11話 太陽が昇るために
一層寒さが厳しくなり、また灰色の雲に覆われて月明かりが届かない地上は暗闇に変わる。けれども外灯や建物の光がランランと輝き、見方を帰れば日中よりも明るく、眩しい。
そんな光から逃げるように私は路地の壁に寄りかかり、通りの光を眺めては白さが濃くなった息を吐く。直ぐに消えて、直ぐにまた私の口から洩れては消える。
ふと隣を見て、同じように壁に寄りかかった、何時ものよれたコートを着た襖さんを見上げて、私はバレないように小さく微笑む。頬が寒さとは別に赤く染まり、身体が暖かくなるのを感じてしまう。
声を掛ける代わりに、小さく首を傾げて頭の横に束ねた髪を揺らす。反応がないことを知っていても、その視線の注意を私に向けることが出来ないことも知っていても、ただ試す。結果は想像通り。気付いていないのか、それとも無視をしているのか。
代わりに襖さんが懐から取り出したのはタバコと、マッチ箱。左手でタバコを咥えて、右手だけで器用にマッチ箱からマッチ棒を取り出し、そのまま火を点ける。暗闇に炎の光が揺らめいて、白い息に混じって、灰色の息が立ち昇る。
私はそれを見て、眺め、視線を光に向けると、ただ待つように壁と暗闇に混じるような紺色のコートに身を委ねる。横にいる、男性を感じながら。
「よし、わかった……やってくれ」
光の中にいた大門が、耳に付けたインカムから手を離し、襖さんに手を上げて合図を送る。合図を受け取った襖さんは一度タバコを大きく吸うと、意外にもむせ込んで見せた。
襖さんは眉をひそめ、首を傾げながら――だが何処か理解しながら――咥えていたタバコを投げ捨てると、歩く過程で踏みにじってタバコの火を消す。その背中を追うために、私も壁から身体を放し、光を背にして歩き出す。
途中、背の光がゆっくりと消えて行き、暗闇が包む。まるで冬の寒さに埋もれたかのような、人が誰もいなくなったかのような異様な暗さと静けさが辺りを制する。
行先は路地に面した店舗。そのショーウインドーに飾られたモノは光なく不気味に佇んでいた。襖さんは既に営業時間が過ぎているその店のドアを叩き、様子を伺う。一度、二度叩き、反応を待つ。
すると襖さんに対して反応を示したのは店の中ではなく、隣の勝手口。ドアが開き、そこから増井が顔を覗かせていた。増井は襖さんの顔を見ると何か思い詰めた顔をして、ゆっくりと路地に出て来る。
「刑事さん……こんな時間にどうしたんですか? あー、警察だからって、流石に非常識じゃないですか」
増井は言葉を選ぶように口を濁し、問い掛ける。
「ああ、今回の事件の犯人がわかった。いや、これから判明すると言った方が適切か」
「なにを……えっ?」
襖さんの言葉に増井は疑問を隠さず口に出す。だが同時に増井は辺りを見渡し、場の異常さに気付く。暗さと静けさ、その状況に増井は暗闇を恐れ、焦りを覚えたような瞳を見せる。
「流石に今夜は冷えるな。立ち話もなんだから、差し支えなければ部屋に入れて貰えないか? お互い座って、じっくりと事件の話しをしたい」
襖さんは何時ものような淡々とした口調で喋り、増井に部屋の中に入るように促す。増井は口を硬く閉じ、目を逸らす。
少しの間、互いに白い息を吐いていると、不意に増井は鼻で笑い、諦めるように首を左右に振る。そして「刑事さんも人が悪い」とそう零す。
「ハッキリと言ったらどうですか? 今回の事件の犯人がわかったと……ええ、そうです、自分ですよ。彼女には悪いことをした……いや、けど彼女が悪いんですよ、お金もないのに駆け込んで来て……」
語り始めた増井はまるでその時を思い出しながら、苦笑交じりに手振り身振りを付け加える。
「刑事さんも調べが付いているんでしょ、彼女はうちに借金があった。推しのバンドを応援するとか、CDに付いてるチケットを買い占めたりして、安月給なのに無理して大半をつぎ込んでた。その挙句にうちにツケですよ。うちも裕福じゃない、何度も催促しましたよ。でも無駄だった……そしてあの日。流石に良心が咎めたんでしょう、少しばかしのお金を店に来たんです。けどそんなのじゃ全然足りない。言いましたよ『明日にでも全額払わないと警察に突き出してやる』てね。そしたらなんて言ったと思います? 『こんなおんぼろの店が持ってるのは私のお陰だ。それが常連にする態度か』て……頭に来ましたよ」
すると、ハァ、と何かに呆れたというよりは、喋り疲れたように白い息を吐く。そして増井は大きく肩を竦め、やれやれと両腕を左右に広げる。
そんな増井に襖さんは何もせず、私もその後ろでただ黙っていた。
「怖いですね、怒りってのは……昔の自分は不良ぶって、そんなのがカッコイイってバンド始めて暴れ馬を演じ得た。この年になって丸くなったと思いましたが、やっぱり人間変われないものなんですね」
ははは、と今度は苦笑を浮かべる。
「さあ、これが真相ですよ……あの、刑事さん。刑務所の中とかどんなのか知らないんですが、妻と連絡って取れますかね……ヒロの事とか頼みたいですから」
まるで言い切ったと言わんばかりに言葉を並べた増井は、どこか誇ったかのような顔を見せる。だがその質問に先ほどの増井とは違い、黙って聞いていた襖さんはため息交じりに白い息を吐く。
「そうか、なら犯行方法に付いて聞かせて貰おう。切り傷が目立っていたが、凶器はナイフか? 包丁か? 何処にある」
「ナイフですよ、事件後に川に捨てましたよ。今頃物好きが拾って、どこかで使われているんじゃないですか?」
「なら遺体にあった歯型はなんだ? もみ合っている内にとっさに噛み付いたのか?」
「歯型……? あー、そうかもしれませんね。さっきも言った通り随分と頭に血が上ってましたから、知らずしらず、とっさに……刑事さんもういいでしょう、積もる話しなら署にでも――」
ハア、と襖さんはまたため息を吐き、言葉を遮る。
「いや、その必要はない」
えっ、と増井は驚くと襖さんはコートの懐に手を入れて、暗闇よりも黒く、冷たいものを取り出す。
そのまま、それをためらうことなく増井の額に向けると、増井は目を見開く。思わず後退り、ためらいがちに両手を上げた増井はもう一度疑問と驚きが入り混じった声を漏らした。
「銃……?! な、なんでッ!?」
増井からすれば、犯行の自白をしたのに関わらず、刑事の懐から出て来たのが手錠ではなく、拳銃が出て来てことに驚きを隠せないのだろう。そもそもこの国の都心で、銃器を突き付けられることに慣れている者など極わずかのはずだ。
襖さんは抜いた拳銃の――それもサイレンサーが付いている――銃口を増井の顔に向け、表情を崩さない。銃を構えた襖さんに、両手を上げた増井。先に動いたのは襖さんだった。
まるで相手を刺激しないようにゆっくりと歩き出し、近付く。意外にも増井は上げた手の指先を震わせるも、退くことはしなかった。一歩二歩と近付きながら襖さんは口を開く。
「お前の言う通り、会社の同僚に知れ渡るぐらいには被害者には浪費癖があったらしい。ツケの件も、前に家の中を調べさせて貰った時にわかった。本気で証拠を隠すつもりがあるのなら、随分とずさんだな」
「……それは」
そうしている内に、襖さんは増井に手が触れられる距離まで詰めると、そのまま肩を掴み、増井が出て来たドアの中に押し込む。
中は店内のリビングに直接繋がっていて、内装はこの前見たままの状態が広がっている。だが外とは違い、天井の電球に電気が通っていて辺りを照らしている。
状況が理解できていない増井は抵抗できず、ほとんど襖さんにされるがまま、リビングに押し込まれる。そして足がもつれて倒れ込むも、襖さんはその銃口を増井から外さない。
「な、なんですかいきなり!! 銃なんか抜いて、それでも警察――」
「……ルリチシャ」
拳銃を突き付けて増井を制すと、襖さんは私に指示した。
私はそれに、はい、と頷いて返して家具を避けながら歩き出す。壁に掛けられている時計は既に深夜を告げていて、おおよその人が寝ていることだろう。恐らく増井の息子もそうだろう、今の騒ぎを起こしても姿を現さない。
私は進み、そのまま一つの扉の前に立つ。普通のリビングには似つかわしくない金属製の扉、確か寝室だ。睡眠を邪魔されないようになのか、見てみれば鍵がかかっている。
耳を傾けると、中から物音がする。何か歩き回るような音と、食いしばった歯の間から漏れ出す吐息のような音。そして時折この扉自体が発する、引っ掻くような音。
私は扉に手を伸ばす。
「よせっ!! 今は駄目だ! ダメなんだ!!」
増井が叫ぶ。止めてくれ、とそう懇願しているようにも聞こえた。それだけ睡眠の邪魔をしてはならないのだろうか。
だがその鍵は寝室側から掛けられるようになっておらず、リビング側から鍵が閉められるようになっている。これでは中に入った者が誰も入れないように鍵を閉めることは出来ない。逆に、中に入った者を出さないようにするのなら、間違いではないが。
「……下がれ!」
私がドアノブの鍵の部分に触れようとした瞬間、襖さんは何かに気付いたように言葉を発する。それとほぼ同時に、扉の隙間部分から突如として鋭い何かが飛び出し、私は跳び退く。
それはまるで太い浅黒い針のようなものだった。部屋の内側から差し込まれ、そこからまるで力任せに扉の鍵をこじ開ける。
歯の隙間から吐息を出すそれは、足音を立てながら暗闇の中から出て来て、首を持ち上げるとくるりと辺りを見渡した。その姿はまるで動物の様に、鼻を動かしていたり、その場で唸って見せる。
「襖さん……」
「大門、五型の吸血鬼を目視で確認した……ああ、予測通り息子の方だ……!」
私の問い掛けに、襖さんは片耳に着けているインカムに手を当てて、そう答える。
それは確かにヒロと同じ人型だった。だが人間の輪郭のようにも見えるが、幾分かそれに逸脱しているようにも感じる。
前屈みになり、まるで動物の様に突き出した顔。鋭い目つきに、その口には剥き出しの歯茎に、尖った牙のような歯が見える。上半身は筋肉で膨れ上がり、下半身は逆に細く引き締まっている。その手と腕は筋肉の塊のようで、指は鋭利な浅黒い爪のようなものに変化していた。
上半身と下半身でバランスが取れていないようにも見えるが、逆にそれが、この生き物として当たり前で、正しい形にも見える。
私は肩から長袋を下ろすと、両刃剣を取り出す。同時に襖さんが銃口を吸血鬼に向けると、増井が叫び、邪魔するように銃を持つ腕にしがみついた。
「待ってくださいッ! ヒロは! 息子はびょ、病気なんです!! 深夜になると時折――」
「寄生虫だ」
「えっ……!?」
そんな増井に襖さんは驚きも、振り払いもせず、ただ淡々と言葉を並べる。
「病気じゃない、原因は寄生虫だ。人間の脳に寄生し、変えてしまう。そしてお前の息子が発症している症状は五型と呼ばれるものだ。五型は他の症状よりも特殊で、感染者に自覚症状が一切ない。それは他の型よりも蟲が非活性化状態だからだ。これにより、感染者は肉体にも精神にもなにも影響を受けない……つまり寄生されているのに関わらず、何一つ症状が出ない。だが、この非活性化状態は日中だけだ。感染されている人間が深夜、休眠状態に入ると他の型同様に活性化を始める。活性化した寄生虫は他の型とは違い、外観にも明らかな変化を与え、宿主の意識とは関係なく動き出す。そうだな、夢遊病のようなものだ……それも、殺人癖がある」
お前もよくわかっているだろう、とそう付け足す襖さんに、増井は何も言えなくなっていた。
「今回の殺人犯、どこの監視カメラにも映ってなかった。つまりは建物の屋上や地下を通って、何らかの方法でカメラに映らないように移動したか、そもそもカメラに映ることなく犯行現場を行き来できる人物のどちらかだ。後者ならば簡単だ。監視カメラに映らず、犯行現場周辺に住んでいて、被害者と接点がある者を探せばいい。何よりも今回の犠牲者の損傷具合。五型にしては遺体が綺麗に残り過ぎている。なによりも歯型だ、成人している者には小さすぎた」
「……襖さん、どうします?」
襖さんから離れない増井を横目で見て、いい加減引き剥がした方がいいかと私は尋ねる。
話しを聞いて、信じられない物を見るかのように増井の表情は歪んでいて、身体に力が入っていない。だが理解できていないわけではなく、それも相まって、そんな表情なのだろう。
今はしがみついていると言うよりは寄りかかっている感じで、襖さんの行動を阻害している。眼前に吸血鬼がいる状態でそれは問題だ。
「こっちは俺がやる。そっちは任せた」
「はい……わかりました」
私は数歩、歩き出す。すると吸血鬼は辺りを見渡すのを止め、フッと私と目が合う。すると先ほどまでと打って変わり、三回ほどだろうか、唸って見せるとまるで探し物が見つかったかのように大きく吠える。
五型は見知った者しか襲わない。探し物、つまりはそれに該当する者。そしてこの状態、それが私だと言うことだ。
だがこの吸血鬼と出会ったのはこの前の一回きり。だと言うのに『見知った者』と認識されていると言うことは、それだけこの吸血鬼が私の存在が印象的だったと言うことだろうか。
「グオァァッ!」
吸血鬼は軽く身を屈めると、そのまま真っ直ぐに私に向かって来る。近場のソファーや、邪魔になるモノも関係なく、それらを文字通り弾き飛ばしながら真っ直ぐ襲い掛かる。
弾き飛ばされた物が宙を舞い、壁に激突しては騒音を奏でる。ガシャンと、その一つが天井の電球を破壊して部屋の明かりが一瞬にして破壊される。暗闇へと包まれる中、吸血鬼が振るった爪に両刃剣を構える。
「ッ――!」
爪が両刃剣の刃に弾かれた。だが、その腕は――もしかしたら前足と言った方が適切かも知れない――そのまま刃ごと押し出し、爪を突き立てた勢いのまま腕を振るう。その衝撃を受け止めようと、武器を放さまいと柄を握っていた私は自分の足が地面から離れるのを感じ、眉を潜ませた。
どんなに力があり、それに自信があってもその力を振るうためには地面に足を着け、踏ん張らなくてはならない。もしくは何処かに身体を固定して、そこを軸にするかだ。
吸血鬼が身を屈めていたこともあるのだろう。振るった腕が斜め下から上へと振り抜けたことにより、その衝撃を受け止めた私の身体は打ち上がった。
私の身体は振り払われたようにリビングと店を仕切る布を引っ掛け、そのまま店の方に押し出される。並べられた服や物を掻き分け、ガラス張りのドアをけたたましい音を立てながら突き破り、私の身体はドアを出た直ぐに壁に背中が叩き付けられる。
両刃剣を構えた、爪を受け止めた態勢のままだった身体が、重力に引っ張られて足が地面に付く。ふと粉々になった店に視線を向けると、その暗闇の中から二つの光が見えて、感じたことのある感覚が強く身体に刺さる。
私は横に転がるように跳び退くと、店の中から物体が弾丸のように飛び出した。私が先ほどまで叩き付けられた壁に吸血鬼はその鋭利な爪を突き立て、壁を砕く。吸血鬼は壁に爪を突き立てたままゆっくりと避けた私に顔を向けると、喉を深く鳴らす。
そして勢いよく壁から爪を引き抜くと、顔を突き出し、歯茎を剥き出しにしながら威嚇するように牙を鳴らす。
「……獣が」
私は屈めていた身体を持ち上げて、足を肩幅に広げ、両刃剣を構え直す。そしてゆっくりと横へとあるこうとしたが、出した足先と肩が直ぐに壁にぶつかり、足を戻す。
路地と言う狭い幅の中、剣を構えた状態では既に路地の横幅の大部分を使ってしまっていた。いつの間にか、出来る事は前に進むか、後ろに下がるかの二択へと追いやられていた。
「なら、どうする……」
柄を握る手に力を入れて、横に向けていた足先を前へと向ける。することは一つ。先手は打たれたが、次は私の番だ!
相手よりも早く駆けだした私はその狭い路地を気にすることなく、剣を振り上げる。そのまま相手の肩口から脇下に沿って両刃剣を振り下ろした。
だが吸血鬼は退くことはせず、その足を持って飛び上る。私の剣は空を切り、吸血鬼はそれを嘲笑うかのように私の頭上を通り過ぎる。
飛んだ、だが落ちて来る。先ほどの私と同じように、足が地面から離れたのならば、その次には重力に引っ張られる。いくら吸血鬼とは言え、重力に逆らうなどと言うそんな芸当は出来ない。
私は空を切った剣先を止めることはしなかった。そのまま体を捻り、振り抜くよりも大きく私は両刃剣を振るう。刃が壁へとぶつかるも止めない。建物の壁をそのままえぐり取り、私の後ろへと振り切る。後ろに着地する、吸血鬼目掛けて。
貰った――!
刃先が壁を全て切り裂いて、私は勢いのまま振り抜く。次の瞬間には肉を切る感覚と、生暖かい鮮血が辺りを染め、私の視界が奪われる。
「……ッ!?」
だが、私を迎えたのは切る感覚でも、生暖かい液体でもない。剣は同じように空を切り、夜風の身を切る寒さだけが私を撫でた。
いるはずの吸血鬼がいない。何処に消えた、もしかして取り逃がしたか。そんな感情が湧きだしそうになった時、カラリと足元に何かが転がった。
自然と視線が下がり、見てみればそれは壁の、コンクリートの欠片だった。まあ、今さっき剣で壁をえぐったのだから、その欠片が辺りに飛び散るのは仕方のないことだ。
だがそれが続けて、一つ、二つと転がり始めると、私は夜風とは違う、刺さるような感覚が貫く。
「上ッ?!」
破片が落ちて来る、頭上へと顔を上げると、そこには二つの光をちらつかせた獣が宙に止まっていた。気のせいだろうか、その口が笑っているようにも見えた。
落ちて来ない!? どうやってッ――?!
構えるよりも先にその現状に疑問に思い、思考が奪われる。だが瞬間的に私は気付いた、吸血鬼の両爪が壁に突き刺さっていることに。そして理解した。吸血鬼は飛び上がった後、そのまま壁に爪を突き立てて、身体を固定したのだと。
普通の人間ならば、そんなこと思い付くのだろうか。だが相手は五型の吸血鬼、寄生されている本人の意思はない。ならばこの行動や、戦い方は寄生虫そのものの本質なのだろうか。
なりよりもこんな状況で、行動が読まれていたのかと、向こうの方が一枚上手だと、そんなことを考えたくはなかった。しかし、思考が巡って動きが取れない。
吸血鬼はまるで地面を蹴るかのように、壁を蹴り、私に飛び掛かる。頭上からの一撃、私はその行動を見届けた後にやっと身体が動き、構えようとする。だが、何もかもが遅い。
間に合わない――!
瞬間、風を切り、闇夜に混じった影が私と吸血鬼の間に飛び込んだ。
「たいした役者だな」
鈍い音がしたと同時に、吸血鬼がうめき声を漏らし、私を押し倒そうとしていた軌道がずれて私の横に着地する。いや、着地と言うには無様で、倒れ込んだと言った方が正しかった。
私は横に落ちた吸血鬼から距離を放すと、肩越しに後ろを見る。するとダリアが剥き身の刃物を持ってこちらに歩いて来るのが見えた。
その剣は私が持っている真っ直ぐな両刃ではなく、反りのある片刃。刃は鋭利で、私の剣が叩き割ると言う表現をするのなら、正しくダリアの剣は切ると言う表現が良く似合う。そう思うほど揺れる刀身が風を切り裂いていた。
ダリアは私を押し退けると、そのまま足元に転がっていた黒い細長い筒を拾い上げる。先ほどの事があったにも関わらず傷も、歪みも一つない筒、先ほど吸血鬼に投げつけられたのはこれだ。
「ダリア、来たの?」
「言っただろ? 僕の獲物だ。そもそもそう言う手はずだろ? それに、ルリチシャじゃ敵わないみたいだからな」
そう言いながらダリアは拾い上げた筒、鞘を私に押し付ける。私は胸に押し付けられた鞘を何気なしに握ると、ダリアは手を離し、二、三歩吸血鬼に向かって進む。
既に立ち上がった吸血鬼は唸り声を上げながら、狭い路地の間で辺りを見渡すようにその場で回っていた。まるで先ほど起こったことが理解できていないように、困惑しているようにも見える。
だがダリアが近付いたことにその動きを止め、その獣のような瞳でダリアを捉え、また別の唸り声を出す。
「次は僕が相手だ、こいつと違って……お前に勝ち目はない。僕は強いからな」
ダリアは刀を構え、その剣先を相手に向ける。するとダリアは構えた状態からゆっくりと吸血鬼に近付き、距離が縮まるごとに場の緊張感が増していく。その姿は手に持つ刀の様に、一歩一歩が鋭く、息遣いさえも静かだった。
すると吸血鬼はその圧に負けたのか、唸りながらゆっくりと片足を下げた。それを好機だと思ったのは、私だけではない。ダリアは一気に吸血鬼と距離を詰め、刀を振り上げる。
刀身に蒼白い閃光が一度だけ発し、その一瞬それが夜風を切った。吸血鬼は驚き、避けようと身体をひるがし、また距離を取る。だが、それをダリアは許さず、次の一刀を振りかざす。
避けきれず、防ぐための吸血鬼の爪と、ダリアの刃がぶつかり、暗闇に火花のようなものが弾けると何かが砕ける音が路地に響く。次に見えたのは、力なく飛んで行く一本の鋭利な爪だった。
――グギャアアアアッ!!
悲鳴にも似た声が聞こえたと思うと、吸血鬼は空高く飛び跳ねた。自然と私とダリアは追うために視線を上げると、先ほどと同じようにその爪を壁に突き立て、壁に張り付くのが見えた。
それを見た私は構え、ダリアもそれをわかっているように警戒する。すると吸血鬼は頭上から私たちを見下ろしながら威嚇すると、両腕の爪を交互に壁に突き立てて、ボロボロと破片を落としながら壁を上っていく。
「逃げるつもりかッ!?」
すると後ろから大門の怒号が響く。肩越しに見ると、大門が懐から拳銃を取り出し、吸血鬼に向かって発砲した。
銃声がして――とは言っても銃にはサイレンサーが付いていて、銃声とは程遠いが――弾丸が壁を上る吸血鬼に向かって飛んで行く。
その弾は確かに当たったように見えたが、まるで毛ほどにも感じていないのか、吸血鬼はそのまま建物の屋上へと姿を消す。すると代わりに当たったはずの銃弾が落ちてきて、見てみれば命中したことを証明するように先端が潰れていた。
「チッ、やっぱり銃程度じゃ奴らには傷も付かねぇか……おいっ病葉! 標的が逃げるぞ! たくっ、カマキリを見ないで、中で何やってるんだッ!?」
大門は店に向かって叫ぶ。だが反応はなく、襖さんは姿も、返事も返さない。
まさか何かあったのか、そう思ったが相手はただの一般人、襖さんに至ってそんなことはないはずだ。だが、一度様子を見に行った方がいいのだろうか。
いや、襖さんは私に『任せる』と吸血鬼の駆除を指示した。私はその期待に答える、答えないと――
壁、建物の高さはそれなりにある。吸血鬼、カマキリ共に身体能力が高いとはいえ、建物一つをジャンプ一つで飛び越えることは無理だ。
追い掛けるとすれば、階段か何かを通って普通に上るか、壁にある窓の小さな縁や剥き出しのパイプか何かに手を掛けて昇るか。どちらにしても時間が掛かる。
今から追い掛けても間に合うかどうか。だからと言って、逃げ出した吸血鬼を放っておく訳にもいかない。それをわかってか、大門は足を動かした。
「ダリア、今ならまだ間に合うかもしれない、追うぞ!」
「はいッ! おい、ルリチシャ、それを返せ!」
大門が駆け出し、ダリアはそれに返事をして走り出す。途中、ダリアは私に渡した鞘を返すように言う。そう言えばそうだったと、私は手に持つ鞘を見て、次に吸血鬼が昇って行った壁を見上げる。
何しているんだ、早く返せとダリアは催促するが、私はその壁から離れ、狭い路地の中で距離を取る。そして私は踏み出した。
足に力を入れ、地面を蹴る。跳び上がるも、想像通り天井の縁には手は届かない。私の視線は目指すべき場所ではなく、隣の壁へと視線を向ける。
「ここに……ッ!」
腕を振るい、ダリアから渡された鞘を壁に突き立てる。鈍い音は勿論、壁にヒビが入ると共に鞘の先が突き刺さり、私の身体が固定される。ぷらんと重力に引っ張れている足の下からは大門とダリアが見え、呆気にとられたように見上げていた。
刺さった鞘を軸にして、私はくるりと身体を鞘の上に持ち上げて、今度は鞘を足場にしてもう一度跳び上がる。そうすれば屋上の縁に手が届き、私はそのまま屋上へと足を着ける。
路地とは違い、広く壁に囲まれていない自由な空間。だが路地と同じように光がなく、横目で辺りを見るが、街灯や建物から洩れる光はない。こうして吸血鬼を駆除するため、秘密保持や感染の恐れを防ぐために周辺を閉鎖したからだ。
夜風を遮るものはなく、直接肌を撫で、時に切り裂いていく屋上。そこに吸血鬼の姿があった。闇夜にうずくまるようにして自分の手を、砕かれた爪を見ていた。
私が両刃剣を構えると、その音か気配に気づいたのか、吸血鬼は顔を持ち上げ私を睨み付ける。暗闇に光る二つの瞳。私はそれに真正面から睨み付ける。
すると、吸血鬼の向こう側から光が近付いて来るのに気付く。ゆっくりと分厚い灰色の雲から、月が顔を覗かせ、蒼白い月光が迫って来ていた。
――グゥルルルッ
互いの姿を闇夜から浮き彫りになる。月光に照らされた吸血鬼の、五型の姿は意外にも人間らしかった。それは別に、人型だからとか、そう感じる動作を見せたからではない。
そう思ったのは、ただ単純にその姿に、ヒロの面影を見たからかもしれない。
面白いように一陣の風が吹き、私の髪がはためく。
「『人類の脅威、若しくはその可能性を秘める存在は如何なる法に則らずこれを駆除することを認める』――公安6課の権利に従い、お前を人類の脅威になり得る存在と断定し、駆除する!」
私は走り出し、吸血鬼もうねり声を出し、飛び掛かる。
振り落される爪を避け、私は返しに斬り上げる。避けようとしたが、剣先が吸血鬼の胸を割き、驚いた吸血鬼は後退りして傷を手で押さえる。だが、傷は手を放したら既に塞がって、血さえ流れていない。
やはり首を落とした方が確実か――
吸血鬼の再生能力。切り傷程度では直ぐに治ってしまう。それに負傷したまま動き回り、血液に含まれる寄生虫をバラまかれることを考えると、一撃で済ませた方が効率がいい。
だからと言って、そうしなければ死なないわけではない。その証拠に、ダリアに折られた爪が再生していないのが良い証拠だ。
それに先ほどの一撃を避けて確信した。他の吸血鬼と違って、やはり戦い慣れている。そもそも刃物や拳銃などを向けられても気後れしないのが、既に他の型の人間の感性を持つ吸血鬼と違う。もしかしたら、今私は吸血鬼ではなく、寄生虫そのものと戦っているのかもしれない。
もう一度両刃剣を構え直し、踏み込む。刺し出される爪をかわし、剣を振るい、交差する。爪が私の眼の前を通り過ぎ、剣が首を捉えたかと思いきや、その首は一瞬にしてその場から姿を消す。
足を出し、後ろに回った相手を蹴り飛ばして態勢を崩れたところを狙う。短い時間の間に私と吸血鬼は激しく動き回り、その都度立ち位置は変わり、距離が縮まれば離れる。
「グォウッ!?」
するとその瞬間、押し飛ばした吸血鬼が不意にバランスを崩した。見れば屋上の端にいて、片足が屋上から踏み外していた。
私は剣先をその喉元に向け、そのまま走り出す。吸血鬼は踏み外した足を戻す。遅い、今度こそ貰った!
「ルリチシャ!!」
それを遮るように聞こえたのは、扉を開き、屋上にたどり着いたダリアの声だった。だが剣先は吸血鬼の硬い胸を突き刺し、そのまま私は突き進む。吸血鬼もそれを受け止めようと踏ん張って見せたが、襲って来る浮遊感、次に訪れるのは落下していく感覚。
落下中、吸血鬼の断末魔にも似た声と、風を切る音だけが私の耳に届く。そして私たちはそのまま地面へと叩き付けられる。
ただ衝撃に任せて着地と同時に私は弾かれるように転がる。それなりの衝撃はあったものの、転がった私はそのままの勢いで立ち上がる。
まだ止めを差し切っていないかもしれない。また逃げられたりしたら、今度こそ逃がしてしまう可能性だってある。次の一撃を決める必要が――
「あっ……」
見ればそこには剣に突き立てられ、地面に縫い付けられた吸血鬼の姿があった。
弱々しくうめき声を上げて、その手を自身に生えている剣を掴んでは抜こうとするも、剣はぴくりとも動かず、力なく腕を下ろす。それを何度か繰り返すも、次第に腕が上がらなくなり、声もか細くなっていく。
「グぅ……うぅぅ……」
すると筋肉がしぼみ、引き締まっていた足が人並みに戻っていく。爪は指になり、顔つきも幼くなっていく。
そしてそこには吸血鬼ではなく、増井の息子のヒロが寝転がっていた。勿論、吸血鬼の代わりに心臓に剣が突き刺さり、指の一本が元々そうだったかのように欠損している。
私は自分の身体を見た後、近付き、様子を伺う。何時も駆除した後は辺りも自分も血塗れで、今みたいに血の一滴も付着していないのが不思議に思えた。同時に相手が五体満足なのも、そう見ない。
そのまま剣の柄に手を掛けるも、ヒロは動かない。試しに、見下ろしたままつま先で放り出されている腕を蹴り払ってみる。
「止めろッ!」
すると腕に衝撃が加わったかと思うと、その勢いのままヒロから引き離される。
「止めろ……そいつはもう死んでいる」
「襖さん……」
驚いて、振り向き見てみれば襖さんがいた。何時の間にかに後ろにいて、私の腕を掴み、引っ張っていた。
私は掴まれた腕を見て、襖さんを見上げる。それを見て、何か悪いことをしてしまったかのように思えて「あの……私……」と言葉を零す。
「剣は抜かずにそのままにしておけ、血が流れても面倒だ」
だが弁解は聞き入れてもらえず、襖さんは語彙を強めてそう言うと、私の腕から手を離す。自然と私の視線は掴まれていた腕に吸い寄せられ、掴まっていなかった方の手で、その部位を触れる。
力強かったな――
そんな中、空から風を切って何かが落ちて来た。何か、と言ってもそれは先ほど屋上で見かけたダリアで、私と違って綺麗な着地を見せる。
ダリアは立ち上がると、ふっと私越しに吸血鬼を見て駆除が終わったことを確認すると、空を見上げた。
「病葉、やっとお出ましか! 一体何をやってた?!」
すると空から大門の声が聞こえる。見上げると、大門はダリアと違い屋上から顔を覗かせて、こちらに向って叫んでいた。
「増井は息子が寄生されていることに気付いていた。吸血鬼のことを知っている人間は口封じするのが規則だ……それとも大門、代わりにお前が人間の相手をするか?」
上に聞こえるように声を張り、襖さんは懐に隠している拳銃をコート越しに触って見せる。そう言われて、見下ろす大門はどうやら頭を掻くことしか出来ないようだった。
すると強い視線を感じて、私は見上げていた顔を下ろす。そこにはダリアがいて、一度吸血鬼の死骸に目を向けると、また私に視線を送る。
その尖った目が、細くなったように感じた。
「ルリチシャ、僕は言わなかったか? これは、僕の獲物だと」
ダリアはそう言うと、ゆっくりと刀を揺らす。私も同じように眼を細め、ダリアを見詰める。
「この仕事が、僕にとってどれだけの思いがあるか、お前は知ってるだろう……それを、お前は……」
大門には聞こえていないだろう。襖さんも、見上げていて気付いていないかも知れない。
私は横目で剣の場所を確認する。勿論、手元にはない。地面に突き刺さっていて、柄に手を掛けても、直ぐには構えられない。そもそも抜いては駄目だ、襖さんに言われている。
絶好のタイミング、か。私は何処か感心して、肩を竦めて見せる。
「……なら、どうする? 取り返す?」
「取り返す……? ふっ、いや、これから手に入れるんだ……ッ!」
構えを取らず――取る必要もないのかもしれない――ダリアは足を前に出し、私に向かって来る。そして刀を振り上げ、私に向かって振り落とす。
大門の声が聞こえた気がした。襖さんの声が聞こえた。私の手には剣がなく、構えを取れない。
夜風の冷たい風とは違う温かな感覚に包まれて、私の視界は塞がれた――




