7話 ダリアと大門
「姉さん……姉は記者をしていまして。これ、姉が書いた記事の一つです」
久木原真央はテーブル上の飲み物を退けて、カバンから取り出した雑誌を襖に手渡した。
あの時のようにテーブルを挟んで対面する襖と真央。改めて顔を見るが、やはり姉である美那と似ている。整った顔つきに、背丈はほんの少しだけ低い。染めているもののその色は派手ではなく、肩の長さまでの髪は落ち着いた印象を持ち、同時に若く見える。
だがその身体つき。なんと言えば良いだろうか、男に襲われるだけの理由がある、とでも言うのだろうか。そんな落ち着いた雰囲気と対になるスタイルは見ようによっては滑稽であり、とてつもなく魅力的なのだろう。
そんな真央から差し出された雑誌を受け取った襖は、雑誌の表面を見ると開くことなくテーブルへと置く。
「この記事ならもう読んだ。加害者と警察に対しての中傷が良く目に付く内容だったが、強ち間違いでもない、そんな記事だ」
「えっ?」
「あの件で君と、君の家族を調べさせてもらったからな。これも仕事なんだ」
「そういうことですか……」
合点がいったと言う感じに真央は小さく頷いて、言葉を失ったようにその口を閉じる。話しのきっかけを用意したのにその出鼻をくじかれた、そんな感じなのだろう。
少しの間、沈黙が続くも襖はなにを言う訳でもなく、ただ待つように黙っていた。すると真央も言うことがまとまったのか、ゆっくりと話し始める。
「姉は昔から正義感の強い人で、後ちょっと心配性と言うか、過保護なところがあるけど、それは母代わりのところが――あっ、知っていますよね、うちに母がいないこと……」
「ああ、知っている。その事件の一部始終もな。記事から察するに、随分と警察が嫌いになったようだな……君はどうなんだ? 警察が、俺が憎くはないのか?」
記事からとは言うが、実際は本人から聞いたことである。とは言っても、それを口に出来る状況でない。
淡々と尋ねる襖に真央はまた口を閉じ、髪の毛を指に絡める。
「姉さんは、確かに目の敵にしていました。だから、真実を伝えるために記者になったって。アタシは、小さかったから……」
それだけ言って、真央は紅茶に手を掛ける。今回もあの時同様に注文の際、襖が頼んだ物を真央が真似したからだ。
明確な答えを避けた形だが、襖はそれに付いて言及はしなかった。したところで明確な答えが返って来るかどうかは怪しいところだが、少なくとも襖はその答えで納得したらしい。
すると話しを戻すように真央は再度、姉の美那のことを口にする。
「でも最近、へんでした。急に怒りっぽくなって、物を壊したりするとこもあって。けど、それに一番驚いてたのは姉さん自身でした。仕事も上手く行かなくなっていたみたいで、お父さんと相談してそっとしておこうって、何か悩み事があるのかもしれないって。そう思ってた」
その時すでになにかしらの理由で血を浴びて、美那は寄生虫に寄生されて吸血鬼へと変貌したのだろう。話しから凶暴性が増し、自分の意思とは別に攻撃的になって行く過程が伝わる。
「けど、だからと言っておかしくなったとか、そうじゃないんです! 姉さんは何も変わってなくて、あの時だって何時もみたいに笑って、夕飯だって作ってくれて! 本当になにか悩み事があっただけでッ!」
次第にその声は感情に支配され、一瞬本人の意思を離れたように露わになる。それでもそれを飲み込み、声を荒らげることなく、店内の静寂を守った。
悩み事があると思っていた、真央はそう言ったが、どうもそれに後悔しているように見える。そう思いたい気持ちと、そうじゃないとわかっている現実がせめぎ合っている、そんなような感じだ。
真央は実の姉である美那が吸血鬼であったことを知っていたのだろうか。いやそれはないだろう、そもそも『吸血鬼』のこと自体しらないのだから。
だからこそ、悩み事がある、と現実的な思考にいたったのだろう。そしてそんな無責任な考えで済ました自分が許せないのだろう。
真央は大きく息を吸い、吐く。
「そんな大変な時に、私が……レイプされて……」
一度だけ真央は襖から視線を逸らし、膝に置く震える手が硬い拳を作る。
「その数日後、あたしが通う学校の学生が一人死んだって聞いて……また数日にもう一人。その全員が……私を……」
身体を震わし、無意識のように自分を抱く。それでも進もうと、口を動かそうとする真央は襖を真っ直ぐに見つめる。
また、襖も眼を背けない。それに付き合うように、次の言葉を待っている。
「アタシを襲った全員が学校から姿を消すのにそんなに掛かりませんでした。そしてその日に……姉も姿を消した。自分で調べてみました。姉は仕事を止めてたんです……最初の一人が死ぬ、数日前に……迷惑かけたくないからって……」
今度はその声はどんどんか細くなっていく。けれども、しっかりと真央はその言葉を口にした。
「姉が、殺したんでしょうか……?」
そもそも真史が襖を呼んだ理由は、行方不明の姉を探して欲しいと言うものだった。だがいつの間にか話しの趣旨が行方不明の姉を探してほしい、と言う当初の目的ではなく、姉が殺人を犯したかもしれないという方に主観が置かれている。
真央は恐らくわかっていたのだろう。美那が自分の復讐のために、その手を汚していることを。でもなぜ、襖にそれを尋ねるのか。本当の意味で襖が関わっていることなど、到底知る由もないのに。
互いに沈黙が流れ、それでも真央は顔を伏せることなく真っ直ぐに襖を見て、の言葉を待つように待っている。一度、襖は紅茶に手を掛けて喉を鳴らすと、ゆっくりとその口を開く。
「君は、君の姉が人殺しだと思っているのか?」
「……わかりません。ですが状況を考えると――」
「事実が事実として浮き彫りにならない限り、それは仮説でしかない。期待や希望を疑いながら生きていくのは辛いぞ」
驚いたように、真央は目を丸くする。だが襖はそれ以上語らず、もう一度紅茶に手を掛けた。
「すまなかった。こうして男と話すだけでも怖いだろ? 言葉の上では理解していたが、配慮が足りなかったな」
ふと、襖は他の話しをする。今のことを言っているわけではない。襖が言っていることは、最初に出会った時のことだった。
それは先ほど自分の身に起こったことを口にする真央の姿。震え、怯えたような姿。同時に「女にとってどれだけ屈辱で、恐ろしいことなのか」と言う対峙した時の美那の言葉。それを思うと、出て来ても可笑しくない謝罪だった。
「……確かにあれ以来、男の人は怖いです。病葉さんの言う通り、話すのも、触れることも……キモチワルイです。けど、病葉さんは……大丈夫ですだって――」
話しを振られた真央はゆっくりとそれに答え始める。すると途中で言葉が止まり、ふっと襖を見詰めると、落ち着かない様子で髪の毛を指に絡める。
「色々とありがとうございます、忙しい中、相談に乗っていただいて。他にも、本当に色々とこっちのこと気遣ってくれて、父も感謝してました……病葉さんにもっと早くに会えていたら、姉さんの警察嫌いも少しはマシになったかもしれませんね」
紅茶の入ったティーカップを手に取って、真央は困り顔で笑って見せた。
・
その日も分厚い雲が空を覆い、口から漏れる吐息が白い霧になり、耳や頬が赤くなる。どうもこの寒さは不意に変わることなく、続いて行きそうだった。
襖さんに連れられ、現場に着くと既に6課の処理班が辺りを取り囲んでいた。襖さんは軽く挨拶を交わしながら、黄色いテープが張られた建物と建物の間の細い路地へと進む。するとそこには先客が二人いた。背広を着た男と、ダウンジャケットを着た少女だ。
「あっ、ルリチシャ!? どうしてお前がここにいる?! ここは僕と大和さんの担当区画だぞ!」
少女は私を見るなり、その短髪の髪先と同じように目尻を尖らせた瞳を向け、まるで音が聞こえてきそうな勢いで私を指差す。
背広を着た男の方は少女に続き、私と襖さんを見ると片手を上げて見せる。その腕に付けられている腕時計には、宝石があてがわれていた。
「おう! 病葉じゃねえか」
「大門か、こっちが先に着くと思ったんだが……随分と仕事が早いな」
「ハハッ! オレが仕事バカなのはあんたも知ってるだろ? 先に警官やら刑事やら追っ払っといだぜ。まあ、元同僚を追い出すってのは慣れないもんだがな」
服の上からでもわかる筋肉質な身体つきをした、大門と呼ばれた男は寒さを気にしていないのか、めくりあげた袖から見えるその太い腕で、刈り上げた髪を笑いながらガシガシと掻く。歳は襖さんよりも上の、四十代と言ったところだろうか。
対してその隣の短髪の少女は不満げな表情を隠そうともせずにダウンジャケットのポケットに両手を突っ込み、鼻を鳴らしてそっぽを向く。その小脇には長袋が挟まれていて、それは私が肩に掛けている物と似ていた。
すると少女の態度に気付いた大門が、隣から少女の頭をわし掴みするように手を置く。
「おい、ダリア。仲良くしろ。それにルリチシャはお前の姉に当たるんだろ? 姉妹同士仲良くしたらどうだ」
そのままわしゃわしゃと頭を撫で、少女、ダリアは驚きと困惑の声を漏らす。まるで引っ張られるようにダリアの頭が左右に揺れ動き、大門が手を離すとその勢いのままよろけて見せる。
ダリアは好きにされた髪を手で整えながら困ったように大門を見るが、大門は「スマン、スマン」と悪びれる様子はなかった。
「それで病葉、どうしてあんたが? 手伝いに来たのか?」
「まさか、話しは聞いてるだろう。この件が関わってないとわかったら直ぐに手を引く」
「ああ? 別に手伝ってくれたって良いんだぜ? 面倒なことを代わりに片付けてくれるなら、文句どころかこっちから願ったり叶ったりだ」
大門がそう提案すると、襖さんは軽く肩を竦める。
「そうか? ダリアはそう思ってないみたいだが?」
襖さんがそう言い、大門がダリアに視線を向けると、ダリアはその額にシワを寄せていた顔を背ける。すると大門は、ガハハハッ、と笑ってダリアの肩に手を回し、引き寄せる。
「そうかそうか! ダリアは仕事熱心だな! 誰に似たんだ、ええッ? オレかッ?!」
大門は肩に回した手で、ダリアの肩を何度も叩き尋ねる。ダリアは困り顔を浮かべながら諦めたように、されるがまま身を任せているが、紅葉した耳や頬が物語っていた。小さく緩めた口から漏れる白い息もそれを助長している。
そんなやり取りを見て、襖さんは一度咳払いをする。それに気付き大門はまた悪びれない顔をこちらに向ける。
「いいか? 被害者はその女性でいいんだな?」
「ああ、そうだ。まだ手ぇ付けてないが、見たところ二十代半ばってところだな……ほら」
すると大門は背広から白い手袋を出し、それを襖さんに渡す。私と襖さんよりも早く着いていたが、どうやらまだ遺体を調べていないらしい。
恐らくはこの現場を用意している間に、また人払いに時間が掛かったのだろうか。それとも私と襖さんの到着が想像以上に早かったからなのか。なんにせよ、襖さんはその手袋を受け取り、手に装着し始める。
それに合わせて大門も、もう一組の手袋を取り出し手に通す。襖さんと大門はまず遺体を良く観察すると、大門は次に慣れた手つきで遺体の衣服を探りだす。
「流石は元刑事だな、様になっている」
「馬鹿言うな、鑑識がいる現場にズカズカと入って、仏様の懐漁ってたら殺されちまう。あんなのはドラマの中だけだ」
その遺体は室外機の陰から足が飛び出し、壁に寄りかかった状態で、ぐったりと項垂れている女性だった。
スーツを着ているが引き裂かれていて、中に来ているブラウスまでも、まるで獰猛な獣の爪にえぐられたようにボロボロ。そこから覗く素肌は赤黒く、一部の傷口からは骨だと思われる黄色っぽく汚れた白いものが見え隠れする。
手早く大門は遺体のポケットから物を取り出し、それを開いて中身を見る。その間、襖さんは女性の顎を持ち上げ、まじまじと傷の度合いや傷の種類を確認する。
私はその様子を邪魔にならない距離から見詰めていると、不意に横から軽い衝撃を受ける。
「どうしてお前がいる。まさか僕と大和さんの仕事の邪魔をしに来たのか?」
横目で見てみれば、ダリアが私に向かって出した肘を引っ込ませ、不機嫌に眉をひそめていた。先ほどからこの調子だが、理由はよくわかる。
「違う。邪魔するつもりはないし、仕事を盗るつもりもない」
「当然だ。それにルリチシャなんかが務まるとも思ってない! 僕みたいに完璧な存在だったら未だしも、お前みたいなのがしゃしゃり出る幕じゃない」
「……そう」
フンっ、と鼻を鳴らし中性的な声が私の耳に届く。台詞はさておき、ダリアは私を馬鹿にすると言うよりは、自分の方が凄いと豪語したいように聞こえた。
そう主張しなくとも張り合うつもりはないのだが、そう思って私は視線をダリアから外し、細い道に向ける。
人が並んで歩くには狭く、こうして私とダリアが並んだだけで道がほとんど塞いでしまう。そんな細道にビニール袋に包まれたゴミや、室外機が備えられていて、人が好んで歩く場所とは思えない。
そもそもその室外機はへしゃげていて、随分と争ったのか、壁には亀裂が走り欠けている。だがそんな壁には勝手口なのだろうか、扉が一つあって、使われているのなら人の出入りがあったと言うことだ。
そんな所に遺体が一つ、他に目に付くところがあるとすればビラが貼られていていることだろうか。なんでも服屋かなにかで、安売りの宣伝をしているらしい。
するとまた横から小突かれ、視線を戻される。
「そもそも、なんのために担当区画がわけられていると思ってるんだ。それなのに首を突っ込んで、僕の邪魔をしようとする。いいか? 大和さんの邪魔だけはするなよ。わかったら……」
「ダリア」
「ん、なんだ。言いたいことがあるなら言え」
「……五月蝿い」
私がそう言うと、なんだと、とダリアは食って掛かるように拳を見せる。
すると大門が「おい、病葉」と襖さんのことを呼び、二人して視線を向ければその手には長方形の紙があった。
「このチケットを信じるなら、どうもこの害者は地下のライブコンサートに良く行くらしい。半券に……次の入場券だ。辺りの監視カメラを調べたら次はここを洗うべきだな。そっちはなにかわかったか?」
「ああ、切り傷にえぐったような痕……この外傷から考えるに、五型の仕業だな」
襖さんは遺体から手を離して立ち上がると、支えをなくした首がぐったりと項垂れる。
「なに、五型? 二型じゃ――」
「まずこの傷の付け方は人間ができる芸当じゃない、吸血鬼なのは確実だ。一見、二型の吸血鬼に思えるがここに鋭利な歯型がある。わざわざこんな傷を付けたとは思えない。確かに五型にしては死体が残り過ぎている、不自然な点が多いが、これは……」
大門は不審に思い、聞き返そうとするがわかっていたように直ぐに襖さんは返す。だがそれも突如、襖さんの携帯電話が鳴ったことで遮られる。
軽く首を左右に振り、手袋を取る。そして携帯電話を取り出した襖さんはその画面に表示されている相手の名前に眉を一度ひそめると、電話に出る。
「……何か用か?」
何時ものように淡々とした態度で話し始める。だが、何処かそうじゃないようにも見えて、私は何時も以上に襖さんを見る。
するとそれに気付いたのか、襖さんは横目で私を見返すと、ふっと背を向けて離れるように歩き出す。ああ、と襖さんの声が微かに聞こえては、私はそれに耳を傾ける。
「今からか? 電話越しで十分だろう」と、どうやら乗り気でなさそうだったが、何度か押し問答が繰り返された後、わかった、と最後に襖さんは答えた。通話を切り、携帯電話を仕舞いながら戻って来た襖さんは大門に声を掛けた。
「大門、俺は6課に戻る」
「ん? なんだ呼び出しか?」
「たいした用じゃないと思うがな。後は任せる」
そう言って襖さんは現場を後にするために歩き出す。どうやら電話の相手は6課の誰からしい。
「そうだ、ならあん時みたいに線香代わりに立てといてくれ。その前に出て来ちまってな」
「自分でしろ」
襖さんがそう返すと大門はガハハハッと笑う。そしてダリアは去る私たちに向かって、シッシッ、と早く立ち去るように手を振る。そしてそんなダリアの頭を、大門が後ろからわし掴みにする。
私はそれを見終わると、辺りを見渡す。そして襖さんの背中を見上げ、口を開こうとするが、ためらって声にはならない。施設に戻るその道中、それを何度か繰り返して結局は無意味に終わった。
施設に戻るとそのまま廊下を通り、区画ごとの扉を潜り抜けて真っ直ぐ休憩室へとたどり着く。6課の職員が使う簡易的な場所だ。自動販売機と座って休むためのベンチ、目に付くのはそれぐらいしかない。もちろん外と比べれば暖房がつけられ温かく、風がないだけでも随分と体感温度に違いが出る。
襖さんが自動販売機のボタンを押すと、ゴトっと音を立てて商品が出て来る。まだ自動販売機のボタンに光が点いているのに関わらず、襖さんは出て来た商品を取り出すと、そのまま近くのベンチに座り込む。
私はその隣に少し間を空けて座り、暫くすると白衣を着た大柄の男が歩いて来るのが見えた。その男は襖さんのように自動販売機のボタンを押し、二本のペットボトルを取り出すと、もたれ掛かるように襖さんの座るベンチに座る。
そしてそのままペットボトルの蓋を開け、一気に中の水を半分以上飲み干すと、大きな息を吐き、白衣の袖で口を拭った。
「お前は行かへんのか、別におかしなことやないやろ」
「若林をやった奴の陰すら掴めていないんだ、終わるまでは足を運ばないさ。そう言うお前はどうした、抜け出して来たのか?」
「線香はもう立てた、それにあれはクロユリが仕切ってるようなもんやからな。俺がいなくとも、どうとでもなるわ」
そう言って時順先生は残りの水を飲み干し、そのまま隣のゴミ箱にペットボトルを押し入れた。
襖さんを挟んで私と時順先生、三人が座る休憩室のベンチ。休憩室は部屋と言うよりはスペースで、廊下の途中がそのまま広場として存在している。そのため廊下を歩く者が良く見え、また廊下を歩く者からも良く見える。
だと言うのに、休憩室には私と襖さん、時順先生しか存在せず、廊下にも人が通らない。ただ、その廊下には『若林・アイビー告別式』と手書きで書かれた紙が貼りつけられ、赤いインクで矢印が添えられていた。
時順先生は横目で隣に座っている襖さんを見ると、先ほど自動販売機から取り出した紅茶に口を付けていて、それを見た時順先生はもう一本のペットボトルの蓋を開ける。
「で? なんであの吸血鬼が6課殺しの件と無関係やと思っとんねや。吸血鬼が話したこと信用しとるんか?」
前を向きながら時順先生は尋ねる。それは襖さんも同じで、まるで互いに顔を合わせないようにしているようだった。
実際、襖さんは今回の件と若林とアイビーを『狩った』吸血鬼は別と考え、そのように報告書をまとめたらしい。『狩り』を行った吸血鬼が存在したのは事実だが、その者が若林を殺した、6課殺しの犯人ではないとそう断定したのだ。
そして襖さんが6課殺しに真犯人がいると断言したことにより、襖さんは6課殺しの件を引き続き調査することになった。同時に私もまた、若林とアイビーを『狩った』吸血鬼から襖さんを護るための、安全のためにその調査に同行することに。もちろん襖さんが言い出したことではないが。
すると襖さんは話しをする体制を作るように軽く前屈みになり、膝に肘を乗せた状態になる。その状態で、もう一度紅茶に口をつける。
「あいつの行動には明確な理由と目的があった。俺が襲われたのは久木原真央に接触したからだ。だが若林はそうじゃない、久木原真央に接触する前に殺されていた。狙われる理由がない」
「理由と目的なぁ。じゃあ、若林が狙われたのにも理由があったんとちゃうか?」
「仮にそうだとして、アイビーはどう説明する。子供を警察だとは思わないだろう」
なるほどな、と聞いた割には特に気にしてないのか、時順先生は相槌を打つ。それどころか、どこか人を小馬鹿にするように鼻で笑う。
今度は襖さんがそんな時順先生を横目で一瞥すると、時順先生は「警察、警察な……」と納得するように小さく何度も頷いていた。そして時順先生は大きなため息を吐くと、呆れたように言い放つ。
「ハァ……襖、お前また対象の過去なんか調べたんか? それともわざわざ接触して悠長に話したんか? そんなん無駄や、無駄!」
「さあな。だとしても現場のやり方に口を挟むな。お前はお前の仕事をすればいい」
「ネタは上がっとるんや! うちの部下が『病葉さんに個人的に使われて光栄です』とか言っとったわ!! それになんや、なに企んどるかしらんが、色々と手を回してるみたいやな? そう言うたってどうせ吸血鬼は殺すんや、時間の無駄やないか! そんな時間があったら、俺やったら遠心分離機のスイッチ入れて、その間にカマキリの定期診断してその記入しとるわ。若しくは寝るわ、もう数日寝とらんからな!」
ハハハ、と冗談交じりに笑う時順先生だったが、対して襖さんは紅茶を口にするだけ。そんな襖さんに再度時順先生はため息を吐き、そして苛立った様子を見せる。
「どないしたんや、昔のお前はそうじゃなかったやろ! サーチアンドデストロイ、それが6課のやり方やろうに。殺す相手のこと知ってどないすんねん!」
「ならそのやり方が変わっただけだ。俺がそうしているだけで、お前に迷惑を掛けてるわけじゃないだろう。それを言うためにわざわざ調査中に呼び戻したのか? なら終わりだ」
飲み物を飲み干した襖さんはベンチから立ち上がり、ふらりと歩くとそれをゴミ箱に入れる。そのまま何処かに行きそうに思え、私もベンチから立ち上がった。
すると襖さんは自動販売機の点きっぱなしのボタンを押し、また商品を取り出すと横目で近付く私を見る。
「ルリチシャ、今日の調査は終わりだ」
「あッ……はい、わかりました。この後は、襖さんは……?」
「この前の書類作成の残りをやるだけだ。お前も部屋に戻れ、来い」
片手には書類作成時に飲むであろう紅茶をぶら下げて、そう言いながら無精ひげを撫で、そのまま背を向けながら歩き出す。
時順先生はその後ろ姿に、おい、と声を掛けるが、止まることなく襖さんはひらひらと手を振って返した。襖さんが去り、休憩室で一人になった時順先生はまだ中身が残っているペットボトルを振り上げると、勢いのままゴミ箱に叩き付ける。ゴミ箱はまるで飛び跳ねたかのように震えるが、無事その勢いを受け止め切り、静かに鎮座する。
「何が変わったや。意固地になってるだけやろッ」
一人、誰に聞かせるわけでもなく時順先生は吐き捨てる。苛立ちを隠さない、今にも舌打ちや、怒鳴り込みそうな雰囲気を出すその姿を肩越しに見て、私はただ襖さんの背中を追う。
「あ、の……電話の相手は、時順先生だったんですか? 話しは……良かったんですか?」
廊下を歩き、振り向いて誰もいないことを確認すると私は尋ねる。襖さんが言っていたが、わざわざ調査を中断させてまで呼びつけたのだ、あんな風に互いに言い合っただけで終わりと言うのはどうだろうか。
だが襖さんと時順先生の話しを振り返り、やはり時順先生はクロユリ同様に襖さん、昔の襖さんを知っている。私からすれば、今とどう違うのかわからないが、やはり今も気になる。それがなにを意味するかなんて、わからないが。
「聞いてた通りだ」
変わらず襖さんは私に背を向けて、そして一言、そう言った。
「時順先生とは友人なのでは……」
「診察中にでも時順から聞いたのか? そうだとして、だからどうした?」
口から零れた言葉さえ、襖さんは素っ気なく返す。何時も通りと言えばそうなのだが。
時順先生とは不仲なのだろうか、先ほどの会話が弾んだものだとは思えない。思えば、襖さんと時順先生が会話している所を見て、軽口を言ったりはしていたが、それが弾んだものだった覚えはない。
いや、襖さんが一方的に素っ気ないのだろうか。それとも、私の知らない何かがあるのか。
会話が途切れ、私はもう一度辺りを見渡す。そして襖さんの背中を見上げ、意を決して口を一度開くも、閉じる。代わりに自分の手を見て、襖さん背中を見上げた。
・
「やっぱり帽子? 帽子がオシャレかな?」
「……帽子?」
「うん、そう。帽子」とシレネは持っていた雑誌のくるりと回すと、見開きを私に見せる。そこにはシレネが言う通り、帽子を被り着飾った女性の姿があり、題材に今年の流行なるものが書いてあった。
雑誌をそのままテーブルに開いて置き、注目させるように写真の女性の一人を指差す。
「ほら、今は帽子が『とれんど』なんだって。ルリチシャは最近よく出掛けるけど、オシャレはしないの?」
「なぜ?」
「あたしがしたら、幸村さん褒めてくれるの。似合ってるよとか、可愛いよって言ってくれるの!」
その場面を想像してか、にっこりと笑って、シレネは嬉しそうな表情を見せる。そして再度雑誌を見て「帽子を被ればオシャレかな?」と首を傾げて自問自答と繰り返す。
「シレネは多々良……多々良さんに色々貰っているけど、帽子は貰ったことは?」
「ん? あるよ」
「なら、それを被れば……」
新しく貰わなくとも、あるのならそれを使えばいい。私と違ってシレネは多々良から物を買い与えていることはわかっている。帽子の一つや二つ、あっても可笑しくない。
実際、その首に掛かっているネックレスが良い証拠だ。それが安物なのか、はたまたブランド物なのかは知らないが、今も嬉しそうに着けている。
だが、私の提案にシレネは手を振って、笑って見せる。
「違う違う! 帽子は帽子でも、違う帽子なの。ほら、あたしたちって冬場にコートを着ても、夏には着ないでしょ。夏用の帽子と今用の帽子で違うの。ルリチシャ、オシャレのことわかってなーい」
そう言って、シレネは胸を張り自慢げな顔をする。
まあ、その通りなのだろう。お洒落と言われても、考えつくことは少ない。シレネのように髪留めのリボンの色を日によって変える――そもそも私が持っている髪留めはゴムしかないが――とか、服を新調するとか、他には何があるか。
その程度の考えしか思いつかない私にすれば、そう言うことに意見が言えるシレネはとてもお洒落に見える。逆にシレネから見た私がわかっていないと、そう言う風に感じても不思議ではない。
そしてそのシレネが帽子を被れば良いと言う。私もこの女性のように帽子を被ればお洒落になるのだろうか。
私は考えるように顎に指を当てて雑誌を見ていると、その雑誌が不意に横から伸びた手に持ちあげられた。
「この帽子に似たやつなら私、持ってるわよ。そうね、そろそろ必要な時期なのね」
自然と持ち上げられた雑誌を眼で追い、そのまま声の主に視線が移る。声を聞いただけでわかっていたが、赤黒い瞳がそこにはあった。
雑誌を見て、クロユリはまるで懐かしむかのように言葉を零す。そしてそのまま椅子に座り、手に持っている物をテーブルに戻す。
「えーそうなんだ。いいなぁ、あたしも欲しいなぁ」
「あら、私はどうせ被らないし、言ってくれれば貸してあげるわよ? 状態も良いし、日に当たってないから色褪せもしてないはずよ」
クロユリが表情の代わりにひらりと手を振ると、シレネは首を振る。
「んー、あたしが欲しいのは幸村さんに貰う帽子で、クロユリから貰っても嬉しくないな」
つまりはそう言うことなのだろう。お洒落とかなんだと言って、結局がそこに落ち着くのがシレネらしい。
多々良もそれに甘やかしているからだと言うのもあるだろうが、それは当の本人たちの問題だろう。私が口を出すわけでも、出す必要もない。
クロユリもそれがわかっているのだろう、それ以上は何も言わず「なら、直接本人に言うことね」と部屋の出入り口を指差す。私とシレネはその指先に視線を向けると、シレネはパッと顔を綻ばせた。
「幸村さんっ!」
椅子から立ち上がり、シレネは出入り口にいる多々良に駆け寄っていく。先ほどからいたと言うよりは本当に今着たのだろう。
クロユリが気付いたのは、ちょうど座っている席から出入り口が視界に入る場所だったからで、そうでなければ私はともかく、シレネが気付いていた。
駆け寄ったシレネはにこやかに多々良と話すと、嬉しそうに笑った。すると多々良が私たちに視線を向け、軽く手を振って見せると、二人して部屋を出て行く。
二人を見送ると、ふぅん、とクロユリは言葉を零す。
「シレネはこれから多々良さんとデートかしら?」
「……多分」
曖昧な回答をしたが、間違っているとは思わなかった。
「青春ねぇ、そう言えば今日はやけに同時に皆出かけるわね。アネモネもクロッカスもいない。ルリチシャも今日出るんでしょ」
クロユリはあたりを見まわして、私も遊戯室を軽く見渡す。何時もは色々な音がしていのだが、それが少ない。
人影もぽつりとあるだけで、クロユリの言う通り、偶然ながら皆出かけている。それが調査か、仕上げかは知らないが、決して起こりえない不思議なことではない。
「……午後には」
「若いっていいわね。私もたまにでいいから外に出たいわ。この赤い眼がダメなのかしら。まだ白かった良かったのかしら……どう?」
じろりとした視線を私に向けたクロユリは、私の返事を聞くと次はテーブルに突っ伏する。そして体をテーブルに預けたまま顔だけを上げ、前髪を指で払うと自分の眼を指差した。
赤黒い瞳。赤い瞳ではなく、黒い瞳に、周りの白い所が赤く充血した瞳。白い部分はなく、黒と鮮やかな赤のコントラストは綺麗と言うよりは、仕事柄か他のことを連想させる。もちろん、充血しているのだから血に染まったと言っても間違えではないのだろうが、残念ながら私には他の表現が浮かばない。
そしてその眼に加えて一切動かない表情。それが相まって赤黒い瞳が悪い方に引き立つのだろうか。しかしクロユリの表情が変わらないのは生まれつきだとは言うが、今までそれを貫いて来ているのだから、今更本当に表情豊になっても逆に驚いてしまうのだろう。
少しの間、互いに見つめ合っていると、私が言わんとしていることを察したのかワザとらしくため息を吐いて見せる。
「だからと言って時順先生みたいにサングラスを掛けたくないのよね」
「なぜ?」
するとクロユリは両腕を広げ、軽く首を傾げて大きく肩を竦める。
「『目は口ほどに物を言う』って言うじゃない? 表情が動かない私が目まで隠したら、それこそ無表情になってしまうわ」
「そんなこと……」
私はそれを聞いて、質問もなにも特には口にしなかった。これ以上その話しを聞かないために、話しを戻すように言葉を転がす。
「……外に出たいなら、クロユリの担当官に頼めば?」
そもそも外に出たいと言うのであれば、ここで愚痴るよりも担当に直接言えば良い話しだ。帽子を持っていると言っていたということは、シレネと同じように物を買い与えられている証拠だ。
ならば担当との関係は悪いわけではないだろう、頼めば少しの間だとしても外に連れ出してくれる可能性はあってもいいはずだ。
「そんなの必要ない!」
するとそれに割って入るかのように、言葉が飛ぶ。まるで強調するように強めの声に、自然と視線が吸い寄せられる。
見れば相変わらずその短髪の髪先のように、目尻を尖らせた瞳が私とクロユリに向けられていた。
「あら、ダリア。診察はどうだったかしら? 元気そうでなによりだわ」
「それよりもだ、聞けクロユリ。ルリチシャはこの前、僕と大和さんの担当区画にわざわざ割り込んできて邪魔しに来たんだ、これ以上邪魔者が増えるのは御免だ!」
そう言ってダリアは私を指差し、言葉を強める。クロユリが言う通り、診察から戻って来たダリアはどこか不調と言うよりはその逆。今にでも何処かに飛び出すか、飛び掛かりそうな元気があるように見える。
なんとなくのイメージで、診察中に時順先生がダリア相手に苦労している光景が浮かぶ。時順先生が調子はどうだと聞いて「問題ない、帰る!」とでも言って診察を強制的に終わらせそうとする、そんな光景だ。
実際はどうなのかは知らないが、ダリアが自分の担当以外にその尖った目尻が下がる所を見せたことがないのが、やはりそう言う雰囲気を感じさせる。
「へぇ、そんなことが? なんだか珍しい組み合わせね。けど大丈夫よ、ダリア。私は外には出ないわ。ルリチシャの方はそう責めてあげないで、ルリチシャは今、6課殺し……大事な仕事中なのよ」
「そんなこと僕が知るか!」
腕を組み、そっぽを向くダリアにクロユリは「あなたたち、ちょうど長女と末っ子でしょ? 仲良くしてほしいわ」と困ったように肩を竦める。
「そんなことどうでもいい! と言うよりもそうじゃない、ルリチシャ! 大和さんが呼んでいる。来い!」
「私……?」
すると本来の目的を思い出したように、ダリアは私を見ると親指を立てクイッとそれを動かす。
大和と言うのは、確かダリアの担当官の大門のことだ。あの男が私を呼んでいる? 大門とは接点もなければ呼ばれる理由も思い浮かばない。
前に外に襖さんと共に会った時も、特に会話を交わしたわけでもなく、また互いになにか行動を示したわけでもない。それなのになぜ呼ばれるのだろうか。
疑問に思っていると、ダリアは早くしろとでも言いたげに私の腕を掴む。
「ほら来い。大和さんを待たせるな」
「どうしてダリアの担当が私を呼んでる? 用はなに?」
「良いから今は黙って付いて来い。どうせ断る理由もないだろう!」
座ったままで尋ねる私に、ダリアはそう言って私の腕を掴む力を強くし、無理矢理にでも立たせようとする。それに抵抗をしても良かったが、ダリアの言う通り断る理由もなく、されるがままに立ち上がる。
だがそれと同時ぐらいだろうか、遊戯室の扉が開くと髪を刈り上げた男性が姿を現し、私たちに向かって声を掛ける。
「おーい、ダリアまだか? そろそろ行くぞ」
そこには話しの中心と言うのだろうか、大門がそこにいた。まるで外で会った時のように片手を上げて、そして部屋に入って来て私たちの前に立つ。
「大和さん、すいません。こいつ……ルリチシャが少しもたついて」
ダリアがそう言うと、まるで癖なのように大門はダリアの頭に手を乗せる。するとダリアは大門を見上げて、困り顔を作りながらも口角を上げた。
するとダリアに手を乗せたまま、大門は私に向かって声を掛ける。
「いや、いきなりすまんなルリチシャ。どうせ同じ区画を調査するなら、一緒に飯でもどうだと思ってな。診察が終わったダリアに一足先にルリチシャを呼びに行くように頼んだんだ」
一足先にと言っても、ダリアが来てから大門が現れるまでそう時間は掛かっていない。談話室の扉が見えて来た所までは一緒に来たのだろう。
すると大門に言葉に、私よりも早くダリアが返答する。
「ええっ! 大和さん、こんなヤツと食事だなんて僕はイヤです。その……せっかく久しぶりの仕事なのに……」
後半、ブツブツと恐らく大門には聞こえないほどの小声で喋るダリアに、大門は一度その場にしゃがみ込んで目線を合わせる。
「ダリア、そう言ってオレをイジメないでくれ。ほら、あそこの喫茶店に行こうと思うんだ。美味しかっただろ? ほかほかはなまるオムレツ。皆と一緒に食べたくないか?」
「お、オムレツ……」
「そうだ、あのほかほかのふわふわのオムレツだ、オレは食いたい。ダリアはどうする、食べたくないのか?」
尋ねる大門に、ダリアは本当に困ったように瞳だけをきょろきょろと動かす。最後には口を尖らせて「た……食べたいです」と大門から顔を隠すように、うつむきながら答える。
その面影は私が見かける時によくしている鋭い目つきも、シュッとした顔つきもなく、何時か見た、調査の時に外で見かけた子供と同じような顔だった。するとダリアはハッと気付いたように私を見て、誤魔化すためか、慌てて顔を背けた。
ダリアの了承を得た大門は、じゃあ皆で食いに行くか、と自分の膝を叩き、笑いながら立ち上がると肩越しに振り向く。
「なあ、病葉。お前もいいよな?」
そこには何時ものように、よれたコートを着た襖さんがいた。襖さんはその質問に軽く肩を竦めて返すと、ハハッと大門は笑う。それが肯定を意味しているのだと大門はどうやらわかっていた。
「すまねぇな。だがお前、何時もパンだとか握り飯しか食べてねぇだろ、たまには温かい物を食べた方が良いだろう?」
「なんでもいいさ、どうせあんたとはこの件に関して答えが出るまで情報交換することになるしな……ルリチシャ」
襖さんが私の名前を呼び、それに頷いて返す。
「あッ……はい。襖さんが良いなら、私はなにも」
襖さんと大門、二人して談話室に入って来た時、もうその瞬間に私の意思は決まっている。
どうせ私は午後になるまで待つだけでしかない。午後になってから襖さんと共に調査に向かうか、それとも今襖さんと出掛けるか、どっちの方が良いかなんて決まっている。そこに大門やダリアがいたとしても気にすることではないだろう。
すると、パンッ、と不意に手を叩く音が聞こえ、視線が集まる。音の犯人は今まで沈黙を守り、未だ椅子に座ったままのクロユリだった。
「じゃあ皆でお仕事ね。ルリチシャ、ダリア、二人とも迷惑を掛けちゃだめよ」
「お前に言われなくてもそんなことわかってる。僕はお前と違って優秀だからな。そう言うのを大きなお節介と――」
「ダリアぁー?」
ダリアの言葉を遮るように、大門はダリアの頭を撫でるのではなく、そのまま頭を無理矢理下げるように押す。
そのやり取りにクロユリはふふふと笑い、私を見る。
「ルリチシャもよ。それに――」
クロユリはその瞳を襖さんを向ける。一瞬二人の視線がぶつかって、どちらともなく、ほんの少しだけ顔を背ける。
「……外、寒いのでしょ? 皆気を付けて」
「……大門、そろそろ行くぞ」
そう言って、襖さんは踵を返すようにして遊戯室の出入り口に向かって歩き出す。
そんな中、私は気付く。何時も以上にクロユリの瞳が前髪に隠れていたこと。そして指が、小さく、本当に誰にもわからないぐらい小さく動いていたこと。
去る襖さんの背中、いや裾を後ろ髪を引かれる思いで引っ張るように、それはまるで構って欲しそうに。本当にそうしたいのであれば椅子から立ち上がり、いくらでも出来るはずなのに、クロユリはただ指で空を引っ張った。




