灯台守の話
グラナーダ大陸の南端プラタ地方に、涙がぽろりとこぼれたような小島がある。
石積みの白い灯台がぽつんとあるばかりの、ほぼ無人の島だ。
その周囲は暗礁が点在する危険な海域で、三十年程前の大規模な海難事故をきっかけに灯台が置かれた。
灯台守とその家族が長年そこを守ってきたが、老齢になったため、数ヶ月前に独り身の青年と交代した。
シンマスというその眉目秀麗な青年は優秀な軍人であったらしいが、上官に頼み込んで孤島の任務に就いたと言う。
次の灯台守が来るまでの繋ぎと思っていたが、この青年は余程灯台守の生活が気に入ったのか、それとも海軍に帰りたくない理由でもあったのか、上にかけあって常任になってしまった。以来優秀な灯台守として職務を果たしていたが……。
ある朝、いつものように海岸の見回りをしていた彼は、奇妙なものを見つけた。
潮だまりに、小さな船のようなものが浮いている。近づいてみると、それは葦をしっかり編み込んだ船だった。
「あぷーー」
聞こえてきたその声に、シンマスは慌てて葦船を覗き込んだ。
「……こども?」
ピンク色のやわらかい布にくるまれたそれを、青年はそっと抱き上げた。驚くほど温かく、やわらかい。
「あんた、どこから来たの?」
シンマスは赤子に問いかけた。
天使のような顔立ちに、思わず微笑む。なんて愛らしい子なんだろう。
むせかえるような甘い乳の匂いに、幼くして死んだ弟妹を思い出す。あの子たちも、こうして抱っこされるのが大好きだったっけ。
気が遠くなるほどの懐かしさと悲しみが、どっと彼に押し寄せた。匂いが呼び覚ます記憶はいつもいっそ暴力的だ。
乱れた気持ちを宥めようと、彼はお守りにしている胸元のアメジストを握りしめた。
赤ん坊のぱやぱやと生えた髪を撫で瞳を覗き込む。そしてはっと息を呑んだ。
紫の瞳。それは、王家特有の色だった。髪はまだ薄いが、やはり王家にしか現れないの黒髪のようだ。
「この子、もしかしてアマリア姫の……。噂は本当ってこと?」
アマリア姫の絵姿は見たことがあるが、瞳の色以外に面影はない。
彼は戸惑いつつも、赤ん坊を家へと連れ帰った。
黒髪紫眼は王家の血筋にのみ現れる色彩だ。また、王の子であってもこの色彩以外は王家の一員とは認められない古い掟がある。その場合は、爵位を得て臣籍に下る。
現在の王族は現王フェリペと、その一粒種である十五歳のアマリア王女だけ。
そのアマリア様があろうことか下賤な旅芸人の子を身籠ってしまい、もうすぐ産み月であると巷で噂になっていたのだが。
ガララン、ガララン……
プラタの街の鐘楼の音が、風にのってかすかに響いてくる。
王族の誕生、結婚、もしくは死に際して鳴らされる決まりになっている。
「どうしよう……」
青年は赤子を腕につぶやく。噂によると王女を溺愛していた王フェリペは、相手の男をひどく拷問したあげく処刑したらしい。
王女の嘆きは深く、お子を宿した体に大きな障りがあったらしく、ずっと床に臥せられていたそうだ。
すると、この鐘の音は王女の死を知らせるものだろうか……。アマリア様は、心労の果てのお産で亡くなられたのだろうか。
そしてこの子は捨てられた。もしくは、暗殺を恐れて逃がされたということだろうか?
いずれにせよ、この子がここにいることは隠した方がよいだろう。
シンマスはそう結論づけた。
拾ってしまった以上、また捨てるなんてできないし、育てるしかないね。と苦笑する。
「あれ? おくるみに名前が刺繍されているわ。ヴィオレッタ、ですって。あなたの瞳にぴったりの名前ね」
灯台守の仕事は、決して暇でも楽でもない。
灯器の点消灯のほか、気象観測、霧笛や船舶との交信、機器の手入れなど多岐にわたる。
加えて、他に人の住まぬ絶海の孤島であるが故に、食料をはじめとした生活必需品も、基本的に自給自足で賄わなくてはならない。
定期便はあるにほあるが、三か月に一度程のため期待できない。
その上、生まれたての赤子の世話など普通は考えられないのだが……。
青年はこげ茶の瞳を輝かせて、赤子を抱きしめた。
「あなたをこっそり育てるのに、私以上の適任はいないわね」
なに、子育ては弟妹の世話で慣れている。このくらいの子は、ずっと紐で括り付けて抱っこが良いのだから、そのまま仕事すれば良い。夜通し眠れないのも、過酷な海兵の生活では当たり前だった。
何より自分は、お産で傷つき疲れ果てた母体ではなく、傷ひとつない屈強な肉体を持っているのだし。
そう自分を鼓舞する彼も、やはり赤子の世話にはたびたび泣かされるのだったが……。
その後、とりあえずそのヴィオレッタという赤子に温めたヤギの乳をやりながら、シンマスはぎゅっと握った幼な子の手の中に不思議な物を見つける。
海を切り取ったような青色の宝石だ。
「あら綺麗。まるで海ね」
「あぷーー」
「危ないから、この箱にしまっておくわね」
……しかし、いくらヤギの乳を飲ませても、赤子は痩せていく一方だった。
そして驚いたことに、天使のようだったその顔立ちが徐々に異様なものへと変貌していくのだった。
二つの輝く宝石のようだった目は、中心に寄っていき、ついには一つにあわさった。
口は徐々に避けて大きくなり、口中にはギザギザの歯が乱れ生えてくる。
愛らしい赤ん坊の世にも悍ましい変化に、シンマスは恐怖した。
見るも厭わしいその姿。体や泣き声は赤子のままなのが、またいっそう恐ろしい。
ーーいったい何を拾ってしまったのだろう? この子どもは何者なんだろうか?
また海に捨ててしまえば良いものを、青年は赤子を手放せなかった。
悍ましさに鳥肌をたてながらも、世話をせずにはいられない。
死ぬほど恐ろしいと思いながらも、愛しくてたまらない。
明らかに異常だ。
女装癖があること以外至って普通の青年であるシンマスは、なぜこの不気味な子どもを手放せなかったのか。
幼い弟妹を悲劇的な状況で失った過去の傷が、かれを慈悲深くさせたのか。
それとも赤子が、化け物故に魅了の魔法でも使ったのだろうか……。
ある日、シンマスはやせ細ったヴィオレッタを胸に抱き、泣きながら砂浜を歩いていた。
すると、小さな美しい小箱が波打ち際に流れてきた。開けてみると、真珠やサンゴなどの宝物の他に、ミルクらしきものが入った素焼きの壺が入っていた。
ここ数日はぐったりと目を閉じているだけのヴィオレッタが、激しく泣き始めた。
藁にもすがる思いで、そのミルクらしいものを与えると、無我夢中で飲み干してしまった。
そして、あっという間に元気になり、顔も元通り愛らしいものに戻った。
「この乳はいったい何なの? あなたは一体何者なの?」
「あぷー」
その後も、毎日のように波打ち際に乳が届いた。
たまに見たこともないほど大粒の真珠などが入っていることもあった。
「誰かがあなたのことを見守っているのね。不思議だわ……どうやって届けるのかしら」
この島に近づく船がいたらすぐに分かるだろう。灯台からは360度見渡せるのだし。
伝書鳩みたいのを使っているのかしら……? などと青年は考えた。
答えは意外なものだった。
魔物だ。イルカが鼻先で小箱を押しながら泳いでくるところを、ある朝シンマスは目撃した。
青年に見られたことを知ってか、イルカは歯をむき出してジャンプする。
「きゃははっ!」
「まあヴィオレッタ。イルカが好きなの? 凶暴なヤツのはずだけど……あなたのご飯を届けてくれてるのね」
いったいこの子は何者なんだろう? 再びシンマスは思った。
王族の色彩を持っているのに、魔物イルカが届けるミルクがないと魚龍のような顔貌に変化してしまう。
このミルクは一体何なのだろう。そして誰がイルカにミルクを託しているのだろう。
魔物イルカの運んでくる箱には、離乳期になるとパンケーキのような物が入るようになる。ヴィオレッタが食べ残しても、シンマスはそれを決して食べようとは思わない。何かわからないがたまらない嫌悪を感じるのだ。いや、それが何なのか分かっているからこそ忌避するのかもしれない。特有のにおいがするのだ……。王都の民衆の間でひそかに根付いたある風習を、彼は思い出していた。それから一度だけ遭遇した、恐ろしくも美しいあの魔物のことを。
そして、歳月が流れた。




