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足利直義と兄

作者: 神父二号

にわかに大路に商人が増えたと、足利直義は感じていた。


わずかな伴を連れて歩く直義にも、声をかけてくる者共がいる。

無視して通り過ぎれば、商人はこだわることなくすぐに別の客を吟味していた。

湊川に楠木新田を破って入京し、叡山の後醍醐と和睦して早やひと月。

長らく滞っていた銭の流れが、ようやく動き出したのだ。


(活気は、悪いことじゃない)


直義は自分に言い聞かせた。

無秩序で貪欲な騒々しさは耳に障る。

だが、銭の流れは人の流れと同じだ。

いずれは、足利の声望に繋がっていくとも考えられた。

直義にとっては、商人も本質は諸将のばさらと同じだった。

分際に収まっているならばそれでいい。

度が過ぎるようならば取り締まり、加えて抑えとなる法を定める。


(しかし、やるべきことが多い。多すぎる)


法のこと。諸将のこと。帝のこと。民のこと。ばさら。悪党。

直義は歩きながら、ぐるぐると考えを巡らせた。


「兄上はいずれに」


直義が門前に姿を現すと、うるさく響いていた工人の音がやんだ。

雑談していた兵共が慌てて大きく頭を下げ、道を譲る。

やってきた従者へ簡潔に用向きを告げ、そのまま門をくぐった。


二条の屋敷は、まだ造営の途中だった。

どこか寺にでも住まえばいいものを、兄は何の意地か造りかけの館で過ごしている。

諸将もまた、そうした兄の姿勢を何の故か称賛した。

そして何もかもままならないこの屋敷に、こぞって大勢の郎党を伺候させるのだ。

同じ武士であっても、直義の理解が及ばないことだった。


「兄上、直義が来ましたぞ」


兄はだらしなく渡り廊下に寝転がり、じっと庭の石を眺めていた。

返事はない。振り返りもせず、片手を持ち上げてひらひらと振るった。

寄ってこい――幼少からのお決まりの仕草である。


「式目が固まりましてござる」


直義は近寄って膝を折り、姿勢よく要件を告げた。

書状を兄の背中に向けて見せ、そのまま待つ。

工人の喧騒が、再び聞こえ始めた。

兄がゆっくりと、直義の方を向いた。


「式目?」

「そう。先日お話し申し上げたでしょう」


兄は居直らず、肘枕の姿で書状に目を通す。

諸将に見せてやりたい姿だと、直義は心中呟いた。

今年中に出す式目だった。

兄が名だたる公家や僧侶、奉行に政について諮問し、答申を受ける体裁を取っている。

簡潔に十七か条をまとめ、卑賤異形の輩にも分かり良く説いたものである。


「直義らしい」


兄はぽつりとそう言った。

そして興味を失くしたように、再び庭の石を見つめ始めた。


「兄上」

「政はそなたに任せると言っただろう」

「この式目は今後の武家のありかたを示すものでござる」

「見れば分かる」

「兄上が示すのでございますぞ」

「帝はどうしておられる?」


直義は聞こえないように小さく舌を打った。

兄の言う"帝"は、この世に一人しかいない。


「怪しげな動きがあります。また早晩、京より出ることでしょう」

「そうかそうか」

「警邏の名目で兵を配しておりますが」

「無益と思うがな」


煙に巻かれる。

そう思い、直義は口を開こうとした。

兄が顔を上げ、視線でそれを制した。


「正成の首は、もう河内に届いたか」

「とっくにです。一体いつの話をしておられる」

「あれは見事な最期だった」

「楠木にはまだ子息が残っております。河内はまた火種になりますぞ」

「そうかそうか」


兄はようやく身を起こし、控えていた従者に筆と墨を促した。

同じく座していても、直義より一回り身体が大きい。


「鎌倉の式目は」


兄の声が、直義の腹まで響いた。

重苦しいものではない。

むしろどこか軽い。

だが、人の腹によく響き渡るのだ。


「問いかけだった。皆に考えさせるためのな」


兄が筆を手に取り、書状の隅へ軽妙に走らせ始める。

直義は目に入れないようにした。


「直義の式目は、答えを出すのだな」

「問いかけのみでは分からぬ者の方がずっと多いのです。だから、答えを教えなければならぬ」

「ばさら共にも、か?」


そうだ。

だから、諮問という形式にしたのだ。

兄が正しき答えを受ければ、諸将はそれに従うのだから。

答えがあれば、あとは手を尽くして実行するのみだ。


「式目は先触れ。いずれ、ばさらも悪党も無くしまする」

「そうか、良い世になるかもな」


兄がくっくと笑い、式目の書状を直義に返した。

案の定、下手くそな落書が書いてあった。

地蔵菩薩だろうか。


「政は直義に任せると言った。式目も、直義の思うままでよい。俺はもう隠居だ」

「異なことを申されますな。何もかも、これからでござる」

「六条で落書でも書いて暮らすかな」


武家の棟梁に、できようはずもない。

直義は呆れる気も失せ、背中の力が抜けていった。


「それでは日を決めて、公家にでも学ばれますか」

「よせ。落書を人に教わる者がどこにいる」


二人でひと笑いした。

視界の端で、塀に上がっていた工人が動きを止めた。


「直義、酒をやって帰らぬか」

「御冗談を。すぐに執務に戻ります故」

「そうかそうか」


直義は立ち上がった。

兄は再び寝転がった。


「風邪を引かぬようにな」

「兄上こそ」


背中に優しく届いた声に、直義は振り向かず答えるのだった。

渦巻いていた考えは、門を出るころには霧散していた。

続きません。

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