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失楽園 一

ウアピの過去、およそ千年前の話です。

 俺がそのヒトを初めてみたのは、嵐の夜だった。


 黒い海と黒い空が、黒い風で激しく混ざり合い渦を巻くまさにその渦中で、俺は友達の海馬と一緒に「あらしあそび」に夢中になっていた。

 それは、荒波に乗って海面から飛び上がっては、暴風に煽られて海面に激しく叩きつけられるという荒っぽい遊びだ。

 上昇する波のてっぺんの手前で、海面に尾鰭を叩きつけてジャンプ! 強風にクルクルと巻き上げられて海にバシャっと放り出され、今度は水中でクルクルと渦に乗るのだ。そしてまた、海面で良い波を探す。


「あははっ! 海馬(ヒッポ)、さいこうだね!」


 俺は人魚のウアピ。

 幼い時から、友達の海馬とこんな危険な遊びをするのが大好きだなのだ。

 海と同じ色の鱗に覆われて、血赤珊瑚のような立髪が靡く美しい首に抱きつくと、ヒッポも翡翠の瞳で俺に笑いかけた。


「ああヒッポ、ずっとこうしていられたら良いのに!!」


 今年で一千歳を迎える俺はもうすぐ成人の儀を迎えるのだ。大人になってしまったら、こうして遊ぶ気持ちも無くなるらしい。


 そんなのつまらないな。


 成人したら残りの寿命は二百年だけ。しかもその間は(つがい)と子を設けて育てることにかかりきりになるという。

 それが幸せなのだとみんな言うけれど、俺は変わりたくなかった。


 平板な胸とくびれのない硬い腹、細い腕とすんなりとした下半身……俺は自分の体を眺めた。

 この体のままでいたかった。大人の体は重たそうで、ヒッポとこうしてジャンプなんてできそうもない。


「逃げてしまおうか、ヒッポ、一緒にさ」


 自分で口にしておいて、その途方もなさにブルリと震える。

 ヒッポはそんな俺を見て不思議そうに首を傾げているけど……。

 そうしてみたらどうなるんだろう? 本当に逃げてしまったら? 

 仲間の皆は、長たちは怒るだろうか? それに番のプーズーは?

 ふるふると首を振る。できるわけがない。

 皆を裏切ることは……特に番のプーズーは俺が消えてしまったら大人になることもできない。


 番を失った人魚は、男女に性化せずに子どもの体のまま大人になる。

 幼態成熟と呼ばれる人魚になれば、生殖が不可能な代わりに、長い寿命と強い心身を持つことができるのだそうだ。

 幼態成熟個体の多くは、仲間を率いる長になる。

 でも優柔不断でうっかりもののプーズーは、長になんて絶対向いてないと思う。


 それにあいつは俺と夫婦になるのを、すごく楽しみにしているのだ。

 幼い頃からいつも後ろをくっついてきて、何かと世話を焼こうとするプーズーを独りで置いていくなんて、絶対してはいけない……と思う。


 番は人魚の一生で一番大切な相手……自然に惹かれあって手を取り合うのが番なのだ。

 番は生涯寄り添うものなのだ……。

 そう自分に言い聞かせていたら、なぜか胸が苦しくてざわざわしてきた。


 俺はプーズーの手を自ら取ったことがあっただろうか? 

 気がつけばいつもそばにいて、必死で俺に伸ばしてくるその手を、振り払うことは躊躇われて……。

 

 俺はぎゅっと目を瞑って首を振った。もうプーズーの性化は始まっている。

 ()()は女性になり、俺は男性になるだろう。

 今さら手を振り払うことはできない。()()()()()()()()()()()()()


「ぶるるっ」


 ヒッポが心配そうにこっちを見ていた。

 俺はいつの間にか白くなるほど握りしめていた手を、ゆっくりと解く。

 

「ふふふ冗談だよ。だって俺たち人魚は、魔の森無しでは生きていけないしさ」


 そうなのだ。俺たちは魔素がなければ生きていけない。

 たまに外洋に出ることもあるけれど、体内の魔素が尽きるまで、持ってせいぜい1ヶ月ほどだ。


 魔素が豊富な魔の森に定期的に還らなければ、魔素不足で死んでしまうのだ。

 魔の森には人魚の里がある。だから何があっても仲間から逃げる事はできない。


 それに……俺は自分に言い聞かせた。

 俺はみんなが好きだし、番のプーズーのことだって大好きだ。

 とっても優しいし、ちょっと口煩いけれどきっと良い母親になるに違いないのだ。

 プーズーに女性化の兆しが現れたのはつい数日前のこと。番の性別は相互作用で決まるから、俺も徐々に男性化していくだろう。


 この細い体が骨太で分厚い筋肉に覆われたものに変わるなんて、とても信じられないけどね。

 

「はぁー。……ん? ヒッポあれは何かな? なんて大きいんだ!?」


 思わずため息を吐いた直後、俺は視界に飛び込んできたものに釘づけになった

 ボロボロになった大きな物体が、こっちに近づいて来たのだ。

 それは呆れるほど巨大な木の構造物で、傾きながらかろうじて海面に浮いていた。大きく広げたたくさんの布に風を孕ませて動力にしているらしかった。


 ただし暴風でほとんどの布は敗れ、布を掲げている木の棒も折れていたけれど。

 あれはもしかして、フネっていう、ヒトの乗り物じゃないかな。

 海中遺跡の壁に描かれていたのを見たことがある。


「うそ……フネなんて初めて見た。ヒトがあれに乗っているってこと?」


 長たちに聞いた話では、ヒトが住むと言う大陸ははるか北にあるという。


 この南の海域はヒトの領域からはかなり離れているし、魔物がたくさん棲んでいるから、ヒトにとってはとても危険な場所なのだそうだ。

 だからヒトはこんなところにはまず来ない。

 長たちも、伝説として知っているだけで、実物のヒト族を見たことはないらしい。


「一体何をしにここまで……? 長に知らせなくっちゃ。あーっ! 沈む!!」


 大きく傾いだフネがついに沈みはじめる。

 叩きつけるような雨の中、フネの上からパラパラと何かが海面に落ちるのが見えた。


「あれは……、ヒト? ヒトが海に飛び込んでいるの?」


 

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