第一話 ソシラの村へ(1)
楽しんでいただけたら幸いです。
アンナは歩く。歩けるところは歩き、そうでない場所は馬車を使って。
王夫婦より預かった小さな小さな姫。
命に変えても護るべき、大切な存在。
アンナは籠に寝かされた愛らしい赤ん坊ーーーーーー、ソフィー姫へと視線を下げる。
彼女はアンナの視線に気づいたのか、「キャッキャッ」と愛らしい笑い声を上げて、小さな小さな手を伸ばしてくる。
何も知らない、純真無垢なお姫さま。
アンナは堪らなくなって伸ばされた小さな手をソッと握り締める。
端から見たら若い母親との他愛ない触れあいに見えるが・・・・・・、彼女たちの間には血縁関係のないただの他人である。
それどころか平素なら気安く接する事も出来ない身分同士である(アンナは貴族出身ではあるが、貧乏貴族故に一侍女として王族に仕える身。かたやソフィーは王家の姫君)。
年が近いのもあってマリー・アントワネット王妃から直々に子息子女たちのお世話係に任命された縁もあり、アンナはその流れで生まれたばかりのソフィー姫の乳母として世話を一任された。
ちょうどその頃、ソフィーも子供を出産しており、赤子の乳やりに丁度良かったのであろう。
名前はローナ。ソフィー姫と同じ金髪の女の子だった。
しかし、アンナは己の子供を連れてはいなかった。
つまり、そういうことなのだ。
詳しくは語らないがーーーーーー、あの子の死が王家の役に立ったのならば、これ以上の名誉はない。
アンナは亡き我が子の面影をソフィーに重ねていた。
年もほぼ一緒であったし、ソフィーを我が子同然に育てようと、アントワネット王妃から託された際に強く決意したアンナ。
もう一度ソフィー姫の手を握りしめたアンナ。このような時世にも関わらず小さな命は懸命に生きようとしていた。
彼女の思いに応えるべく、アンナは大きく息を吸って吐いて深呼吸した。逸る気持ちを抑えつつ、外衣のフードを目深に被ったアンナは周囲の様子を注意深く確認する。
周囲に人気がないことを確認したアンナは、極力自然体を装って秘密の通路の出入り口から歩み出た。
秘密の通路の出入り口は街の外れに開通しており、その多くは人目のない裏通りに設けられている。
すえた肥溜めの臭いと残飯の腐った臭いが鼻につく。思ったより時間がかかってしまったようだ。
夜明けまでには街の外に出るつもりであったのに、仰ぎ見れば太陽はだいぶ昇っていて・・・・・・、そろそろ街の住人が起き出して来る頃合いだ。
それだけは避けなくては。
暴徒と化した市民に見つかってしまえば、何をされるか分かったものではない。
アンナは朝焼けに染まるパリの裏通りを足早に駆け抜けていく。小雨が降っていて少し肌寒いが走っている内に暖かくなる。
(ーーーーーー街から出るまでは馬車を使った方が良さそうね)
裏通りばかりを通るわけにはいかない。街から出るには大通りを通って正門を潜る必要がある。
衛兵たちは反乱市民の対処に躍起になっていて、正門を通過する民衆の検閲までには気が回らないはず。
それが徒歩ではなく、馬車なら尚更だ。
アンナは一先ず裏通りを抜けて大通りへと向かうことにした。馬車に乗るならば大通りに行く必要があるからだ。
曲がりくねった裏通りを抜けて、市民たちの主要街道である大通りへと抜け出たアンナ。左右には露店や店が建ち並び、あと少しすれば多くの人で賑わうであろう。
店の店主が開店の準備に勤しむの横目に、アンナは馬車乗り場を探し歩く。
鳥の囀ずりも今だけは忌々しい。
アンナの苛立ちは増すばかりであったが、三軒先の店前でようやく一脚の馬車が停車しているのを見つけ、安堵のため息と共に胸を撫で下ろす。
これで大丈夫だ。
アンナは外衣の襟をきつく合わせると、不自然に見えないように気を配った早歩きで馬車へと近づく。
近づいてみると、よく分かる。
この馬車は一般客向けの馬車であり、客車は貴族が乗る物よりだいぶ粗末な造りであったが、アンナは贅沢は言わなかった。
雨風が防げて顔が隠れるならば及第点である、と。
アンナは咳払いをして、馬車の行者へと声をかけた。
行者は中年の男で、白くなりかけた短髪とギョロリとした三白眼が印象的であった。
「・・・・・・ちょっといいかしら?」
「・・・・・・客か? 冷やかしか?」
冷やかしか、だと?
随分と愛想の悪い男だ。馬車に乗るべく馬車の前にいるのに冷やかしと疑うとは。
一体どういった神経をしているのだろう。
しかし、この際贅沢は言うまい。逆にこう考えよう。愛想のない男の方こそ都合が良い、と。
「冷やかし? まさか、客よ。ほら、その証拠に・・・・・・」
アンナは旅の炉銀にと贈与された金貨の一部を掌に乗せて行者の男に見せた。
やはり金の力は偉大なもので、愛想の悪い男の
顔色がみるみる内に変わっていく。
とはいえ、流石に貰ったお金は使いにくい。先ほど見せたのは実はアンナ自身のなけなしの給金だ。
これでも王宮に仕えた侍女。そこいらの市民の稼ぎよりは遥かにいいと自負している。
アンナは半ば強引に馬車に乗り込むと、行者の男に掌に乗せた金貨を餌に行き先を指定する。
「朝早くからで申し訳ないけど、私たちを可及的速やかに街の外に連れ出しなさい。欲を言えば最寄りの村まで行ってちょうだい」
お金ならいくらでも払うから、とも付け足して。
金に釣られた男は無言で鞭を振るい、手慣れた様子で馬車を走らせる。
朝焼けの街にカポカポと蹄の鳴る音が響く。ついで石畳の窪みに挟まるのか、時折車輪のがたつく音も大きく響く。
ガタン、ガタガタ。
車輪ががたつく度に体が前後に揺れる振動に翻弄されるアンナとソフィー。
大人のアンナですら嫌になるほどの振動なのに、当のソフィーときたら我関せずといった様子で朝寝としゃれこんでいた。
流石王族の姫君。
この程度のことでは動じない豪胆の持ち主のようだ。
まぁ、下手に泣かれるよりは都合が良いのも事実だ。
アンナは申し分程度に設けられた小窓から、朝日に染め上げられた街の様子を見る。
この街の活気に触れるのも、景色を見るのも、これで最後だ。
そう思うと名残惜しいものがあるが・・・・・・、私には護るべき大切な存在がいる。
名残惜しいなどという一時の感情に流されるわけにはいかないのだ。
アンナは窓から視線を外して、ソフィーの柔らかな金髪を生やした頭を優しく撫でながら、今後の予定をどうするか考えを巡らせるのであった。