外伝『刀と少年』
2014年に配布した補間話
かなかなかな、と。ひぐらしが鳴いている。
極東の夏の午後。水遊びをした後のような、気怠い空気が身を押し包む。
涼を取ろうと、屋敷裏の井戸へ向かったヨシトは、同じく居候の身の少年と遭遇した。
少年は、木刀を抱え、それを支えに背を丸めている。
「…こんにちは」
椿の木の根元に座り込んでいた彼は、こちらの近づく気配に、顔をあげ、のそりと言った。青い目は、赤く充血している。
彼は自分よりも十ばかり年下だが、濁った目が彼を実年齢以上に老けてみせた。
「それは観賞用の木だ。根が傷む。日陰で涼むつもりなら、そこになさい」
そこ、と生け垣そばの縁台を指さした後に、ヨシトは井戸水を汲み、頭からそれをかぶった。
井戸水は冷たい。熱を持った肉にひやりと浸みる。
もう一杯組むと、まだぐすぐずしている少年めがけて、容赦なく水をひっかけてやった。
「あ、」
「二之旗本の暑さを舐めてはいけない。涼むなら、適切に」
水をひっかけられた少年は、ようやく立ち上がった。
首都風の衣服は目立つからと、着せられた二之旗本の着物は、まだ彼になじんでおらず、どこか不釣り合いだ。
水をしたたらせ、少年が縁台に座った。木刀はそこに立てかけている。
「頭は冷えたかな」
「お手数おかけました」
「言いたいことがあるのなら、言いなさい。俺は聞く。
今は、きみと同じ客分でもあるから、みなに言いづらいことも言えるだろう」
物干し竿にかかっている手ぬぐいを二本取り、それぞれ分け合って、頭や顔を拭く。
「――師範が。終の盾の剣は弱いというので、つい、かっとなって口答えを。
そのまま二、三日、道場に来なくてよいと放り出されました」
老人の声が、そのまま耳に蘇ってくるようで、ヨシトは苦笑した。
「あの人は、道じゃなくて術の人だからなあ。剣士としては強いが、指導者としては疑問が残る」
「ドウ、ジュツ?」
「礼儀作法や精神修練よりも、実際の強さをとるということだ」
そうですか、と。少年は、ぼんやり前を見た。
生け垣と屋敷の間、中庭には観賞用の樹木が様々植えてある。百日紅の白い花が、重たげな熱風に揺れていた。
「……実を言うと俺も、あのじいさまのところへ剣を学びに行っていたのだが、どうも性格が合わなくて。弓術に勤しんで、剣をさぼっていたら、破門にされた」
「はあ、」
「結局なるようにしか、ならんものだよ。
二、三日来るなと言うならどうだろう。これから、俺と、外歩きに出かけようか」
「ヨシト殿と、ですか……。しかし、祝言前の婿殿と遊びに行っては御前さまに叱られます」
「今はまだ客分だ、筆頭家老ダメ次男。先代の喪が明けても、まず、しばらくは客分だろうなあ」
ヨシトは膝を叩いて、立ち上がる。
「必要な荷を取っておいで。元老と御前には、俺からお話しておくから何も心配しなくていい。では半刻後に、門前でな」
そら行け、と背を叩いてせかすと、少し明るくなった様子で、少年は、はいとうなずき、駆け去った。
それを見送ると、ヨシトもまた立ち上がる。
着物の裾を絞って、水気を落とし、そのままゆっくり歩き出した。
直接の主君と、いずれ妻になるはずの姫から暇をもぎ取り、門前へ向かうと、スヴェンは木刀の先に風呂敷包みを下げ、旅支度で待っていた。
腕には霊宝の盾をくくりつけている。
本人は喜び半分、不安半分の顔で珍しく、そわそわと落ち着きがない様子だ。実は、こちらが彼の素なのかも知れない。
「じゃあ行こうか」
門番に声をかけ、二人そろって屋敷の外へ出る。
「ところで、行く先を聞いておりません」
「今日は、町を通り抜けるだけで終わってしまうな。明日、刀工の所へ行って、見学」
「はあ」
「俺が提灯を持つから、後からついといで。道なりには行くけど、背後の用心は、まかせた」
「…はい!」
実際、そのまま町中を歩くうちに、日が傾いてしまった。
陣屋、武家屋敷を過ぎて、商店や民家の多い通りを行く。水路で、げーこげーこと蛙が鳴いた。
暗くなるにつれ、提灯の光や、民家の障子越しの光が鮮やかに映える。
「なんだか、ほっとしますね」
町の様子を見て、少年が感想をもらす。
「人が、たくさんいる、という感じがします」
「そう?」
特に耳をすまさなくとも、板塀や漆喰の向こうから、笑い声や子供の歓声が聞こえてくる。
「こうして生きている人が多いというのは……素晴らしいことです」
声が急に沈んだ。
廃都と化した首都の惨状を思い返しているのかも知れない。
「ああ……あれは……酷かったなあ……」
ヨシトもまた、思い出す。
先代元老の決意、最期に何かがプツリと切れ、根業矢の旗を射落としたのは他の誰でもない、自分だ。
――沈思無言のまま間もなく、町境の木戸番小屋までやって来た。
番小屋の近くには朝を待つ人の為の宿が幾つかあり、そこで一部屋とる。
ぐうぐうと腹の虫が鳴る頃に、夕飯が運ばれた。
遅い夕飯には、かさ増しの大根が入っている。
味気ないなと、ヨシトが秘蔵の鰹節と削り箱を取り出すと、スヴェンが首をかしげた。
「それは、なんですか?」
「鰹節。知らない?」
「カツオブシ……ああ。母が、時々懐かしんでいました。伯父上のお屋敷でも、出ましたが、そうやって作るのですね」
「やってみるかい?」
「はい」
指ごと擦らないように注意して、鰹節削りをやらせてみれば、少年は、その硬さに驚いている。
「堅いですね。かちこちです」
「堅いものは長持ちするよ。便利だから、きみも持っておくといい」
「べんり……たしかに急所を狙えば人間一人くらい、撲殺できそうです」
「そういう発想はやめなさい」
「暗殺用の武器になるかも知れない」
「どうして殺人前提の思考なの。飯が不味くなる」
なんだかんだで、スヴェンは、あの老人に毒されているようだった。
翌朝一番に木戸を通り抜け、さらにもうひとつ町と木戸を抜け、川を越えると平地が広がっている。
田畑を通り過ぎ、昼は粗末な茶屋で簡単にすませ、ひたすら歩く。
「この辺りは、山野に緑が少ないですね。夏だというのに」
目を細め、遠くを見るスヴェンが、呟く。
「そうだね。――そら、あそこ。武器を作る職人が固まって暮らしている。御鍛冶町というんだ」
「オカジマチ、ですか」
「偏屈なのもいるから、余計な口は挟まないようにな」
目的の場所は、夏の暑さとは違う熱気に包まれていた。
むわりとする炎、白い煙、かちかちという音。
作業のための小屋は無数にあった。刀以外に、槍の穂先や矢尻を作っている職人もいる。
みな、神官のような衣服を汗水で湿らせ、忙しく立ち働いている。
気を抜き、ふらふら見学していると、不意打ちで、真横から噴き出した火の粉に驚かされることもあった。
四半刻、二人は一言も言葉を発さずに作業場を見て回り、休憩所でもある小汚い座敷に勝手に上がり込む。
「おや、次男坊」
焦げ茶の肌をした初老の男が、目を細めて、こちらに声をかけてきた。
「ご無沙汰です、村下どの。勝手にお邪魔していますよ」
「この子は、どちらの坊ちゃんで?」
「元老の遠縁の子だ。秘蔵っ子なんだよ」
「…ああ! フエ様のお小さい時に似ておられる」
"皇帝殺し"終の盾については、まだ誤解も多いので、スヴェンについては、曖昧に説明したのだが、古くからの職人は知っているようだ。
「いつ来ても、ここは暑いねえ。夏はなおさらだ」
「開戦しましたからね。この分では、秋も冬も暑いでしょうよ」
「……鉄は?」
「リョウ元老がお触れを出した頃でしたか。新しい鉱脈一本、山砂鉄の巨岩がふたつ、ごろりと見つかりまして」
「それは、こちらに天意があるということだな」
「ただ木がねえ。日頃、炭用の山野に植樹は、しているのですか。まあ禿げますな」
「自虐は、およしよ」
はっはっはと笑い合っていると、連れの少年が、あのう、と割り込んできた。
「刀の……真剣というのは、如何ほどの重さなのでしょう。私でも、扱えますか?」
静かで丁寧な声だが、その実、目の奥に興奮が垣間見えた。武器は男心をくすぐる。
鍛冶の町の筆頭責任者である村下職の男は、スヴェンを上から下まで見、首を振った。
「坊ちゃん、あんた、これから先、ぐんぐん背が伸びるよ。もし自分だけの刀が欲しいというなら、あと五、六年待ちなさい。あんたは絶対、手練れの剣士になるから、その時の背に合わせた最高のものを打ってやろう」
「……そうですか」
「がっかりしなさんな。手寂しいなら、お守りに、くれてやるよ。気休めにはなるか」
村下の男は、むしろから立ち上がり、奥から、抜き身の刀を持ってきた。
「若い連中総出で作らせたんだが、これがまた寸足らずのなまくらだわ、柄は粗末だわ、おまけに鞘まで失敗してるわで。こいつは融かすしかないと思ったが坊ちゃんの背を見るに、丁度良い」
「……いただいてよろしいのですか?」
「不要になったら、ここに持っておいで。刀は、絶対そこらに捨てたりしちゃいかんよ」
――村下から、なまくら刀を受け取ると、スヴェンは専用の布と風呂敷で何重にもくるみ、それを大事に抱えた。
その後は村下職の厚意により、夕食を馳走にあずかり、夜には休憩所の座敷に雑魚寝する。
職人の半分は自宅に戻ったようだが、半分は早朝からの作業のため、居残りだ。
どこもかしこも男臭く、いびきがうるさい。
「……ヨシト殿、起きていらっしゃいますか」
隣に横たわる少年が、こちらを呼んだ。
「うん」
「あの……ありがとうございます」
「うん?」
「色々と、考えます。こちらの製鉄の、刀鍛冶の技術は、すごいですね。どうして、この技術は、国中に広まらなかったのでしょう。そのほうがきっと国全体が強く在れたのに」
「そうだなあ……。鋳造よりも、うんと、手間暇がかかって、一本作るのにも大変だということや、」
ヨシトは、闇の中、神を祀る棚がある方角を指さした。
「魂とも言うべき技術だからこそ、流失をいやがるのかも知れないね。上辺だけの猿真似で、粗製濫造されては、たまらない。
職人は手を抜いた仕事を本当にいやがるし、見下す。だらしのないことだと考える。二之旗本の人間は、何事も徹底しないと、気が済まないから。というのが、俺の考えかな。いや、剣術を途中で止めてしまった男が、何を言うかという話だが」
「いえ。ヨシト殿の弓の腕前は、見知っておりますから」
人間には向き不向きがあるのでしょうと、少年は付け加えた。
「――スヴェン。あのじいさんがいやなら二之旗本の剣は諦めるか? 俺で良ければ、弓の手ほどきをしよう。他の飛び道具も得意だよ。棒手裏剣とかね」
「いえ。私は、まず剣を修めます。そう決めました」
彼は、ここから見える夜空を見上げて、言った。
「私の半分が、二之旗本の血でできていることに因縁を感じます。そして、こちらの剣術と刀を我が物にすべきだと思うのです」
「師範の罵声に耐えられるか?」
「終の盾は、私の根源ですから、また口答えして、暇を出されるやも知れません。それでも、私は学び修めるために戻ります。何度追い出されても、戻るでしょう。
私には救うべき方と、殺すべき輩が、在る」
そうか、とヨシトはうなずいてみせた。
「目的ではなく、手段だというなら、逆に、あのじいさんの指導は向いているよ。あの人の剣は自分を律する道じゃない、ただひたすら他人を殺すために特化した術だ」