ハルちゃんのトナリ
「ぶんちゃーーーーーーん」
学校から帰ってくるなりカバンを玄関に投げ捨てて、近所迷惑になるくらい大きな声で僕の名を叫び、激しい足音を立てて階段を上ってくる。そして、僕を見つけると息ができなくなるくらい抱きしめる。それがハルちゃんの日課だった。
この行為が突然無くなったのは、1週間前。急に、ただいま、の声が小さくなり、カバンを投げ捨てることもなく、僕のいる部屋へゆっくり上がってきた。
「ぶんちゃん、わたし、人が怖い」
泣きながらそう言う君に、僕がしてあげられることは限られている。
「ほっぺた舐めたらくすぐったいよぉ」
えへへ、と笑う君に僕は精一杯の笑顔を作って応えた。伝わっているかは分からないけど。
笑った君が次に吐いた言葉を僕は未だに忘れることができない。
「ぶんちゃんは分からないかもしれないけど、人間はとても厄介なの。同調性とか協調性っていうものがないと、変人扱いをされて除け者にされるの。学校っていう組織がそういう風潮なのかもしれないけど、わたしそれが苦手なの」
君の声のトーンで君の心が沈んでいるのが痛いほど分かる。学校で嫌なことがあって、だから今、震えた声で僕に訴えてかけてるんだと思った。
僕は君の膝の上で大人しく、君の言葉を僕が分かる範囲で耳を傾けた。
「昨日、いつも一緒にいるグループの1人から靴下を買いに行こうって誘われたの。来週からグループみんなで同じワンポイントの入った靴下にしようって。わたしは高校生にもなって、みんなと同じ靴下とか気持ち悪くて嫌で断ったの。そしたら今日、そのグループからいなかったものとして扱われた。わたしは完全にクラスの中で浮いてたし、透明人間だった」
僕は君の言うソレをやっぱり理解することはできなかった。
ただ、君はあまりにも理不尽な世界にいて、自分以外の人間の言葉に翻弄されているんだってことを悟った。
「なんで、みんなと同じにしなくちゃいけないの?他人は自分じゃないし、自分は他人じゃないのに、どうしてみんな個性を捨ててるのか理解できない」
他人は他人。自分は自分。そうやって自分に暗示をかけることで君の心は均衡を保っている気がした。
泣き喚く君に僕は何もしてあげることは出来ず、涙が溢れて濡れた手に一生懸命頬ずりをする。
そんな姿を見てか、君ははにかんだ笑顔を見せた。
「よしよし」
僕を撫でながら君は笑う。心の奥で何かが刺さっているくせに、君は笑う。そんなに気を遣って笑わなくていいのに、と思うけど僕はそれを伝えてあげるすべがない。
僕は君に何も言ってはあげられないけれど、僕がいることで君の世界が平和に安心して穏やかに暮らせるのなら、それが僕の幸せだ。
(ハルちゃん、なんでそんな辛い顔をしているの?この間まで、僕の目の前であんなに楽しそうに友だちとテレビ通話してたのに、君の友だちはそこまで酷い人なの?)
僕は君に聞きたいことが沢山あるんだ。君の膝の上で脱力しながら、僕は次の君の言葉を待った。
「ねぇ、ぶんちゃん。私といて楽しい?」
(楽しいよ。僕は君といるのが1番楽しい)
「ねぇ、ぶんちゃん。どうして君は私の彼氏じゃないのかな」
(ごめんね、ハルちゃん。それは叶えてあげられないよ)
それを聞いて、好きなのは僕だけじゃないことをしって嬉しくなった。尻尾がちぎれそうなくらい動いているのが自分で分かる。
もし僕と君が付き合ったならどこへ行こうか。山も見たいし、海も見たい。前に行ったあの川もいいななんて想像する。
鮎を捕まえて、一緒に食べよう。スイカを川に浮かべて、キンキンに冷やして食べよう。泳ぐのを競争しよう。どっちが早いかな。君に負けない自信があるなんて考えながら、ふと君の目を見る。
君と目が合うと、僕はすごく照れるんだよ。
「ぶんちゃんが喋ったら、もっと私の世界は広がるのになぁ」
(それは無理なお願いだね。ハルちゃん)
「なんで、ぶんちゃんは犬なの」
(僕が聞きたいよ)
「ぶんちゃんは、喋らない代わりに私のことなんでも知ってるもんね」
(そうだよ。君が自分を追い込みやすいことも、涙もろいことも心が優しくて、人を裏切れないこともなんでも知ってるよ)
「ぶんちゃん、まだいなくならないでね」
(あぁ、もちろん。でも、まぁ12年くらい一緒にいるからそろそろ早く独り立ちしてね。ハルちゃん。君が結婚して、僕がいなくなっても生きていけるようになるまでは僕は君の1番近くで君を守るし、君の相棒だよ)
届かないと知っている。君に僕の伝えたいことは伝わらない。
だからせめて、君のほっぺをたくさん舐めるんだ。これが僕の愛情表現だから。
「ぶんちゃん、だーいすき」
(あぁ、僕も大好きだよ)