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おもちゃの行進

作者: 新山流泉

精神疾患を持っているから殺された人たちがいます。彼らが一体何をしたというのでしょうか。自分も強迫性障害を持っていて、消えたいと思うことはざらにあります。しかし赤の他人がそれに言及する権利はあるのでしょうか。

「普通」と「異常」の価値観を考えつつ、楽しんで読んでいただければ幸いです。

 “頭のネジが外れている”

 この言葉を聞いたことがある人は、多いんじゃないかと私は思う。

 意味としては、“現実を見ずに楽観的に行動することや、普通とは言い難いことをすること”が表現としては妥当だろう。

 

 じゃあ、「普通」ってなんだろう?

 

 彼は遠くの雲をパンみたいだなと頬を緩めながら、そう考えることが多々(たた)あった。

 普通:一般的なこと。多くの人がが思う当然のこと。“常識”というものも、「普通」というカテゴリの中の一部だろう。

 

 学校帰りに、彼の足音が聴こえると忍者みたいに草陰に消えていくヤモリやトカゲを見ながら、いつも考えていた。


 「普通」はどうやって作られるんだろう?


 彼が構成されている、親にもらったその身体からは、いくつものネジが取れたり外れかけていた。歩くたびにそれら(・・・)はミシミシ音を立てて、今にも崩れそうな身体をやっと支えている状態だった。

 でも、彼自身は気がつくことはない。自分ではそう易々と認識できることでないのだ。

 他人からだって、それを察することは容易ではない。

 なぜなら、ネジは決して目に見えないから(・・・・・・・・)だ。

 何人たりとも、彼らを構成するそのネジを目視することはできなかった。


 「おもちゃの身体はふらふらとそれでも歩いていた」

 

 一人暮らしをしている部屋に帰宅する前に、アパート前に設置されている自販機で缶ジュースを買う。当然、ビールは売ってない。それは「普通」のことだ。

 ビールはアルコールが入っていて、それが身体に悪く作用する面があるからこそ、法律で20歳や18歳以上などの年齢制限が設けられているのだ。

 もし自動販売機でビールを購入することができたら、小学生でもビールを買うことができるようになってしまう。

 それを防ぐために、公衆の自販機でのビールの販売はない。

 もちろん、これからの時代、自販機にもスマホをかざして年齢を確認できるような機能がつくかもしれない。かなりめんどくさくなるが、それならビールが自販機で売り出される時代も来るかもしれない。

 ただ、現在はまだそうはなっていない。もしビールが自販機で売り出されたら、ひとまずそう考えてほしい。

 おそらく炎上するだろう。「異常」で“非常識”なことだからだ。

 そう、この世の中は「異常」で“非常識”だと感じたものを無差別に叩く。これ見よがしに叩くんだ。

 

 どうしてそんなに叩くんだろう。それぞれの“価値観”を正義や正しいことに転換して、トンカチで叩く。叩く。ネジを叩く。

 相手の思いや視点なんてこれっぽっちも気にせずに。見えないから。そういう言い訳が耳に届くのは何故だろう。

 ネジは綺麗に収まったりしない。いびつに歪んで、その人物を形成する。

 歩きながら、ネジは緩み、ぽろっと取れて字面に転がっていくんだ。

 そういう意味では、正義や正しいことも「普通」というカテゴリに含まれているのだろうか。

 

 自分が叩かれたり笑われたりして過ごすと、その捌け口を探してしまうんだろうか。

 トンカチで叩かれて、ネジがなくなって動かなくなったり、そのまま壊れてしまったりする。

 身体を支えるネジがないと、彼らは進まない。ゼンマイ人形とは違うが、ネジなしで彼らは歩むことができなかった。

 ネジを締める方法は各々違った。その中にはきっと、トンカチで他者のネジを叩くことで、自分のネジを回すというものがあるのだろう。

 そうでもなかったら、何かを傷つけたいと思うことがあるだろうか?

 そうでもなかったら、何かを壊したいと思うことがあるだろうか?


 「おもちゃはギシギシ音を立てて踊っていた」

 

 その部屋には、シャワーを浴びるまでは触わることができないスペースと、シャワーを浴びる前までしか触れることのできない箇所が存在した。

 彼は生まれた時からか、もしくは成長の過程からか、“強迫性障害”を持っていた。

 初めにそれがわかったのは、彼が高校生の時に、両親に心療内科の受診を勧められて、通院した時のことだった。

 もちろん精神疾患を持っていると、“障害者”なんて形容されることがあるから、自分は「普通」でないんだ、「異常」なんだと胸が重くなった。

 もともとそういう気配はあった。絶対に好きでない人を“好き”だと心の中で浮かんだ言葉に縛られたり、絶対にこの悪口を言いたくないと思えば思うほど、その言葉が友人と対面した時に心の中にブワっと溢れ出す。

 心理学部に入学して、強迫性障害にはそういう面もあるのだと知った。

 強迫性障害は、トゲだ。自分を苦しめるだけのトゲだ。

 痛くて痛くて堪らない。けど、トゲは消えず生きれば生きるほどその先端は鋭く、大きくなった。

 知識が増えるからだ。知識が増えれば考えること、疑うことが増える。それらが増えれば相対的に、嫌なことに囚われる機会も多くなる。

 考えて考えて、考えずにはいられなくなるのが強迫性障害だ。

 彼はよく人から、「あなたは考えすぎだね」と評価されることが多かったが、これは彼の性質としてだけでなく、強迫性障害があるからという側面も大きかった。

 「普通」と大きく遠ざかってしまったのは、予備校に入学した頃だった。

 周りで鼻をほじった人間がいた。彼はふと考えてしまった。そいつが触った机を誰かが触る。その誰かが触った机や椅子もまた汚いのではないか、と。

 色があるのだ。暗くてジメジメしていて、重い色。

 それに触れてしまうと、自分が汚れてしまうような心の重圧が、彼をそれらに触ることを許さなかった。

 「異常」は自分をも(むしば)んだ。

 

 「おもちゃは何もない世界を欲しがった」


 彼はシャワーを浴びていた。浴室の天井は殺した小蝿の跡がついていた。入居した時にすでに薄汚れていた洗面台の蛇口は、彼の心をよどませる。

 アルコール除菌シートを一枚、青くなったその蛇口の上にかぶせてからが彼の一日の始まりだった。掃除しても、もう汚れが取れないぐらい劣化していたのだ。

 彼は浴室掃除にも決して手を抜いてはいなかったが、それも限界があった。高温多湿な環境は、カビが発生しやすく、少しでも手を抜くとすぐに黒ずんだ。

 住み始めてすぐは、彼もうつ病のような症状があったせいか、掃除もそこまで行き届いていなかった。“頑張る”という努力のベクトルがあまりに違いすぎた。

 自らのネジを、落とさないように、歪ませないように、自分で押さえつけていた。それだけで精一杯だった。

 人の努力を向けられる事柄には限度があり、その限界は人によって大きさが変わるが、いずれにしても毎日の苦しい生活の中で、ただ“耐える”ことに力を使ってしまうと、本来しなければいけないことに手が回らなくなってしまう。

 彼らは生まれ持った、もしくは成長の過程で自分に打ち付けられた“精神疾患”というネジの変化をその身に受け入れるほかないのだ。向き合うこと以外の選択肢は、“自殺”しかなかった。

 ここでいう“自殺”は自らを殺すという意味合いを持っている。決して、命を経つという意味だけではない。

 自分を押し殺し、謝罪し、周りこそが「普通」だと合わせる行為は総じて“自殺”といっても不適切でなかった。

 一般的な大衆が望んだ「普通」は、彼ら「異常」と呼ばれる人たちのネジを少なからず擦り減らし、削り取り、酸化させ、朽ち果てさせた。

 「普通」の定義を答えよという問いがあったとすれば、それに答えられる人間が一体どれほどいるのだろうか。

 「普通」という曖昧な基準に、抽象的な価値観に、彼らは傷つけられている。


 「おもちゃは遠くへ行きたかった。遠くまで、知らないどこかへ」


 シャワー後にしか触れられないベッドに寝転がると、孤独を食べながら、唯一の娯楽であるゲーム実況の動画を楽しむ。

 彼の一日の終わりはいつもそれで終わる。そこには漫画もゲームも、友達もいなかったからだ。

 漫画やゲームがなかったのは、住む場所の問題であったが、友人がいないことには少なからずネジの緩みが関係しているだろう。

 彼はいつも手袋をしていた。自分の許容できない色に触れないためだった。

 彼はいつもタオルを持っていた。自分についた色を何かになすりつけたかったからだろう。

 彼の腕はいつも皮膚が破けて、火傷の後みたいに再生している最中の白と、焼けた肌の黒に痛んだ赤がグラデーションを作っている。

 これは彼が高一の時にしていたリストカットとは違い、“目に見える”ものでもあったらしい。

 すれ違う知らない他人や、彼の担任教授といった人たちに「腕、どうした?」と心配されることもあったからだ。

 これは幸せなことでもあり、同時に嫌なことでもあるだろう。

 理解と偏見は全く異なった。

 知識を得ようとするための理解と、異質なものと(さげす)む偏見の両者がそこには存在したからだ。

 声をかけてくれる人は、“傷を見てくれる”人たちだから、その大半が前者だ。声をかけられることの多くは幸福なことだと捉えている。

 しかし、それは同時に“傷を見ない”人があることも証明していた。

 もちろん、“傷を見ないフリをする”、あるいは“傷に気づかない”人もいた。

 そのどちらもが意図によっては、悪いことではないだろう。

 だが中には、傷が見えるのにも関わらずにネジを力一杯叩く者もいるし、気づかないでトンカチを当ててくる者もいた。

 彼が一体何をしたというのだろう。

 

 「おもちゃは自分のいない世界を目指し始めた」


 灯りのない部屋で、目を開く。虚空を見つめながら、自らのことを考える。

 周りからの言葉。

 自分でもそれは、よく浮かんだ事柄だった。

 “周りに合わせる”

 “合わさないのは悪だ”

 「僕だって、好きでこう生まれたわけじゃないのに」

 世界は多数決で、大きな意見を“是”とした。

 今日も星は回る。

 それこそ、多数決でそう望まれているからだ。

 星が動かない方がいいと望むものが宇宙で勝ったとき、その星もきっと終わりを迎えるのだ。

 どうしてこんな風に生まれて、それを否定されて、その上合わせることを強要される世界なんだろう。

 彼はトンカチで、世界を叩く。

 消えて無くなればいいのに。

 それは、僕か。

 まぶたを閉じたら、彼の意識は闇に消えていった。

 

 「眠りの中だけが、おもちゃの目指す地点だった」


 翌朝、彼はその部屋にはいなかった。

 以降、その国で彼を見かけた者もいなかった。


 アパートの前、道路に差し掛かる辺りに一枚のタオルを残して。

 タオルに染み付けられていたのは、彼が感じるこの世界の不条理に対する憎しみとやるせなさ、そして「異常」の色だった。


 「おもちゃは自分を壊す全てをそこになすりつけて、眠りの国へと旅立った」

おはこんにちこんばんわ、新山流泉です。最近は精神疾患を抱える人が多いイメージがあります。そんな中で、私たちを囲う「普通」についてフォーカスを当てた作品を描いてみました。

人それぞれに価値観はありますが、それを他人に強要することは悪です。私たちには、各々の価値観を完全に理解するということは不可能で、その人の生きた人生だから構築されたものを否定することは、その当人を否定することと同じだからです。

全ての自分なんか存在していていいのかと日々問うことをやめられない人たちの努力が報われて、幸せをつかめますように。

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