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6話 それぞれの立場

「若林とアイビーの告別式、今週末に決まったそうです……病葉さん、出るんですか?」


 恐らく、風が吹いたのだろう。ここから見える通行人の服の裾が大きくなびいた。

 街の一角に停められた車内。暖房で温まられた車内は外と比べれば快適だが、外との気温差で時折フロントガラスが白く曇る。そんな時は暖房を調整して、視界を確保する。

 小さく流れているカーラジオには、ラジオ番組のコメンテーターが昨日国内で起こった暴動事件の後、最近の寒波を取り上げていて、積雪に伴う交通機関のマヒを心配していた。

 それを聞いて窓越しの空を見上げてみると、変わらない灰色の天井が広がっているが、何かが降る気配はない。最近はずっとこんな天気を見ている気がする。これも寒波の影響なのかは不明だが、空色同様に気温も低いままだ。

 そんな中、先ほどからポツリポツリと会話を交わしていたが、運転席に座る多々良が一度腰を浮かし、座り直すと助手席に座る襖さんにそう尋ねた。


「いや、俺はいい。どうせ今回の件の書類作成に追われるだろうからな。それに気になる事もある」


「……一日中書類作成に時間を掛けるつもりですか。それと、その『気になる事』と言うのは仲間の死を悼むことよりも大切なことですか?」


「若林のことは残念に思ってる。だがな、俺たちの仕事は悼むことでも悲しむことでもない」


「そうは思いません。若林もアイビーも、そうするのが生き残った者の務めだと僕は思います。この仕事をしているなら尚更です!」


 何処か問い詰めるようにその語気を強くする多々良と違って、襖さんは何時も通りに言い返す。そんなやり取りを私は後部座席から眺めていた。

 バックミラー越しでは襖さんと多々良の表情が正確に把握できないが、多々良は顔を横に向けていて、直接確認できる。その眼には意思が感じられ、正義感のようなものが見て取れる。まだ若い顔が相まって、疑うことがないような真っ直ぐな感じだ。

 逆に襖さんはただ真っ直ぐを向いて、時折片耳につけているインカムに指を添える。どうやら多々良との会話は話し半分――とは言っても受け答えはしっかりしているから、ちゃんと聞いているのかもしれない――のようだった。

 そんな襖さんの顔は残念ながら、ちょうど真後ろのここからではちゃんと見えない。座席から乗り出せば直接見えるのはわかってはいるが、そうはせず、代わりに助手席側のサイドミラー越しに確認する。

 するとそんな襖さんがふっ、と鼻で笑う。


「生き残った者の務め……か。随分と正義感に駆られてるんだな。吸血鬼を狩り、人類を護るなんて大それた大義を掲げているが、その秘匿性のために誰にも感謝されず、自分の命は危険に晒される。この仕事は一般的な正義の概念とはほど遠いぞ?」


「別に僕は感謝されるためにこの仕事をしてるわけじゃありません。誰かがやらなくちゃならない、それだけです。それに一人で戦ってるわけじゃないですから」


 ふと多々良は後部座席に眼をやる。だが、その視線は私に向けられているわけではなく、その隣、シレネに向けられている。

 私と違って、少し身体を乗り出して話しを聞いていたシレネは、多々良に視線を向けられると返すように口角を上げ、ニッコリと笑う。同時に「はい、幸村さん」と嬉しそうに言い、釣られて多々良も軽く笑みを浮かべる。


「余り入れ込み過ぎるなよ、自分の首を絞めることになるぞ」


 それを横目で見ていたのか、襖さんはそう口にする。


「……どう言う意味ですか」


「カマキリの仕事は吸血鬼を狩ること。担当官の仕事はそのカマキリに直接指示を出すこと。世話をするのが仕事じゃない。昔、入れ込み過ぎて情が移ったのか『危険なことをさせたくない』と言い出したヤツがいてな、その時は大変だったよ」


 皮肉るように襖さんは肩を竦める。多々良はシレネから襖さんに視線を戻し、その横顔をなにか言いたげに見るも口には出なかった。


「お前のことだ、若林の仇討なんて考えてるんじゃないか? だからこうして付いて来た……どうだ?」


「……だとしても、この件の担当は病葉さんなんでしょ? それにシレネの武器も置いて来たし、なにもしませんよ。付いて来たのはここが僕の担当区画だからです」


 そう言って、疑われたことが不服だと多々良は腕を組む。対して、だといいがな、と多々良の言うことを信頼しないまま襖さんは会話を締めくくる。

 恐らく、襖さんは多々良の心情を見抜いているのだろう。少なくとも会話のやり取りを後ろから見ていた感じでは、多々良の口が濁り始めたところから、終始図星を突かれていた気がする。

 腕を組んだのも、その心情が形になって現れたもの。どんなに冷静を装っても、それが形になってしまえばわかりやすいものだ。

 思い返してみれば、前に今のメンバーで施設の廊下で会った時も、多々良は今のようだった気がする。襖さんが指摘し、多々良が反論するも、それをまた襖さんが……そんな感じ。

 多々良が言うこと全てが間違っているかは私には判断できない。だが襖さんには、公安6課を長く勤める者からすれば、多々良のそれは快く思わない言動なのかもしれない。

 そしてまた、多々良にとっても襖さんの言葉は不愉快のものなのかもしれない。

 そんな中、私の隣から「むぅー」となにやら唸る声が聞こえる。見る間でもなく、シレネだ。


「幸村さん、あたし武器がなくても戦えます! その若林って人の仇討できます!」


「あっ、大丈夫だよシレネ。今回は僕たちの仕事じゃないんだ、ゆっくりしてても良いんだよ」


「けど幸村さん。あたし、この人嫌です。幸村さんのことイジメて、全然優しくない。それになんだか偉そうで。言う通りにする必要ないと思います!」


 いきなりの言葉に誰よりも反応し、慌てて見せたのは多々良だった。

 一層身体を乗り出して言い放つシレネに、多々良は運転席から振り向き、その発言を止めようとする。しかし、それでも止まらず、あまつさえ嫌いなどと言った単語が飛び出す。

 シレネは多々良に視線を向け、自分が言った発言を通そうと多々良に訴える。時折その眼は襖さんに向けられ、警戒するような、それでいて軽蔑するような視線を送る。

 先ほどまで自分が襖さんに食って掛かっていたのに、それが打って変わって、多々良はそんなシレネをいさめようとする。慌てながらも困ったように笑い、大丈夫だと言うが、どうやら効果は薄い。

 自分が言う分には自分自身の責任だが、それにシレネを巻き込みたくない、そんな感じだろうか。

 それを気にするように、多々良は襖さんの様子を窺う。


「す、すいません病葉さん。シレネに悪気は……」


「いや、吸血鬼を狩る意欲があるならそれに越したことはない。さっきも言ったが、それがこいつらの仕事だ」


 しかし当の本人は全く気にしている様子はない。襖さんは肩越しにシレネを見ていたが、まるでシレネの言葉を微塵も気にしていないと言いたげに、ただ前を向いて答える。

 だが逆に多々良はその言葉にどこか呆れたようにも、少し苛立ったようにも取れる表情を見せた。襖さんの回答は、また多々良にとって聞えの悪い言葉だったのだろう。

 そしてそれは必然なのだろう、我慢することなくその不満を多々良は口にした。


「……戦うだけの人生なんて、辛すぎます。この子たちには、もっと真っ当な人生を歩ませることが――」


「真っ当な人生だと……?!」


 不意のことだった。多々良の言葉を遮り、襖さんが感情を露わにする。

 だが思えば廊下で会った時、多々良もそうだが、襖さんもそうだった。あの時見せた横顔。目を吊り上げ、怒っているようにも見えたが、そうでもないような眼。

 その顔を多々良に向け、静かに怒鳴りつける。


「さっきから聞いていればふざけたことばかり、現実を見ろ! 24時間監視されるような存在が、お前が言う真っ当な人生を送れるとでも思うか!」


「な、なんですか、僕はあなたのようなそんな偏見はない。シレネは、この子たちはもっと……!」


「言わせてもらうが事実だ。更に言えば、今お前の頭にあるそれは、新人が陥り易い症状だ。多々良にはこいつらが可愛らしい少女にしか見えないだろうな、だからそんなにも肩を持ちたがる」


「ならそう言う病葉さんはどうしてそんなにこの子たちと距離を取りたがるんですか!? まさか怖いんですか?!」


 多々良の言うことに、襖さんはハッと笑い飛ばす。


「怖い? ああ、恐ろしいさ! 素手でコンクリートを砕ける奴だ、鉄だって折り曲げられる。その手が俺の腹を突き破り、腸を引きずり出さないか恐ろしくて仕方ない! いつ背中から刺されるかわかったもんじゃないからな!」


「……ッ! 私はそんなこと――」


 気が付けば私の声が車内に放たれていた。自分ではわからなかったが、大きな声だったのだろう、襖さんも多々良も言葉を止めている。

 私も口を閉じ、誰も話さなくなった空間。その空間でただラジオの音だけが、せせら笑うかのように流れる。

 視線を襖さんに向けると、既に座席に座り直し、前を向いている。その表情を確認するにはサイドミラーを見ればいいが、そうはしなかった。

 私は視線を落とし「すいません」と呟くと、聞いているのだろう、襖さんはそれに反応するように耳に手を当てる。


「ルリチシャ」


 すると名前を呼ばれると同時に、ぽんっと頭を叩かれる。いや、叩かれると言うよりは触れるような、撫でられるような優しいものだった。

 横を見ると、シレネが私に向かってその年相応の小さな手――とは言っても私と同じぐらいで、襖さんや多々良から見た場合だが――を伸ばしていて、軽く笑って見せる。


「あたし、幸村さんにこうされると嬉しいから、ルリチシャも嬉しいかなって」


「……シレネ」


 その笑みに何とも言えず、私はその手をゆっくりと払い退けることでしか返すことが出来なかった。そんな私にシレネは、あれ? と軽く首を傾げて見せる。


「ん、やっと来たか。待ちくたびれたぞ」


 そうしていると襖さんが言葉を零す。反応して、私も窓から外を見てみると通行人の中に三人組の男がいた。何故か周辺を気にしているようで、辺りを見渡している。

 多々良もシレネも釣られてそれを見て、まず先に多々良が口にする。


「あの学生たちは……?」


「今回の吸血鬼被害の一般人、その二人の知り合いだ。追ってる吸血鬼はどうやらこのグループを狙って『狩り』をしていたようだ」


「なら、保護した方がいいんじゃ……? いや、そもそもあの三人を待っていたって……あ、病葉さん!」


 多々良が尋ねているとその間に三人組は歩を進め、何処かへと向かって行く。すると襖さんは質問に答える前に車のドアを開け、追うために外へと出る。

 それに続き私もドアに手を掛けるが、止めるように隣から腕を掴まれる。


「ねえ、ルリチシャ。あたしにやらさせて? あたしと幸村さんが行くから」


「えっ?」


 私はシレネを見ると、そんな私をシレネは見つめ返す。


「あの人の言うことなんて聞いちゃダメ、全然優しくない! ルリチシャ可哀想だよ。あたしがやるからさ、ルリチシャは休んでてよ」


 ねっ、とシレネはそう言いながら笑って見せる。

 私はその申し出に、小さく眉をひそめる。シレネは私が可哀想だと、まるで私のことを思っているとでも言いたげに提案した。だが、その顔は別に私のことを心配しているとかそう言うのではない。

 もちろん、その笑みが不敵な笑みだったとか、何処か裏があるようなものではない。純粋な笑顔だった。だが私にはわかる。その笑顔は私に向けられているものではない、シレネ自身のためのものだと。

 私と同じだ。多々良と、自分の担当といられる時間があることが嬉しいものだと、シレネもわかっている。仕事があれば、それが出来ると理解している。

 もし私が仕事をしたくないと言えば、どうなるのだろうか。今ここでこの意見が通った場合、やはりシレネが代わりを務めるのだろう。若林を『狩った』吸血鬼を狩るために、多々良と共に、だ。

 だがなによりも、私はシレネの発言に首を縦に振ることは出来ない。私はシレネに掴まれた腕を引き離し、長袋を持って車のドアを開ける。そしてそのまま地面を踏み、外に出ると案の定冷気が頬を撫でる。見てみれば襖さんとの距離はまだ空いていないことに安堵し、口から白い靄が漏れ出た。

 追うためにドアを閉めようとすると、閉める前にふとシレネに目線が合い、私は言う。


「シレネ、それ以上襖さんのことを悪く言うなら許さない。私はあの人のカマキリなの」


 きょとんとしたシレネを余所に、私は車のドアを閉めた。

 襖さんを追うために小走りで向かい、その途中で長袋の紐に腕を通す。襖さんは三人組の後に付いて行き、それに追いついた私はその歩調に合わせて歩く。

 前を歩く三人組は毅然とした態度を取ろうとしているが、怯えているのか落ち着きなく辺りを見渡して、まるで何かに警戒しているようだった。

 三人を追っている最中、ふと襖さんを見るが、声を掛けて良いのか迷う。今は黙って付いて行くべきなのか、それとも声を掛けてもいいのか。先ほどから口を開こうとしては閉じて、自分の意思を通そうとしては、襖さんのことを考えてしまう。


「あ、あの……襖さん。その……あ、あの三人は手帳に書かれていた五人の名前の……」


 だが、このまま黙っていたら尾を引き、そのまま声を掛けることが出来なくなってしまったら、そう思うと口を開くしかなかった。もし返答がなければ、それは今まで通りだと割り切ればいい。


「……ああ、そうだ。その生き残り、前に俺が話しを聞きに行った三人だ」


「あっ……えっと、その、追う必要が? あの三人は確か吸血鬼ではないはずじゃ……」


 声を掛け、無事に返ってきたその返答に、私は襖さんの背中を見上げる。車の中での話しからそうなのではないかと思っていたが、どうやらこの考えはあっていたようだ。

 確か学校曰く普通の学生で、車の中で襖さんが言っていたが、吸血鬼に狙われている元五人組。そのうちの二人は既に『狩られ』その生き残りが、今前を歩く三人。

 だがその三人がなぜこんな所にいるのか。いや、いること自体に不思議はないかもしれない、ただ偶然通りかかった可能性がある。

 問題は追う理由だ。あの三人は襖さんが吸血鬼ではないと確かめたはずだ。ならばなぜ、一般人を追跡する意味があるのか。多々良が言っていたように保護するため? それならば後ろからこっそりと付いて行く理由にはならない。

 すると襖さんは肩越しに私を少しだけ見て、また前を向く。


「ルリチシャ、何故あいつらが狙われているかわかるか?」


「狙われている理由……ですか?」


「吸血鬼が『狩り』を行う場合、その対象にされる人間は大きくわけて二種類だ。一つは偶然的、本能的に単に目に付いたからと言う理由。もう一つは恨みを抱いている相手、私情的に殺したがっていた相手だからだ。今回の場合、どちらだと思う?」


 その問い掛けに、えっと、と私は少し考える。


「――恨みを抱いている、と思います。この五人の中で被害者が一人だけならまだしも、二人いると言うことは確実に狙っている。偶然的と言うには少し……」


 調査中にそんな話しを一度した気がする。それに私なりの考えを付け加え、襖さんに答える。

 もちろん、それに該当しない者もいる。若林とアイビーだ。だがそれは例外と言うよりは、襖さんと同じように、久木原真央のことを調べているところを襲われたのだろう。襖さんの場合は撃退できたが、若林の時は力及ばず。それだけだ。

 私の回答を聞いた襖さんは肯定するように一度頷いて見せてくれた。


「そうだ、偶然にしては出来過ぎている。明確に狙う理由があると言うことだ。ならその理由、恨みとはなんだ?」


「えっ?」


「人間は他人を恨みや怒りで殺すことなど珍しいことじゃない。例えその相手に恨みがなくとも、殺す者もいる。なら吸血鬼が人間を本能的だろうが、私情的だろうが、恨みや怒りで殺そうとすることになんの違いがある?」


 人間が起こした殺人と、吸血鬼が起こした殺人の違い? 殺害方法のことを言っているのだろうか。それとも感染の有無のことだろうか。それとも、もっと他のことか。

 たたみ掛けるような質問に、私は考えが追いつかない。そんなことを言われても私にはわからない。そんなこと考えたこともない。

 回答は出ず「その、えっと」と私は繰り返す。


「……お前に言うことじゃなかったな」


 そんな私を待っていてくれたのか、襖さんは黙っていたが、答えが出ないとわかるとそう言った。

 後ろからでは雰囲気的なものでしかわからなかったが、その襖さんの後ろ姿に、私は反射的に慌てて首を左右に振りサイドテールを揺らす。


「いえ、そんな。私は……」


 そう言って、一度口を閉じる。おかしい、不調なのか、集中できていないのか、次の言葉が思い付かない。

 なにか言わなくてはいけない。そう思って、頭を回そうとするが何も思い付かない。それでもと私は真っ白な頭のまま口を動かす。


「私は、気にしてませんから――」


 そうしている内に、私と襖さんの先を行く三人組が建物に入って行くのが見えた。初めて来る場所のように迷いながら、三人はその建物の地下へと向かう狭い階段をゆっくりと警戒しながら下って行く。

 襖さんはそれを見届けると、一度足を止め、耳へと手を伸ばす。通信機を通して、向こうにいるであろう相手に襖さんは喋りかける間、私はその建物を見上げる。

 通りを外れた、ひっそりと佇む建物。人気はないものの、その外装は決して古めかしいものではなく、人の手が定期的に入っていることがわかる。

 その証拠に、良く見れば複数の監視カメラが隠されているのを見つけた。入り口全てを見張るような位置に設置されていて、中にはこの建物の前を通る全ての人間を確認する角度で設置されているカメラもある。

 街中にあるただの建物じゃないと言うことはこれで十分わかるが、なによりも当たりを包む空気が違うように私は感じた。

 ふと気付いて辺りを見渡すと誰一人としていない。辺りに静けさが漂っていた。


「ルリチシャ、行くぞ」


「あっ……はい」


 耳から手を離し、話しが済んだ襖さんは歩き出す。三人を追い、階段を下りるその背中に付いて行く。

 下まで降りると扉に突き当たる。だが、そこは何かの店の入り口と言うよりはただの扉で、ガラスも飾りもない、無骨な扉がそこにはある。天井を見ればそこにもカメラがあり、ちょうど目が合った気がした。

 襖さんはその扉のノブを回すとその見た目に反してあっけなく開く。扉を開けるとタイル張りの廊下が現れ、更に奥へと続いている。

 場所が場所のこともあり、その廊下は暗く、そして冷たい。だがどうやらその先に部屋か何かがあるのらしく光が見え、その明かりで廊下は完全な闇と言う訳ではない。

 だが、奥にあるのは光だけではなかった。

 奥から人の声が、いや、悲鳴が聞こえた。恐怖に震え上がった者が口走ったような声が、廊下の奥から這うように聞こえて、消えて行く。同時に廊下から流れる空気はどんよりと重く、肌にのしかかる。

 そんな薄暗い廊下を襖さんは気にする素振りを見せずそのまま進み、私もそれに続く。背後ではゆっくりと扉が閉まるのを感じた。


「……なん……待ってく……!」


 奥に進むほど悲鳴はより明確に聞こえ出す。それは男の声で、続くようにもう他の男の声が聞こえる。

 どちらも取り乱した、それでいて何かから恐れている声が聞こえていたが、歩を進めるうちにその声は減っていく。漂う空気がさらに淀み、決して長くはない廊下のはずなのだが、奥までが遠く感じる。

 だが実際はほんの少しで、1分も経っていないのだろう。廊下の突当りに着くと、思った通りそこには部屋があった。

 やはり光はここからきていたようで、天井ではライトが光っている。廊下に続きタイル張りの床に、コンクリートが剥き出しの壁が一面に広がっている。

 他にはパイプ椅子だとか、鉄パイプだとか、細々としたものが点々と転がっていて、店仕舞いして備品の処理に困って置いて行ったような物が端に寄せられている。


「待って下さいぃ……謝りますから、全部悪かったから……」


 そして見てみれば、そこには先ほどの三人組の一人が鼻から血を流し、くしゃくしゃになった顔でうつ伏せに倒れていた。どうやら上手く喋れないこともあるのだろう、吐き出したモノで汚れたその口から、うめき声のような命乞いを必死している。

 だが、それを冷ややかな目で見ている者がいる。見下しながら男の背中を踏みつけ、髪を鷲掴みにして無理矢理顔を上げさせている。


「あ、ああッ!! おい! 助けてッ!! 話しが違――」


 男は襖さんが現れたことに気付くと、口周りの汚れを飛び散らせながら叫び出す。しかし言い切ることはなかった。

 髪を掴んでいた者が黙らせるように、男の顔面を床に叩き付ける。タイルが砕け、破片と赤い雫が飛ぶ。同時にひび割れ、砕けるような鈍い音と共に、ぐちゃりとした液体が混じったモノが潰れる音が男の頭から鳴る。

 その者はふと顔を上げ、私と襖さんを見ると男から手を離す。すると男の頭は支えをなくしたようにたるみ、動きを止めた。


「あんたは……あの時の……」


 そう言って、舌打ちのようなものが聞こえたかと思うと、不敵に笑ったように見えた。

 服装は違ったが、あの時のように全身黒ずくめ姿は変わらない。だが、その者が誰なのかは雰囲気でわかった。あの時の、と。


「今度は文通にしなくても良いのか?」


「は? ああ、携帯の? やってわかったけど、あれ結構面倒くさいのよ、メールとかならいいんだけど……それに犯行現場を抑えられたみたいだし、誤魔化しても無駄なんでしょ?」


 襖さんに挑発的な口調で答えると、そのまま被っていたフードに手を伸ばす。そして露わにした顔は、何処か見たことのある顔だった。


「けど一歩遅かったみたいね、刑事さん? もう終わっちゃったわ。残念ね、あんたがもう少し早く駆け付けていたら、助けられたかも知れないのに……無能の証ね」


 するとその女は、まるで自分がした功績を見せるように両腕を広げる。

 それは女の足元に転がっている男に合わせ、壁際にもう一人。そして、部屋の奥の少し床がせり上がった、ステージのような場所にもう一人。どれもあの三人組の男たちだった。

 足元の男は先ほど見た通りで、腹部を強打された時に吐き出したのか、その横には吐しゃ物が広がっている。壁際の男は首が曲がってはイケない方向に向いていて、他にも腕や足が通常とは逆方向に折られている。

 最後にステージ上で倒れている男だが、その近くの壁に血が広がっており、その壁はひび割れいた。投げられ、壁と激突した衝撃で内臓が破裂して――もちろん、骨も折れているだろう。胴がぐにゃりとしている――それが口からあふれ出ていて、その身体は血塗れだった。

 誰一人として息はいておらず、死んでいることは一目でわかる。だがそんな惨状に対して襖さんは態度を変えず、眉一つ動かさない。

 それが気に入らないのか、女の方が顔をしかめるが、直ぐに挑発的に笑う。


「なんてね。知ってるのよ、この男たちが囮だってこと」


「……なに?」


「この男たちが狙われてるって調べがついてたんでしょ? ならこの男たちを追っていれば、いずれあたしが現れる。その時にあんたが出てきて助ければ……いや、助けなくてもいい。なんせ現行犯で捕まえれば一番簡単だものね。その後は有ること無いこと無理矢理自供させれば終わりって訳よ」


 すると女は笑みを止め、襖さんを睨み付け、敵意を剥き出しにする。まるで動物のように感情的で、その眼には憎悪の塊のようなものが溢れていた。


「警察ってそう、他人の不幸を食い物にして、死肉漁り……一度でも未然に防いだとこあるの? 何時も人が死んでから腰を上げて、我が物顔でプライベートに干渉して! それであんたたちがどれだけの人を見殺して、追い詰めてきたかわかってるの!? お前たちが役に立たないから! お前たち警察が信用できないからあたしがッ!!」


「16年前――」


 女が怒りに任せて叫び、怒鳴る中、不意に襖さんが口にする。


「警察に一つの相談が持ち込まれた。ストーカー被害にあっているからどうにかして欲しい、と。被害者は二人の娘を持つ母親だった。娘の名前は久木原真央、そしてその姉の久木原美那……お前だ」


 淡々と喋る襖さんが二つの名を出した時、女は、久木原美那は眉をひそめる。

 その名前を聞いて、私は一人納得する。道理で見たことのある顔だったわけだ、久木原真央に似ている。とは言っても、私が覚えている久木原真央の顔は店で見た時の一度だけ。その時の表情は不安げで、目の前にいる美那の今の表情とはだいぶ違う。

 だがそれでも久木原真央が同じ表情をした所を容易に想像でき、うり二つと言う訳ではないが、姉妹だと見てわかるほどだった。


「事件の顛末はストーカーが母親を強姦し、その発覚を恐れ殺害した。捜査が進み、犯人は逃げ切らないと悟り自首。結果、無期懲役を言い渡され、今も独房の中で悠々と生きている。なのにお前はどうだ? 親を奪われ、全てが狂った。当時小学生だったお前には悪夢だっただろう……その様子だと警察からの事情聴取も、事件解決後のメンタルヘルスもずさんだっただろうな」


 そう尋ねる襖さんに、美那は拳を作って見せる。


「……ええ、そうよ。当時は大人に言われるまま、よくわからなかったけど歳を取るにつれ理解したわ。警察が相談した時に動いていればあんなことにはならなかった! 事件性はないとかほざいてサボっていなかったら、あの日お母さんは苦しむことはなかった!! それなのにあいつらは自分たちは悪くないの一点張り、マスコミの火消しの方が熱心に取り組んでいた。同級生にはイジメられ、声を上げれば金目的とさげすまれ、どれだけ真央が、お父さんが苦しんだかあんたたちにわかるッ!?」


 吐き捨てた美那に対し、襖さんは表情を変えない。今にでも襲い掛かって来るのではないかと言う覇気の中、襖さんは話しを続ける。


「だから警察に異様に嫌い、恨んでいる。出来る事なら警察なんか殺して回りたいって思うんだろ?」


「それだけじゃない! 8年前のバスジャック自爆殺人事件も、3年前の姉妹ロッカー詰め殺人事件も警察が対処していれば未然に防げたッ!! ええ、そうよッ! その通りよッ! 出来ることならあんたたち警察を殺してやりたかったッ!! どれだけそうできれば良かったか……でも、もう違う、あたしには力があるッ! 神か奇跡か知らないけど、与えられたこの力があれば、もう誰も傷つかせないッ!!」


 美那は自分の腕を見て、部屋全体にその声が響き渡らせる。それだけの理由、思い、決意があるのだと感じられた。

 恐らく、美那は正義感の強い者なのだろう。家族はもちろん、言動の端々から擁護する対象が自分自身ではなく他人に向けられている。

 だが、その原動力はやはり憎悪なのだと思う。人を殺したいほどの理由、恨みつらみが彼女にはある。建築現場で話していたことを思い出しても、警察への不満を述べていた。

 そして確か、そう、こうも言っていた気がする。『力は正しいことに使うべきよ』と。

 若林が『狩られた』のも、美那すれば正義のためなのだろ。妹のことを嗅ぎまわる憎き警察を倒し、世直しのためだと。

 仮にその理由で倒れたと若林とアイビーが知ったら、なんと思うのだろうか。人類の敵である吸血鬼に正義のためと言われ、駆除されたこの事実を。


「そう思っていた矢先に妹か? 今になって警察を当てにする気もない、だからお前は妹に代わって復讐を遂げる決意をした……そんなところか」


 それを聞いた襖さんは理解するように言うと、美那はハッと鼻を鳴らす。


「なによ、そこまで調べが付いてるならわかるでしょ。いや、男にはわからないかしら? こいつらが真央を、妹と傷物にした! 女にとってどれだけ屈辱で、恐ろしいことなのか……このクズどもは殺されて当然の人間よ!」


「写真まで取られて、どれだけ気持ち悪いか」そう言いながら、美那は足元の男を踏みつける。すると背中を踏まれた男は悲鳴を上げることはないものの、骨が軋み、ひび割れる音が代わりに聞こえ出す。そして最後にはポキッと想像以上に軽く、あっけなく折れる音が響く。

 美那は足を男から退け、そのわき腹を蹴り上げる。うつ伏せだった男の身体が仰向きになりその表情を見せたが、最早それは表情とは言えなかった。


「無関係の人間を巻き込んでか?」


「……なんですって?」


「恨みがあるのは久木原真央を襲った五人だけだろう。だがお前はその他に二人手に掛けている、二十代の男と女の子だ。二人はどう説明する」


 襖さんの問い掛けに、美那はフッと鼻で笑った。そして襖さんの発言を打ち消すように腕を一振りして見せる。


「なにそれ、勝手なこと言わないでくれる? 知らないわよ。あたしが確かに殺したのはこのクズども五人、その男と女の子ってのは関係ないわ。なに、あたしが見境なしに人を殺すように見えるかしら? それとも無関係な事件の犯人にしようって?」


「無関係? なら若林とアイビーは――」


「そうか、疑って悪かったな。それがわかれば十分だ……ルリチシャ」


 美那の発言に、私は思わず言葉が漏れる。するとそれを制止するように襖さんが割って入り、私に合図した。

 若林とアイビーは確かに吸血鬼に『狩られた』はずだ。美那には若林を襲う理由も動機もある、なのに無関係と言うのはどういう事なのか。嘘を言っている? そう思うも、言動やその顔から嘘を言っているようにはどうしても見えない。

 襖さんを見るが、まるでその発言を気にしている様子はなかった。それどころか、何かを確信しているかのようだった。

 私は合図に従い、私は襖さんの前に出る。肩から長袋を下ろすと、美那はこれから何が起こるか予見したように、一歩下がり、睨みを利かせる。


「ねえ、その子あたしと同じでフツーじゃないんでしょ? いったい何者なの。いえ、そもそもあんたたち何者? ただの警察にしてはヘンよね」


 すると美那はその眼を襖さんに向け、疑問をぶつける。同時に横目で辺りを伺ったが、直ぐにそれは止めた。

 恐らくはあの時を思い出したのだろう、この部屋の出入り口は一つだけ、それも私と襖さんの後ろにある。つまりは美那がここから出る方法は、私と襖さんの横を通り抜ける他ない。


「ああ、そうだ。俺たちは警察じゃない。公安6課、確かに表向きは警察機関で、その立場も持ち合わせているがそうじゃない……それにお前は他にも勘違いしている」


「勘違い?」


「お前はこいつらが囮だと言っていたな。こいつらをここに呼び出したのも、お前をここにおびき出したのも俺だ」


「……なんですって?」


 美那の怪訝そうな目が襖さんに向ける。


「お前が言う通り、お前がこいつらを狙っていたことを知っていた。だがこいつらも狙われていることには気付いていた……まあ、久木原真央本人が復讐しに来ていると思っていたがな。こいつらは保護することを条件に、ここに呼び出した。お前の方は簡単だ、手紙を一通入れればいい。久木原真央に当てた脅迫状をな」


 それを聞いた美那はピクリと眉をひそめる。心当たりがあると言うことは見てわかる。

 ふと絶命している男たち一瞥し、部屋に入った時に男が発した最後の言葉が私の脳裏を過ぎる。元は五人組の男たち、その二人が殺されたとなれば、残りの三人は当然ながら警戒する。

 いや、犯人に心当たりがあり、狙われている理由もわかっていたのなら、次は自分の番かと恐怖したのかもしれない。そこに襖さんが声を掛ければ、身の安全に走る。実際、と言うべきか、若林とアイビーが『狩られた』際なにかと6課内は騒ぎになった。

 美那は妹の久木原真央のために動いていた。とすれば、その久木原真央に脅迫状が届けば美那が動かないわけがない。内容は想像するしかないが、今回の件に無関係なものでないのだろう。

 後は両者を同じ時、同じ場所に呼び出せば、どうなるかは容易に想像できる。だがそれに異議を唱えるように、美那は口を開く。


「じゃあなに、これはあんたが仕組んだことで、わざわざクズどもを殺させてくれたって? あんたになんの得があるのよ、警察じゃないって言うならなおさら……」


「確かに、俺たち6課の仕事は人類保護であって、警察のように犯行の証拠や、法廷で扱うような証言を集めているわけじゃない。だが、こいつらのしたことが許されることだとは思っていない」


「……どういうこと?」


 美那は話しが見えないと首をかしげる。すると襖さんは変わらず口調を崩すことなく、時折無精ひげを撫でながら言葉を並べる。


「仮に久木原真央が泣き寝入りせず、警察に訴え出たとしよう。そうすればまず学校が事実確認を行い、たらい回しのようにマスコミ、警察と次々に広がっていく。そうなれば久木原真央は時の人だ、女子大学に起こった悲劇としてニュースに取り上げられるだろう。そうなれば面白半分に騒ぐヤツが出て来て、それは顔も知らない他人だけに収まらない。同じ学校に行く者はもちろん、隣人も例外じゃない。不名誉のレッテルを張られ、警察からも虚偽ではないかと疑われ、最後は被害者か加害者が状況に耐え切れず示談に落ち着く。連日取り上げられていたニュースは事件解決と言う名目で、面白味がないと打ち切られる」


 そこまで言って、一度言葉を止め、肩を竦める。


「もちろん、絶対じゃない。警察が全面協力するかもしれない、世間が気を利かせ、騒ぎ立てないかもしれない。だが可能性がないと言い切れないのが人間だ。それだけ悪意に満ちた生き物だ……それを恐れれば、こいつらは野放しだ。余りにも不公平じゃないか? そんな状況下にいるお前たちに、同情の一つしたのかもしれないな?」


「馬鹿にしてッ、あんたが人の気持ちがわかるようには見えないわ」


「誰だってそうさ、お前は殺した相手の親まで考えたことはあるか? 兄弟は? その知人まで考慮してその手を汚したのか?」


 舌打ちをして手を振って見せた美那だったが、その言葉に初めて美那は怒りとは違う感情で眉を動かす。だがそれも一瞬で、それを見た襖さんは返答を聞かなかった。


「お前はそうやって、理由をつけ自分のしたことを正当化しているだけに過ぎない。だが、こいつらがやったことも許させる事じゃないだろう。ならどうするか? 喧嘩両成敗とは良く言うだろう。今日、お前にもその報いを受ける時が来ただけだ」


「……あたしを殺すの?」


「ああ、お前のような者を野放しにできない。恨むならその力を恨むんだな。だが始末書覚悟で復讐の手伝いをしてやったんだ、化けて出て来るなよ」


 冗談めいた言葉に、美那はなにを思ったのか。

 雰囲気が変わり、この以上の話しはない。それを感じ取った私は長袋から両刃剣を取り出す。照明の光を刀身が鈍く反射し、袋から抜くごとにその量を増やしていく。

 途中で長袋から手を離すと、刀身から滑べるように流れて行き、衣擦れの音を立てながらその場に落ちる。

 全貌が露わになった両刃剣の柄をシッカリと握り締め、構えを取ると一歩、私は近付く。どれだけ美那に事情があろうがなかろうが、吸血鬼を駆除する。それが私の、私たち公安6課の仕事だ。

 美那を見れば口を硬く閉じていて、後ろからは小さく息を吐く音が聞こえる。そして襖さんは言った。


「『人類の脅威、若しくはその可能性を秘める存在は如何なる法に則らずこれを駆除することを認める』――公安6課の権利に従い、お前を人類の脅威になり得る存在と断定し、駆除する!」


 その言葉に私は弾かれるように動き出す。それは私だけではなく、雰囲気を感じ取った美那も同じだった。

 美那は壁際に寄せられていたパイプ椅子を掴むと、そのまま私に――いや、もしかしたら襖さんなのかもしれない――向かって投げつける。

 それを剣を持っていない方の腕で弾き飛ばすと、ひしゃげた音と、それが壁にぶつかりバラバラになるような音がほぼ同時に過ぎ去る。

 美那の驚いた顔と、その中にある怒りの表情に向って、床を蹴り、腕を振う。生暖かい液体が腕いっぱいに降りかかり、振り抜いた剣先が地面を向く。

 防ごうとした腕はくるりと飛んで行き、ずり落ちる身体は、びちゃり、と音を立てた。


 ・


 蛇口を捻ればシャワー口から出るお湯はあっという間に私を包み込み、身体が熱を帯びるのがわかる。

 解いた髪が水分を含んで身体に張り付き、それを掻き上げて首から一つにして垂らす。するとそれを伝って、頭から降りかかるシャワーが流れて行き、温かな液体が足元で音を立てて跳ね上がり、流れていく。

 それは髪だけではなく、顎や肘、身体を伝うお湯が溜まっては滴り落ちていた。

 蒸気が辺りを包み出し視界が白くなる中、肩を使って息を吐く。すると少しだけ口に入り、それを煩わしく吐き出して濡れた腕で口を拭う。


「調子はどう? 身体の方に違和感はある?」


 何十回、いや、何百回かもしれない。聞き飽きた言葉に、私はこの質問になんの必要性があるのかと思ってしまう。もちろん、理由も必要性もわかっているつもりだ。

 感染の可能性がある吸血鬼の返り血を浴び、施設の中での生活を強いられ、それがどれだけ肉体的にも、精神的にも負担になるのか。

 それを気に掛けてくれているのだとは理解している。だが、どれだけ気にしても、それらが変わるわけではない。


「大丈夫、問題ない……なに?」


「釣れないわね、それともご機嫌ななめ? 顔を突っ込ませたからには色々気になってるのよ、私も」


「そう言う割にはクロユリ、最近またいなくなった」


 肩越しに後ろを見ると、個室の外にクロユリがいるのが見える。

 浴室だというのに服を着ているところを見るに、どうやらシャワーを浴びに来たついでに私に出会ったと言うことではないだろう。

 顔を突っ込ませたと言うのは、襖さんの過去を私に教え、無関係から関係者にさせたことだろう。だがここ数日、施設の中と言うこの閉鎖された空間に関わらず、クロユリと出会うことはなかった。

 初めてのことではない。そもそも、若林とアイビーが『狩られ』私が初めて襖さんの調査に同行した時、クロユリが私に声を掛けたのはその数日後。その間私に接触しなかったのは、その前から姿を消していたからだ。

 そもそもがふらりと現れて、ふらりと姿を消す。それが私が知るクロユリだからこそ、これまでは気にならなかった。だが、クロユリと襖さんの関係を知った今ならば、誰よりも早く、調査に戻って来たその時に声を掛けられても可笑しくはない。

 それなのにクロユリ自身が言うのだ、気になると。それならすぐにでも会いに来れば良いのに関わらず、そうはしない。言動が矛盾している気がする。

 するとクロユリは、ふふふ、と笑い声を出す。


「私はあなたたちと違って身体が弱いから、たまにはゆっくり休んでないと調子が崩れるのよ」


 手をひらひらと振って、表情を見せるクロユリ。私はその手に視線が行き、ふっと眼を逸らす。


「まあ、まずは若林さんとアイビーの敵討ち、お疲れ様ね。『狩って』来たのでしょ? どうだった、少しは思うことがあるんじゃないかしら」


「……多分、違うと思う」


「違う? 違うって……?」


「今回駆除した吸血鬼が、若林とアイビーを『狩った』6課殺しの犯人じゃないかもしれない」


 私の言葉に、思った通りクロユリは首を傾げて見せた。そして「それってどういう意味?」と当たり前のような質問に、私も首を傾げ、肩を竦める。


「私にはよくわからない。ただ、そうじゃないって吸血鬼本人が言って、襖さんはそう思ってるみたい」


 あの時見た確信したような眼。美那がそう言うとまるでわかっていたようだった。

 恐らく私がいない時に調査の途中でそう言う情報を掴んだのか、考えその結論に至ったのか。だがその決定的な証拠はなく、だからこそ本人に聞いて真実を確かめたのだろう。

 そしてその結果が想像通りであった為、襖さんは驚くことはなく話しを続けた。追求しなかったのも、美那が6課殺しとは完全な無関係だとわかったから。

 私は美那が関係を否定した時、警察嫌いだと言うのも相まって、素直にその言葉を受け入れられなかった。だが嘘を言っているようには感じられず、心のどこかでは驚きながらも納得していた自分がいたのかもしれない。

 それだけあの時見せた美那の瞳も真っ直ぐに見え、襖さんにとって、それが決定的な証拠になったのだろう。

 もしもあの時、私が建築現場で駆除していたら、それがわからないままになっていたのかもしれない。そう考えると、襖さんが私を止めたのも色々な理由があったと言うことだ。

 だが、美那が若林とアイビーを『狩った』犯人でないのなら、真犯人はいったい何者だったのだろうか。


「そう、じゃあ……まだ終わりじゃないってことね。あーあ、折角告別式に良い報告ができると思ったけど、それは先になりそうね」


「……終わりじゃない?」


「ええ、襖さんがそうじゃないって思ったのなら、真犯人を探すためにきっと調査を続けるわ。それに事が6課殺しだから誰かが止める理由もないでしょね。それとも何? ルリチシャはこのまま犯人を野放しでいいのかしら。アイビーのこと、本当になんとも思ってないの?」


 クロユリの言葉に私は考え、その間シャワーの音だけがする。少し考えた後、私は蛇口を少し閉め、シャワーの出を緩める。自然とその音が小さくなり、互いの声が聞こえやすくなった。


「私は、アイビーに感謝してる」


 私とアイビーの関係、決して無関係なのではない。アイビーは私にピアノを教えてくれた、だが私は、アイビーに何かをしてあげられていただろうか。

 その彼女が『狩られ』私と襖さんがその吸血鬼を追うことになった。6課殺しとは言うが、実際の所、6課の人間が死ぬことは珍しいことではない。

 これまでにも何人の人間が人類保護のために命を落としたか、それはきっと数えきれないほど多いのだろう。アイビーも若林も、それで見ればその一つでしかない。

 けど、だけども、それは私にとって、本当に数多くの一つなのだろうか。だって、アイビーがいなければ、今頃私は……

 ふっと、笑みがこぼれた。


「アイビーが死んでくれたから、襖さんの調査に同行できた。これまで知らない襖さんのことが知れた。だから、死んでくれて嬉しいって……そう思う」

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