四角の空
空に形はないのだと、死んだばあやが言っていた。
けれども、僕の空は四角だった。
生まれてから、ずっと、四角のまま。
◇ ◇ ◇
ケセド暦2012年、三月。
僕は満年齢で12歳、数え年で13歳になっていた。
13歳。大昔でいったら、おとな。
けれども今の僕ときたら、どうだろう。
栄養不足で背は伸びず、関節の骨が目立つほど痩せて、おまけに、ねえやたちのおさがりの服を着ている。
僕ら家族を監禁する施設、通称・牢屋敷に駐在する兵士いわく、姫皇子。男として、皇帝として、実に不名誉なあだ名をつけられたものだ。
僕の摂政たちは、とりあえず食料や医薬品さえあれば、事足りると思っているようだ。ある意味、真実だが、今年の僕にとって被服は重要な意味を持つ。
皇帝家は代々、数えで十三歳になると、大元帥服という服を仕立てる儀式がある。それをやらないと正式な、大人の皇帝として認めてもらえないのだ。
「しかたない、か」
独りごちて、手に息を吹きかけると、鍬の柄を握る。
僕はたぶん、死ぬまで、ここで女の子の服を着て、名ばかりの皇帝をしているのだろう。
なにも植えるあてのない畑で、鍬を振り上げ、振り下ろす。刃に強めの手応えを感じた。
ばあやの骨を掘り当ててしまったようだ。埋め直して、両手を合わせる。
「……僕たちの、ごはんの養分になってくれて、ありがとう……」
ばあやのおかげで、連作障害はいくらか改善され、最低限の根菜を確保している。文字通り、ばあやのベラは命の恩人だった。
問題は今年なんだ。
僕の、何人目かの摂政は今年、野菜の種や苗、種いもを手配するのを忘れてしまったらしい。残念ながら我が家の畑は、翌年分の種や種いもが採れるほど豊かでは、ない。そして、ねえやの計算によると、初夏には、食料がすっからかんになるということだった。
さて、どうしたものか。
――どうしようも、ない気がするけど。
ぐるる、と。おなかが鳴った。
対照的に、監視兵たちの住む棟からは、酒宴のにぎやかな声が聞こえる。
彼らに頭を下げれば、食物や必要物資のいくらかは恵んでもらえるかも知れないが、それは、ねえやたちから禁じられていた。
摂政から、必要な物として受け取るのは、いい。けれども、恵んでもらうのは、駄目だと。
正直、そこにどんな違いがあるのか。僕には、わからない。
僕は本当にこの国の――ヨルムンガンド帝国の皇帝なのだろうか。
実は、なにか、とんでもないことをしでかした悪党の遺児ではないのか。
……そんなことを言うと、ねえやが泣くだろうから、絶対口にはしないけれど。
「マルセル、ごはんよ。あがってらっしゃい」
中庭に面した窓から、一番上の姉オリンが、僕を呼んだ。
鍬を片づけ、前掛けを取り外しながら、屋内に通じる扉を開ける。
口の字型の牢屋敷。僕らの住む北棟は、中庭に面してのみ窓もしく扉がある。部屋は続き間の三部屋だけ。外界へ通じる場所は一切ない。つまり完全密閉状態だ。外界へ出たかったら監視兵のいる棟を抜けていくしか方法はない。
二番目、三番目の姉たちは、古い家具を解体して、薪を作っていた。
リンねえが、火から鍋を下ろす。
中身は、いつも通り、豆と塩漬け野菜の汁物だった。
「体調は、どう?」
「悪くないよ」
あいかわらず痩せて、小柄だが、鍬を振り回すようになってから、肺活量は増えた。
昔は喘息の発作がひどかったけど、最近は落ち着いている。
さじを動かしていると、家具の解体に飽きたタムねえ、マリねえが食卓につく。
「おつかれさま、はい、どうぞ」
双子は、そろって、いただきますと手を合わせた。
しまったな、ぼく、やってない。
あわてて双子のあとに続く。
「マルセルは皇帝なのだから、先に、おさじをつけていいのよ」
リンねえは、そう言うけど、家族同士で序列を決めるのもどうかと思う。
「……これ、どこの風習だっけ」
「ばあやの、息子さんの、お嫁さんの実家ね。東方の、二之旗本」
リンねえが寂しそうに笑った。
「私ね、ひと目ぼれだったのよ。ばうやのお孫さん。最後に犬呼ばわりして、謝る機会を永遠に逃がしてしまったわ」
「マルセルの守役になる予定だったひと?」
「ちょっと、うっすらおぼえているよね?」
「「――犬みたいなひと!」」
同時に思い出したのか、双子がいっせいに叫ぶ。
タムリンとマーリンは、顔も声も思考も、よく似た双子だ。
「二人がからかうから、ついかっとなって……。本当に子供だったわ、わたし」
それは仕方ない。いくら、しっかりしていても、リンねえは当時十二歳で、双子は六歳だった。僕なんて、生まれて三ヶ月くらい。全員、子供だった。
「休憩したら、お勉強だから、マルセル」
「はぁい。ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
「「ごちそうさまでしたー」」
家族四人、そろって手を合わせる。
ねえやたちが片付けを始めた。
食後に水を一口飲んで、窓から外を眺める。
太陽は真上にあるが、あいにく雲越しで、日の光は弱い。
てきぱきと片付けを終えたリンねえが古い本を開き、手招きする。
双子は、日光浴がてら、中庭へ出て行った。といっても、寒い。二人とも小さな悲鳴をあげている。
もうそろそろ春なのに、気温は上がらない。それでも日の光をきちんと浴びないと、体に悪いと、ばあやは言っていた。
「よそ見しないの」
リンねえが手を叩き、注意を引く。
「さあ、マルセル。昨日は、どこまで?」
「皇子が、大元帥服つくって、皇帝になる儀式のことまで」
「そう。今日は皇帝が負うべき物、やるべき事について」
「うん」
「まず皇帝は、霊宮を奉り、慰撫すること」
「れい、みや……」
「白宮殿の地下に棲まわれている水神だそうよ。霊宮が、地下水を清浄にし、地表を温め、その結果、天候も安定させるの。曇っていうのは、水が蒸発する時の煙みたいなものだからね」
「そうなんだ」
「もう十二年、首都に皇帝が不在だわ。霊宮のお世話をする文官、神官たちも処刑されたようだし……。そのせいか、この建物の外では内乱の他に、冷害、雹害、落雷による飢饉で農民の一揆が続いてるらしいわね」
「……みんなが困っているなら、僕たちを外に出してくれれば、いいのにね」
窓越し、空を見上げる。
空に形はないのだと、死んだばあやが言っていた。
けれども、僕は、ここから見上げる四角の空しか、知らない。
「それから、外国との戦争、対戦ね。皇帝というのは、我がヨルムンガンド帝国における尊称だけど、世界的には王将というのよ。王にして将軍という意味」
「おうしょう」
「昨日言った、大元帥服の作成、お披露目というのは成人式というよりも、戦争責任やその覚悟をしめすものよ」
本をめくり、該当箇所が、指先で示される。
「ここ、音読してみて」
リンねえから本を受け取り、姿勢を正す。
「『戦は、まず霊宮に詣で、宣誓すること。しかるのち、対戦国へ使者を遣わす。この時、なんらかの形で、王将の血を一滴以上、届けること。これが正式な、国同士の戦い、対戦、戦争の手順である』」
「続けて」
「『対戦国との間に、開戦日時を取り決め、その日時までに、海上を移動して、たがいの島国を接岸させ、国橋をかけ合うこと』」
「こっきょう……国橋は、わかる?」
「島国同士が接岸すると、自動的に架かる橋、だっけ」
まったく、へんてこ奇妙だ。一国家が、海をあちこち移動したり、他の島国と連結するなんて。僕には想像つかない。
「えー。『王将は、常在戦場。なぜなら敵将の首をとるか、敵国民全員を、霊宮に生け贄として捧げるまで終戦したと見なされないからである』」
胃がむかむかしてきた。
「霊宮って、神様なの? 本当は悪魔ではないの?」
「生け贄のこと? ……実際どうなのかしらね」
「この国の国土か広いのって、ご先祖さまがたくさん戦争して、そのたびに生け贄を差し出してきたからでしょ?」
本には、霊宮は生け贄を食べて、敗戦国の土地と自国をくっつけると書いてある。
ヨルムンガンド帝国は今、現在、世界一の国土面積を誇っているらしい。世界一の広さ……。牢屋敷という小さな世界に住んでいる僕には、想像がつかない面積。
「効率よく戦争をしたとも言われているわね。まず始祖帝ハラルが、ベルゼルクル熊祖国と対戦し、彼らを兵士として迎えた。旧ベルゼルクル人は、熊の獣人で、非常に優れた兵士でもあるのよ」
獣人……。たしか人間と獣の半々みたいな姿の人たち……。
「ベルゼルクルの協力と、戦上手が幸いして、時代時代の大国と戦い、勝ち続けた。終の盾を除く、九の元老家系は、かつての敗戦国の王将の縁戚よ」
「じゃあ九回……いや、十回くらいしか戦争は、なかった?」
「お家取りつぶしや、吸収合併があって、今の数に落ち着いたから、もう少し多いわね」
「戦上手って、人殺しがうまいってことでしょ。なんか、いやだな、そういうの」
ばあやが老衰で死んだ時、とても哀しかった。そういう死が、何十万とあるのだ、戦場には。
「海上を自由に動き回れる島国なら、永遠に戦争から逃げ回ればいいのに」
「……ねえ、マルセル」
リンねえは僕から本を取り上げ、じっと目を覗き込んできた。
「戦争は、いやなことね。できれば、避けたいわ。だけど、人間には、戦わなくてはならない時が、たしかにあるのよ」
「……そういうもの?」
「そういうもの」
「………………」
「終の盾の一族は、皇帝殺害の汚名を着せられた。彼らは真実を証明し、私たちを解放するために戦って、全滅したそうよ……。うまく立ち回れば、生き延びられたかも知れない。けれど、そうしなかった」
彼らを愚かだと思うかと訊かれて、僕は考える。
終の盾……ばあやの家の……。
「……わからない。ただ彼らにとって、命をかけなくてはならないほど、大切なことだった」
「そう。結局、理由いかんなのだけど……命をかけ、必死に戦ってきた人を嗤うことなんて、できないわ」
ねえやは、僕の頭をよしよしと撫でた。
「いい子ね。中道の覇は、代々の皇帝が目指した道よ。あなたが首都に戻ったら、みんなの意見を聞いて、偏ることなく、平らかにする皇帝になってね」
そんな皇帝に、僕はなれるのだろうか。
いや……。そもそも僕の摂政たちは、僕をここに閉じ込めて、何をしているんだろう。
摂政というのは、皇帝があまりに年若い時に、限りなく代理に近い存在なんだけど……満十二、数えで十三、いちおう成人と見なされる僕。従来の慣習にならっているなら、そろそろ摂政政治を終わらせてくれたって、いいはずなのに。
「リンねえ、雨! あめー!」
「洗濯物、洗濯物が濡れる!」
双子が中庭で騒ぎ始めた。
「曇ってきたと思ったら……マルセル、今日のお勉強は、ここまでにしておきましょう」
そして、リンねえも中庭へ飛び出してしまった。
お手伝いしようと、僕も椅子を蹴ったところで――
「……ぐ……うぇっ、」
その場に膝をつき、片手を床につく。すいた手で、口を押さえた。
……しばらく発作がこないと思ったら、これだ。
のどが、肺が裏返る。肋骨がきしむ。
空気、空気が欲しい。
その空気を吸って、さらに咳き込んだ。
おおげさと思えるほどの呼吸音。
はやく……ねえやに気づかれないうちに、寝室へ行こう。
これ以上、心配させちゃだめだ。僕は、きょうだいのなかで唯一の男なんだから……。
咳の反動で、全身をひくつかせながら、続き間の奥の奥へと進む。
「ひっ……ひいぃぃ……ひゅーっ……」
寝台に倒れ込み、体を丸くする。
ああ、昼間でよかった。
夜の発作が一番怖い。朝を迎えることなく、死んでしまうのではないかという、絶望感にとらわれるから。
霊宮……。首都の白宮殿にいるという、神さま。
もし僕が本当に皇帝なら、僕の望みをかなえてください。
この咳を止めてください。
ねえやと僕を、ここから出してください。
どうか、どうか……。
………………
…………
……
いつの間にか眠ってしまったらしい。
馬のいななきで目が覚めたら、部屋は真っ暗だった。
牢屋敷の西棟のほうから、扉が開閉する音、激しい足音が聞こえた。
起き出して、手探りで灯りを点けた。
手提げの角灯を点けると、すぐそばの円卓に水差しと栗が数粒置いてある。
僕が寝てたから、夕食時に起こさなかったんだろう。
いつの間にか咳は止まっていた。肋骨あたりが少し傷むけれど、この程度で、貴重な食べ物を残す気にはならない。
遅い夕食の最後、水差しの水を口に含み、がらがらとうがいしてから全部飲み込んだ。
気持ちが落ち着いたので、窓の鎧戸を細く開ける。
西棟だけでなく、南棟や東棟も明るかった。
こんこん、と。音がして、続き間の扉か開いた。
寝間着姿のねえや三人が、不安を隠さない顔で、入ってくる。
「起きてた?」
「うん、今ね。栗と水、ありがとう」
「よく寝ていたから、起こさなかった」
寝台の上、リンねえが僕の隣に座って、僕の頭を抱きかかえてくる。
「……いやな感じがするわ。今日は一緒にいましょう」
「夜中かあ……なんだか、十二年前の夜みたい」
「とうさまとかあさまが死んじゃった夜みたい」
タムねえ、マリねえも同じように腰かけて、つま先を見つめている。
たしかに胸がどきどきした。いやな感じのどきどきだ。
思わず、リンねえの胸に顔を押しつけ、腕を回して、ぎゅっと抱きつく。
リンねえの心臓も、不安で、どきどきしていた。
「マルセル」
リンねえが、後ろ頭を撫でて、ささやいた。
「ねえやとの約束よ? たとえ何が起きても、絶対あきらめないで、負けないで。あなたは、この国で一番強い男の子よ。あなたが負けてしまった時、あきらめてしまった時、この国は……この世は終わってしまうのだから。ね?」
ばたばた、と。複数の、けたたましい足音と同時に、遠くの扉が開く音がした。
「どこだ、中庭か?」
「ちがう、奥の二間だ」
まもなく、この寝室の扉が蹴り開けられた。
古いちょうつがいがきしんで、千切れ飛ぶ。
「やあ、こんばんは。お姫さまがた」
やについた笑顔を浮かべ、監視兵が押し入ってくる。
隊長と呼ばれている男と、その部下七人。
「――その武器を納めなさい! ここは、九十九代目皇帝、マルセルの寝所です。すぐに立ち去りなさい!」
声を震わせ、それでも虚勢をはって、リンねえが警告する。
リンねえの恐怖を見抜いて、監視兵がどっと笑った。
「残念ですがね、一の姫さん。あんたら、もう用なしなんですわ」
「……どういうことか!?」
「そこの姫皇子さんが成人しちまったら、摂政政治の体裁が整わない。今、反旗を翻している三元老どもに対する切り札にならない。だから、ここで皇帝を廃して、国家体制を革める」
「そうしなくてはならないほど、摂政たちは国を荒らしたということですか」
「内戦も十二年だ。どっちの陣営も、息つく暇もない。だから、さっさと殺しちまえばいいんですよ。そうすりゃ幼帝奪還を旗に掲げた奴らは、旗を失って、ばらける」
「ばかげたこと……。そうやって目先の問題を一時回避しても、根本的な解決には、なりません。私たちを殺しても、国は荒れ続ける」
「でしょうね。しかしまあ、俺らの主人は、こう考えてるわけだ。皇帝を殺して、三元老の大義名分を奪えばよいと」
やがて痺れを切らしたように、監視兵たちが口を開いた。
「隊長ぉ、俺もうさあ、」
「どうせ殺すんだろう。最期に思い出つくってあげるか」
「死ぬ前提なら、いろいろ試すのも悪くないよな」
彼らの言葉に、ねえやたちの顔を引きつった。
「……や……いやあああああああっ」
リンねえが悲鳴をあげて、枕を投げつける。
隊長が、すばやく剣を抜き、枕を叩き落とした。
「そういや根業矢のくそじじいは、大変な子供好きだったそうですね。一の姫だけ、手元に置こうとしたとか、なんとか」
リンねえが半狂乱で、僕にぎゅうぎゅうしがみつく。
双子が、その辺に転がっていた棒きれをつかんで、前にかまえた。
「それ以上近づいたら殴るから!」
「リンねえに触るな! 殴るぞ!」
タムねえ、マリねえが威嚇する。
けれども万年栄養不足で、華奢なねえやたちが勝てるわけ、なかった。
兵士たちは、タムねえ、マリねえの腕をつかんで、床に引き倒す。
僕と、リンねえも、あっけなく引きはがされた。
そして――
「いやあああああああああああっ」
「――ねえやっ、ねえやっ……!」
僕は床を掻いた。背中に乗った兵士が邪魔で、動けない。
ねえやたちが泣いてる。
いやがってる。
苦しんでいる。
そして、にやにや笑い、あるいは呼吸を荒くしている男ども。
「はなして――はなせっ、はなせよぉ!」
手を伸ばす。
指先に、双子の持っていた棒きれが引っかかる。
それをつかもうとして、
「ぎっ、……ああっ」
鋲を打った軍靴が、手の甲を踏みねじってきた。手の甲にいくつか、浅く穴が開く。
「はっ! 女みてえな悲鳴だなあ」
僕の手を踏んづけた男が、げらげらと嗤った。
「女の悲鳴ってさあ、そそるよなぁ」
――僕が。僕が、なんとかしなくっちゃ。
ねえやの味方は、僕だけなんだ。
僕が、なんとかしなくちゃ。泣き寝入りなんて絶対いやだ。
……ちから……力が欲しい。
今、この背に乗っている奴を振り落とせる力。
僕の手を踏みねじる足を払いのけるだけの力。
リンねえと、マリねえ、タムねえを助ける力。
戦う力。
ねえやたちの泣き叫ぶ声が、だんだん静かになっていく。
なにかの音、殴打の音、鉄の匂い、血の匂い。
……手が痛くてしかたなかったけど、それでも僕は首をねじ上げ、男らをにらみつけた。
「ねえやをはなせよ!」
「ほらよ」
今度はあっさり返事されて、男たちは、手にしていたものをほうった。
ごとん、と。重い音をたてて、楕円形のものが床に落ちる。
リンねえと――目が合った。
歯の根が……合わない。がちがちと打ち鳴らされる。
『ねえやとの約束よ?』
『たとえ何が起きても、絶対あきらめないで、負けないで』
『あなたは、この国で一番強い男の子よ。あなたが負けてしまった時、あきらめてしまった時、この国は……この世は終わってしまうのだから。ね?』
歯の根が合わない。がちがちと打ち鳴らされる。
………………ああ、なんだっけ?
…………何を、するんだっけ?
……僕は、何者だった?
僕は……僕は……僕は、僕は、僕は……!
何もできない、無力な子供。
それが現実だった。
すぐそこにある棒きれすら、つかんで振るうこともできない。
ああ……それにしても、あいつら、なんでまだ、ねえやたちの体に馬乗りになっているんだろう。どうせもう動かないのに。ああして拘束する意味が、僕には、わからない。
「おーい、適当にしてけよー?」
監視隊長が、そいつらに声をかけた。
「全員、首だけは、きっちり塩漬けにして回収するって命令だ。気がすんだら、さっさと作業開始しろ」
床に這いつくばった僕の首の後ろ、冷たく、太い刃がかすめた。
「暴れんなよ? よけいに痛い思いするからな」
親切な忠告だ。ありがたくて、もう涙も出ない。
こいつらが喜ぶような悲鳴はあげたくないので、黙って歯を食いしばり、ぎゅっと目を閉じた。
そして斧を、振りかぶる、音が、し――…
………………
…………
……
「……こ、皇子! マルセル様!」
耳元でさんざん叫ばれて、ふと目を開けた。
見知らぬ男が、僕の顔を覗きこんでいる。
誰だろう……誰だっけ?
黒い短髪、きまじめそうな顔。
見たことのない服装で、腕には小さな盾をくくりつけている。
「だ、れ?」
訊ねると、男は一瞬、この世の終わりのような顔をした。
「今は二之旗本の元老、リョウの養子……スヴェンともうします」
二之旗本。
ばあやの、息子さんの、お嫁さんの実家の人。
「なんで……ここにいるの?」
「皇子をお助けに」
「……僕だけ? ねえやたちは?」
「それは、」
「僕だけ助けて……ねえやは助けてくれないの?」
「あの、皇子、」
「ねえっ!?」
格子窓からは日の光が射し込んでいて。
それでも、そこらに転がっている死体が。飛び散った血痕は告げている。
あれは夢じゃなかったってこと。
「どうしてっ、なんで――」
僕が、男に詰め寄った瞬間、壁を蹴る音がした。
スヴェンという人の胸ぐらをつかんだまま、そちらに目をやる。
「この程度の悲劇、この国では珍しくないんだけどね」
穏やかな、しかし剣呑さもある声。
まったく気づかなかったけど、前に扉があった辺りに、眼鏡をかけた男が立っていた。
眼鏡の男は、壁を蹴った足を下ろし、こちらに近づいてくる。歩くたび、後ろでくくった長い黒髪が、ゆらゆら揺れた。
「亢龍どの、おやめください、皇子はまだ、」
「スヴェン、彼は、もう皇子ではない。失礼だよ。きみは臣下としての分をわきまえるなら、陛下、皇帝陛下、我が君、マルセル様のいずれかで呼ぶべきじゃないか」
「は。それは、」
「俺は客分の帝師だから、別勘定だ」
「……はい」
スヴェンは、コウリュウという人物に対し、かしこまっている。
「あらためて、はじめまして。俺は今、正統派の軍師をやっていて、いずれ、きみの帝師にもなる予定の者だ。ギルベルドと呼んでくれ。亢龍とか十朋亀とか妙ちくりんなあだ名がついているが、どっちで呼ぼうとかまわない。とにかく、よろしく」
男が手を差し伸べ、僕をスヴェンの腕のなかから立ちあがらせた。
頭がぐらぐらして、よろけた拍子、ぼすっと男の腹に頭突きしてしまった。
「おっと……。黄泉返ったばかりだから、まだ魂も頭も、安定していないようだね」
「え?」
「金色の泉と、老婆を見た記憶は、あるかい? あるなら催眠術でも、なんでもかけて、封じておかないとね。彼岸の記憶や知識は、此岸に持ち込むべきじゃない」
よみがえった?
ダレが?
……誰が?
「亢龍どの! そんな矢継ぎ早に、」
「早くに教えておかないと、まずいこともあるだろうさ」
「………………」
「あのね、マルセルくん。俺たちが、ここに来たとき、きみは――」
ギルベルドというひとは、にっこり笑って、僕の頭に手を置いた。
「首を刎ねられて、死んでいたのだよ」