水葬の湖 三
「ひっ、い、嫌ー!」
真っ黒な穴がぽっかりと体のどこかに開いた気がした。
その空虚な排水孔に、まるごとぞぞぞっと吸い込まれていく錯覚に私は悲鳴を上げた。
誰かが強く私の肩を掴む。
エル・クエロだ。青灰色の瞳が私の顔を映している。
肩に食い込む冷たい指が、意識が遠のくのをかろうじて阻んだ。
「ヴィオレッタ! 大丈夫? 一体どうしたんだい?」
何を言っているの?
何で分からないの?
「ああ……ママが、ママの気持ちは……わたしは…………」
暫く訝しむように私を見つめた後、少年人魚は「あっそうか」という顔をした。
それから私に向かって大きく微笑む。
まるで安心しろとでも言うように。
「ヴィオレッタ! 大丈夫だ。
彼は君を心底愛しているんだ。
いいかい、確かに初めは人造魂を使ったさ。
彼の庇護的で慈悲深い性質と人造魂の強い母性は相性がとても良かったしね。
でもとっくにそれはもう彼自身と分かち難く結びついているんだ」
違う違う!
そういう問題じゃ、ない!
なぜ分からないの?
『ヒトじゃないから』という考えがぱっと浮かんで、私はそれを慌てて押しやった。
前世で嫌悪したホムンクルスを蔑むのと同じ思考だ……。
ヒトが情緒的に優れているなんて、だってウソだったじゃないか。
「ママの気持ちは……偽物だったもいうこと?」
「あのネックレスには外せない魔法をかけたから大丈夫」
「そういう問題じゃ……。ああ……ママが……わたしは…………」
言葉にならない。
世界がぐにゃりと歪む。
足元が崩れ落ちる。
再度気を失いそうになる私を、エル・クエロが抱き止める。
その端正な顔は微かに歪んでいた。
「そんなにショックを受けるなんて……ごめんよ。
でも君を死なせたくなかったんだ。
僕たち人魚にとって君は、とても大切な存在なんだ。
でも僕らでは君を生かすことができなかった。
だからといってヒトにただ託すだけでは、やはり君は死んでしまっただろう。
どうしてもアメジストを使う必要があったんだ」
息が苦しい。
水の中にいても、水から上がって空気を吸っていても苦しい。
はくはくと動く私の口に、エル・クエロはその冷たい唇を押し当てた。
【ーー】
いつの間にか潮と森の香りに包まれている。
これがエル・クエロの体臭なんだろうか。
少年のつめたい唇が離れていった時、私は呼吸ができるようになっていた。
私は自分の口を指でおさえて、ぼんやりと彼を眺めた。
パニックは去っていったけど、気持ちがざわざわと落ち着かない。
そのざわざわが私の中で渦巻いて苦しくなってきた頃、まるで突破口のようにある言葉が浮かんだ。
『君はとても大切な存在』
少年の端正な唇からこぼれたその言葉だ。
『あなたはとても大切な存在』
主治医の黒々とした瞳や、私の頬に触れるかさついた手を思い出す。
私を見てくれるのも、触れてくれるのもその時だけ。
笑顔を向けてくれるのも、その時だけ。
嬉しかったなぁ。
主治医の期待に応えようと、私は自ら残酷なほど過酷な実験に協力したこともあった。
愛が欲しかったからだ。
でも本当は分かっていた。
私は彼女にとって『最適な実験動物として大切な存在』だったのだと。
私が命を犠牲にしたところで決して愛など得られないのだと。
分かっていながらなぜ身を捧げたのか?
単純に愛する者の役に立ちたかったからだ。
――嘘だ。本当のところは、自分でもよく分からない。
……まだ突き詰める勇気がない。
でも、私が何の役にも立たない醜いモンスターでもママは私に愛情を注いでくれた。
その愛情が……アメジストによるものだったとしても。
その事実は本当に私を打ちのめすけれども……。
だからだろうか、
「触らないで!!」
私は荒々しく少年の華奢で平板な胸を押しやった。
これまで感じたことがない程の憎しみに身を震わせながら。
「大切だなんて、簡単にいうな! 私を都合よく使おうとするな!」
エル・クエロが戸惑ったように腕を広げる。
潮と森の香りが遠ざかっていく。
「君の気持ちに【逸らし】の魔法をかけたんだ……。恐怖によるパニックが辛そうだったから。でも憎しみに移行してしまったのか、これはマズイね」
じりじりと私から距離をとりつつ、少年人魚はそう呟いた。
【逸らし】の魔法?
そんなことどうでも良い。
私は少年と人魚たちを強く睨みつける。
体の底から……前世の底から噴き出してくる憎しみの波に進んで身を任せる。
ああ……私はこんなにも憎んでいたのか。
恨んでいたのか。
すべて押し込めていたけれど。
ゴオォォォッという音がどこからか聴こえる。
私の周囲の湖水が不可視の空間にものすごい勢いで圧縮されていく。
「皆んな、逃げるんだっ」
エル・クエロが叫ぶが間に合わない。
無数の水槍が噴出し人魚たちを襲う。
なんでこんな事ができるのかは分からない。
ほとんど無意識に発動していたし……でも前世の意識転送実験で、海洋兵器になったときに行った攻撃訓練の一つにとても似ている。
「ヴィオレッタ、やめて!!」
人魚たちが私を助けたのには、きっと裏があるのだろう。
大切だという割には、この十年間人魚たちは一度も私の前に姿を現さなかった。
白い粉を届けるだけであとは放置していたくせに、簡単に大切とか言われてもね?
それに私は人魚たちがしたことを許さない。
たしかに、ラカルが届ける粉がなければ私は死んでしまっていただろう。
魚人たちが言うように、アメジストがなければ私はママに……捨てられて死んでいただろう。
それでも、それでも許せないのだ!
ママの人格や愛情が作られたものだったなんて、残酷すぎる。
なぜなら偽物なら要らなかったなどと否定したり、切り捨てたりすることは私には絶対にできないからだ。
ママとの日々が、その愛情が、眼差しが、あたたかい手が、私の全てだったからだ。
前世の記憶を取り戻してからも、その温もりが失われることはなかった。
空っぽで底なしの穴のようだったかつての私は、文字通り生まれ変わったのだ。それなのに!
うまく言えない。でもこれ以上ないほどの愚弄だ。
何に対する?
何も知らず愛されて当たり前と思っていた、私に対する愚弄?
私たち親子の十年間に対する愚弄……?
気がつくと水槍は止まっていて、水面にはたくさんの傷ついた人魚たちが浮かんでいた。
穴だらけになった彼らはちょっと目も当てられない姿になっている。
…………。
「うう……」「なんてじゃじゃ馬だ……」「解せぬ……なぜこんな目に?」
…………。
えっと、我ながら……やりすぎた、かな。
うん、半分以上前世に溜め込んだ憎しみだったような?
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