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夕凪  作者: 志茂 安芸子
9/10

9.呪縛

 彼女は、空を見上げていた。

 空に何かを見つけたわけでも、何を思ったわけでもない。ただ、ふっとごく自然に、魅入られるように、彼女の視線は朱色の空へと向いていた。

「エルナ?」

 優しい声に振り向くと、彼女を見つめている愛しい人の瞳がすぐ目の前にあった。

「何か、考え事でもしてたのか。」

「ええ。ねえ、ジン。わたくしは恵まれているのですね。」

 エルナはそっと恋人の肩にもたれながら、うっとりと囁いた。

「皆様は、とてもつらい思いをされてここへいらしたのね。でもわたくしは、とても恵まれておりました。大切にされていたのだと、今なら分かります。」

 彼女の言葉を聞いたジンの顔つきが強張ったことに、エルナは全く気付かなかった。

「……君は、ここへ来たことを後悔している?」

「いいえ。こうして、ジンと一緒にいられるんですもの。」

 彼女はただ無邪気に笑う。

「でも不思議ね。わたくし、やっと分かりかけてきましたの。生き方は色々だって。長いことここで過ごして、色々な人を見てきたからかしら。もしかしたら、ここではなく生きて、ジンと二人こうして笑い合える方法も、あったかも知れませんわ。」

「本当に……本当に、そう思うのか? エルナの両親も皆も、あんなに頑なだったじゃないか。だから俺と君は、他の道など無いと、ここへ来たんだろ。」

「ええ、あの時は。」

彼女の穏やかな瞳は、余計に彼の心を掻き乱した。

「あらジン、そんな顔をしないで。わたくしは、貴方と一緒にいられさえすれば世の果てだろうと地獄だろうと何処へ行ったっていいと、あの時そう言いましたでしょう。それだけの話よ。貴方と一緒なら、何もない暮らしだってどんな辛い生活だって平気です。もちろん、この夕凪での暮らしも。」

「エルナ、君は――」

「でもジンがそんな顔をするのでしたら、この話はおしまいにいたしますわ。ジンがいやな気持ちになったら、わたくしまで悲しくなってしまいますもの。」

 エルナは明るく笑って、傍らの愛する人の肩にそっと頬を寄せた。

「ね、またジンの好きな旅のお話をして。」

「エルナは本当にあの話が好きだな。」

「ええ。だって船のことを話している時のジンが一番楽しそうなんですもの。」

 無邪気な少女の笑顔につられるようにして、ジンの口元もいつの間にか緩んでいた。

「ほら、やっと笑ってくださいましたね。」

「……エルナには敵わないよ。」

 彼女の笑顔を見つめ、彼は静かにいつもの物語を話し始める。その穏やかな時間の中、乱れた彼の心に先ほど芽生えた影がゆっくりと頭をもたげ始めていた。


 まわりに人陰はない。声の届く場所にいるのは自分と相手、二人だけ。それを確かめてから、ジンは視線の先に佇む人物に声をかけた。

「よう、トモヤ。」

 背の高い青年はびくりと振り向き、ジンを睨むように見据えた。

「そんなびびった顔するなよ。よく会ってんだから俺の顔くらい覚えてんだろ。」

「……今日は、あの女の子と一緒じゃないのか。」

「エルナなら他の女たちと菓子を作るってさ。いいじゃねえか。たまには男同士、女には聞かせられねえ話もあるってもんだ。」

 ジンは近くの台にどさっと腰を下ろし、相手にも隣を勧める。トモヤは彼の顔を訝しげに窺ったまま動かないが、気にすることなく話を進めた。

「ここには慣れたか? お前がここに来てからどのくらい経ったかな。この界隈じゃ、お前が一番の新顔だったろ? さっきの娘はどうやら本来はこの世界の者じゃねえらしいし。」

「話ってそれか?」

「そう急かすなよ、世間話だ。愛想のない奴だな。」

 ジンは肩をすくめる。

「見た通り、この辺の連中はガキと女ばっかりだ。俺とお前は年もそう変わらねえだろ? 仲良くしたいだけさ。」

「……。」

「トモヤ、お前ここに来たときいくつだった?」

「二十五だ。」

「嘘だろ、年上かよ! 俺以上にガキっぽい顔しやがって。」

 大げさに驚いてみせるジンにトモヤは少しだけ表情を緩め、ジンの座っている長めのベンチのような台の端に腰掛けた。

「ジンは、ここに来て長いのか。」

「ああ。ここには時間がないからはっきりしないが、三、四十年くらいじゃねえかな。あのまま生きてても、きっとそろそろくたばってら。特に俺はろくな暮らしじゃなかったからな。」

「そんなに長い間、許されないのか……。」

 ジンはぴくりと眉を動かした。

 自分の命を捨てるという大きな罪をここで償わなくてはならない。償いが終わり、罪が許されるまで、「時」は動かない。――この夕凪に来て最初に言われた事だ。許されたら「時」がまた動き出す。きっと、また新たに生を受けて次の時間を紡いでいくことになるのだろう。

「お前は、許されたいのか? 早く許されて、次の人生に行きたいって、本気で思っているのか?」

 尋ねるジンの声は何処か震えていた。

「俺はごめんだ。また生きるなんざ……またあんなに苦しい世界で這いつくばって生きなきゃならねえくらいなら、永遠にここでエルナと楽しくやっていた方がいい。なあ、次の機会だからって、やり直して上手くいくとは限らないんだぜ。同じことの繰り返し……いや、もっと悪くなるかもな。」

 ジンは吐き捨てるように低く呟く。真意を測りかねてジンをじっと見るトモヤに、彼は口の端を釣り上げてニイっと笑った。

「お前だって、()()()()()をもう繰り返したかないだろう?」

「お前……!?」

 トモヤは思わず立ち上がり、敵から距離を取るように飛びずさった。驚愕と恐怖に目を見開き、隣に座っていた男を凝視する。何も言えなくなっている彼に、ジンは人の悪い笑みを浮かべたまま告げた。

「俺は、ここに来てから元の世界を観察するのが趣味でね。お前の事はここに来る前から知っていたんだ、トモヤ。」

「まさか……。」

「そのまさかさ。お前がここにきてすぐ俺たちに会ったのも偶然じゃねえ。ま、俺以外は誰も知らないことだがね。」

 ジンの囁きは、トモヤの心から余裕と自由を奪うには充分すぎる呪いだった。

「お前が死んだ理由は、俺とお前と二人だけの秘密にしておいてやるよ。」

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