では、このヒトを助けるだけで精一杯だ。
俺はヒトの胴体を両手でしっかり抱えて、断崖の洞窟まで一気に泳いだ。
急がないと怪我をしそうだったからだ。
だってヒトってあったかいだけじゃなくて……なんとも言えない痺れるような匂いがする。
まるで熟れきって割れ、果汁を滴らせる桃のよう……。
気を引き締めないと、ついうっとりして波に持っていかれそうになるから。
「ふう……なんとか着いた」
断崖の洞窟にたどり着いた俺は、渾身の力で洞窟の入り口にヒトを引っ張り上げた。
魚型だと踏ん張れないので、ヒト型になる。陸に上がるときは脚の方が便利だ。
はあ疲れた。ヒトを抱えて嵐の海を泳ぐのは、思ったよりもずっと神経を使う。
途中で岩にぶつけたりしないように、気をつけなくちゃいけなかったし。
だってヒトってとても脆いんでしょう? ちょっとブツけただけで、骨が折れたり肉が削れちゃったりするらしいじゃない。
脆いって大変だよね。俺たち人魚は頑丈だから滅多に怪我はしないし、骨が折れたって肉が裂けたって、すぐに自然に治っちゃうしね。
あ、欠損してしまったら再生はしないけどね。
「さて、このヒトが怪我していないか確認してみよう」
俺は指を弾いて、洞窟を魔法の光で満たした。
ヒトを見るのは初めてだから、ちょっとわくわくする。
へえ……もう性化は始まっているのかな? 男性? まだ成熟はしていなそう。
少年と青年の間ってところかな。
筋張って痩せた体は、男性への性化が半ばくらいまで進んだ人魚と同じような感じだった。
人魚でいえば、成人の儀の少し手前くらいだろうか。
まだ筋肉も少なく、ひょろりと背ばかり伸びて痩せぎすだ。顔立ちも中性的で、髭も生えていない。
絞りたての乳のように白い肌と、珍しい漆黒の髪色をしていた。
「なんだ、ゴブリンとはぜんぜん違うじゃない。……すごく、きれい? かも」
人魚はヒトや他の亜人たちよりも美しく造られたそうだけど、このヒトは俺から見てもきれいだった。
人魚の美しさとはまた違う……なんというか素朴な美しさだ。
俺たち人魚のはほりが深く、完璧な左右対称と黄金比で構成された、いわば凄みのある美貌だ。
それに比べてこのヒトは、凹凸の少ない滑らかな輪郭に、細筆でスッスと描いたような……繊細でいてあっさりした美しさなのだ。
一度だけ会ったことがある龍人に似ているかもしれない。
ざっと見たところ、大きな怪我はしていない様子だったのでほっとする。
人魚の回復魔法はヒトには効かないと聞いたことがあるから。もし命に関わる大怪我をしていたら、俺の血を与えて治す方法もあるけれど、それをやってしまうとこのヒトの……尊厳は奪われてしまう。
救恤と支配はひとつづきの魔法なのだ。
俺はこのヒトを支配したくはなかった。
ふと思いついてヒトの顔に耳を寄せると、柔らかく甘い呼気がかかった。
だいじょうぶ、胸も上下しているしちゃんと息もしている。
「はぁ、疲れたな……。それにこの暖かさと匂いは眠くなる……。」
いけないいけないと思いつつも、俺はついそのまま、うっとりとヒトに寄り添って目を閉じた。
少しだけ……。
このヒトが目覚める前に起きて帰ればいい。
今だけ、じんわりとした暖かさと鼻の奥が甘く痺れるような匂いに包まれいたい……。
少しだけ……、ほんの少しだけ……。




