貴女が悪ならば。
2024.05.11 キャラ描写追加。
セラフィーナ様は、アンリエッタ様が言われたように、ほんとうに素晴らしい方でした。
筆頭公爵家の御令嬢で、皇太子殿下の婚約者でもあらせられるのに、奢り高ぶる様子など全く無く、付け焼き刃のマナーで必死に取り繕っている私を温かくもてなしてくれました。
はっきり言いまして、今の私に貴族的な洒落た会話は無理です。ですが、今、私達がいるアリンガム邸のティルームには、お茶の用意をしてくれたメイド(とっても美人、さすが公爵家の使用人)以外、セラフィーナ様と私しかいません。黙りこくってしまう訳にもいかず、ええい、ままよ! と、下町のことを話しました。話題として不適切すぎるのではないかと、ビクビクものでしたが……。
「まあ、下町のお祭りではそのようなことが。なんて活気のあることでしょう」
幸い、セラフィーナ様は私の話に興味を持って下さり、楽しんで下さいました。彼女の春の日差しのような笑顔が、私の不安な心を癒してくれます。私はその笑顔に勇気づけられ、沢山の下町の話をさせてもらいました。
セラフィーナ様は、両手の指先を合わせられながら、少し小首をかしげられました。なんて可愛く、優雅なんでしょう。このような婚約者がおられる皇太子殿下は、なんという幸せ者なんだろうと思っていたところ、セラフィーナ様が仰られました。
「パティ様と一緒に屋台を巡れたら、さぞ楽しいことでしょうね。私も下町に生まれてれば……、そう思ってしまいます」
含んでいたお茶を思わず、吹きそうになるのを、必死で止めました。ンプ、ゲフ、ゴフ。
「だ、大丈夫ですか、パティ様」
「失礼をしました。少し気管に入りかけたんです、大丈夫です」
私は無作法を詫びました。少し離れて控えるメイドが、じーと私を見つめている気がするのですが、気のせいでしょうか。
「御冗談を。下町は治安も悪いですし、通りはともかく、路地裏などゴミゴミです。皆の憧れであり、皇太子殿下の婚約者でもいらっしゃるセラフィーナ様に相応しい場所ではございませんよ」
途端にセラフィーナ様の表情が悲し気になりました。
あれ? 私、何か不味いことを言いましたっけ?
少しトーンが低くなられた、セラフィーナ様の声が響きました。
「パティ様。私、セラフィーナは幸せだと思われますか?」
何故、そのようなことを聞くのだろうと思いました。私は今日、初めて彼女にお会いしたのです。彼女のことなど殆ど知らないのです。それなのに……。
私はセラフィーナ様の目をじっとみました。とても真剣な目です。私をからかっているという訳ではなさそうです。だったら、素直に答えるしかないでしょう。それ以外、私に出来ることはありません。
「幸せだと思います。セラフィーナ様は世の女の子が、憧れ、欲する全てのものを持っておられます。私から見る限り、幸せそのものに思えます」
私の答えを聞いた彼女は少しの間、黙り込まれました。
「幸せ、幸福は、確かに素晴らしいものです。でも、誰かの犠牲の上になりたった幸福は、本当の幸福なのでしょうか? 全ての人が幸福になれる世界など無いということはわかっています。でも、私には、どうしても、そういうものだと流すことは出来ないのです」
「セラフィーナ様……」
外から見れば、幸福そのものの彼女にも、悩みがあることはわかった。でも、それは人であれば避けられないこと、神様でさえ同じだ。女神様の愚痴の長いこと、長いこと。
「ドンマイ! セラフィーナ様」
「えっ?」
セラフィーナ様は目をぱちくりとされました。なんて大きく奇麗な瞳。その瞳に私が映っています。
「それは仕方ないことです。貴女が何をお悩みなのか私などにはわかろう筈もございませんが、皆、何かを抱えて生きています。生きて行くしかないのです。でも、人生なんて、どうなるかわかりませんよ。突如、とんでもないことが起こりますからね。本当にとんでもなことが」
私なんて、神様が降臨してくるわ、肥溜め死の恐怖におびえるわ、突如、貴族令嬢になるわ、の怒涛の日々。
私は、セラフィーナ様を勇気づけようと精一杯の笑顔を作りました。下町の男の子だったら、これで簡単に落とせますが、今回はそういうのとは違います。心意気が違うのです。
「だから、ドンマイ。明日は明日の風が吹くのです、セラフィーナ様」
「パティ様……」
げげ! セラフィーナ様の目に涙が浮かびました。
え、え? 私の言ったこと酷かった? 励ましたかっただけなんだけど……。はっ! 言葉遣いか! 言葉遣いなのか! よく考えれば、「ドンマイ!」なんて言葉、令嬢が使う言葉じゃありません。それに、その言葉を使った相手が、筆頭公爵家の御令嬢……。
私の血の気が引いて行きました。やっちまった。
きっとセラフィーナ様は、私の粗野な言葉遣いにショックを受けたのでしょう。
どうして私がこのような粗野な人のお相手をしなければいけないのでしょう! やはり、下町育ちの人となんて、付き合えないわ!
とか、思ったのでしょう。うう、最悪です。とにかく謝りましょう、謝ればなんとか許してくれるかも。
「あ、あの、セラフィーナ様」と私が申し開きをしようとした瞬間、控えていたメイドが彼女に声をかけました。
「お嬢様。そろそろ終わりになされないと。殿下とのお約束の時間が迫って来ております」
「まあ、もう、そのような時間ですか!」
セラフィーナ様は、私に退席しなければならないことを謝り、メイドと共に出て行かれました。
私は、ちゃんと謝れなかったことに、ショックを受け、彼女の中座の謝罪や別れの言葉もちゃんと耳に入らず、漫然とお見送りしただけでした。
せっかく、途中までは良い雰囲気でお話出来ていたのに、最後の最後にぶち壊してしまいました。
なんたる悲劇!
しかし、アリンガム公爵家からの帰りの道。馬車に揺られながら、最後にセラフィーナ様が見せた涙について、もう一度よく考えてみました。
本当に私の粗野な言葉遣いが原因だったのでしょうか? 冷静になって考えてみますと、なんて粗野な! と思ったとしても、嫌だな~くらいは思いこそすれ、泣いてしまうなんてことがあるでしょうか?
多分ないです。あったとしても相当心が弱いか、病んでいる方でしょう。でも彼女はどちらとも思えません。では、他に理由が……。一生懸命考えましたが全然わかりませんでした。
そうこうしているうちに馬車が、我が家へ帰り着きました。その時です、お祖父様が、何それ? 何で今頃言うの? 的発言をされました。
「次に、公爵様にお会いした時は、パティもお礼を言ってくれ。公爵様のおかげで、うちは豊かになれた。公爵様が鉄道株への投資を勧めてくれたんだ。我が家の恩人なんだよ」
私は愕然として、馬車の座席の上で力が抜けてしまいました。
「どうした、降りないのか」
「降りないのではありません、あまりの脱力に降りる力が湧いてこないです。お祖父様」
私の嫌味に、お祖父様は全く気付いてくれませんでした。
「そんなに疲れたのか? この馬車は最新式で揺れが一番少ないやつだぞ、このスプリングが、ショックを吸収してだなー」
今日は散々な一日でした。
セラフィーナ様には泣かれ、公爵様には、受けた恩の礼も言えない娘と思われたことでしょう。私の貴族令嬢としての初めての社交が、こんな結果になるなんて、がっかりです。
その日の晩、女神様が降臨なされたので、思わず愚痴ってしまいました。あちらの愚痴は散々聞いてあげているのです。少しくらいはいいでしょう。
「何を嘆くかと思えば、そんなこと。嘆く必要さえないことではないですか」
「嘆く必要がないって、セラフィーナ様にも、公爵様にも、嫌われたかもしれないのですよ。嘆かずにはおられません」
「パティ、貴女はもう忘れたのですか。セラフィーナは、アリンガム公爵家は敵側なのですよ。嫌われたって関係ありません。どうして好かれる必要があるのです」
女神様は、呆れ顔で私を見ています。
私も、私自身に呆れてしまいました。どうして呆れたかと言うと、お祖父様に頼んでアリンガム公爵家へ連れていってもらった目的を思い出したからです。
その目的とは、セラフィーナ様が本当に悪、悪役令嬢なのかを確かめることでした。決して仲良くなって、あわよくば友達になりたいとかではありませんでした。
「うう、セラフィーナ様が悪いのです……」
「ようやく貴女も、セラフィーナが悪だとわかったのですね。安心しました」
うん、うん、と、女神様は勝手に納得し。帰っていかれました。
今日、セラフィーナ様と初めてお会いした瞬間、彼女が本当に悪なのか? 悪役令嬢なのか? などという疑問は、どこかへ飛んで行きました。
今まで生きて来たなかで、セラフィーナ様の笑顔ほど、純粋で、穢れのない笑顔を見たことがありませんでした。
私は一瞬で、彼女が好きになりました。
もし、本当に彼女が悪なら、自分も悪になっても良いと思う程に……。
私の心は彼女に、絡めとられました。
こんな、私が、「ひろいん」として彼女を不幸の谷へ叩き落すような真似が出来るでしょうか?
出来ません、出来る訳がありません。
私は溜息と共に、寝台に身を投げ出しました。
その晩、夢の中で、セラフィーナ様の別れの言葉、ちゃんと聞き取れていなかった筈の言葉が、彼女の美しい声と共に蘇って来ました。
『パティ様。また来てくださいね。絶対ですよ、パティ様』
たぶん、これは私の無意識が捏造した幻想でしょう。
幻想でも嬉しかったです。
とても嬉しかったのです。
ひろいんは女神様の意志を完璧に無視し始めました。女神、軽すぎる。いくら代理神だといっても、もう少し神としての威厳を見せてもらいたいものです。