8.猶予
「あたしがここに来る前に最後に見たのは、どこまでも青い空だったよ。」
テーブルの上の菓子がなくなり、殆どのカップも空になった頃。キミコはやや唐突にそんな事を呟いた。あの後は話題を変え、当たり障りのない明るい話をしようと努めていたのだが。
「梅雨時には珍しく、晴れた日だった。もういろんなことが嫌になって、このままこの青空に飛んでいけたらいいのにって……。階段を駆け上がって、走って、空に飛び込んだ。本当に飛んでいけそうな気がしたの。」
キミコはそう言って、遠い目をして空を見上げた。さっきから全く変わらない、美しい夕暮れの空。
「夕凪に来てからはこのオレンジ色の空しか見てないけど、あの時の青い色は目に焼き付いたようにはっきり覚えてる。絵具で同じ色を再現できそうなくらい、はっきり。もう、たぶん何年も前のことなのに。」
「いいなあ、キミコ姉ちゃんのはそんな綺麗な記憶で。僕だって、選べるならそういうのを最後の記憶にしたかったよ。僕のは最後の瞬間だって、それまでと同じような白い天井と壁とシーツでしかないんだもの。」
キミコとラルフの言葉を聞いて、アリスはぼんやり考えていた。自分は、どうだったっけ……。
「アリスは、最後に何を見たの?」
「それが……よく覚えていないの。」
答えた途端、キミコが驚いて眉を顰めた。
「覚えてない? どうして? ここに来る人はみんな死の記憶を鮮明に覚えているのに。忘れたくても忘れられない、自分の罪の記憶。」
「そんなこと、私に言われたって……。」
何故なんて私には分からない、分かるわけがない。アリスは俯いた。その時。
「やっと見付けた!」
かん高い叫び声が上がった。それは先程聞いた覚えのある、愛らしい鈴の音のような声。
「あ、天使ちゃんたち。やっほー。」
のんびりと声を掛けるキミコに脇目も振らず、小さな二人の天使は真っ直ぐに入り口から奥……アリスへと向かって駆け寄った。アリスは思わず椅子からぱっと立ち上がって後ずさる。
「ねえアリス、帰ろう。帰らなきゃダメなんだよ。」
「嫌だって言ってるでしょ! 私、帰らないわ!」
泣きそうな顔で叫ぶアリスを、皆は驚いたようにただ見つめる。
「……ちょっと、どういう事なの?」
呟いたメイファに、男の子の姿をした天使が答える。
「アリスは、まだ死んでないんだよ。生きてるんだよ。今はただ病院のベッドで眠っているだけ。」
「けど、このままずっと眠っていたら、本当に死んでしまうんだよ。」
女の子の姿の天使も、もう一人の言葉に続けるように言った。男女の差もわからないほど幼い、ほとんど同じ声。
「それこそ私の望んでいることよ。このまま死んでしまえるなら、願ったり叶ったりだわ。だって私、死のうとしたのよ。当然じゃない。」
叫びながら逃げようとするアリスに、天使たちはさらに歩み寄っていく。
「でも、ここにいることはできないよ。」
「ここは止まった人のための場所だもの。」
「アリスは止まっていない。この世界にとってイレギュラーなんだ。」
「アリスの存在がこの世界に、この世界がアリスに影響してしまうかもしれない。」
同じ声で交互に発される言葉は、二人で一人分のセリフを話しているようだ。
「キー、カイ。お願い、ちょっと待ってちょうだい。」
二人の背後から静かに掛けられた声に、小さな天使たちは同時に振り向く。一人の女性が、天使たちに目線を合わせるように腰をかがめて微笑みかけていた。
「ママ……?」
アリスが彼女を見てつぶやく。メイファはゆっくりとアリスの傍らに回り込み、娘の肩を抱いた。そして天使たちにゆっくりと語りかけた。
「ねえ、キー、カイ。もし、今のアリスをこのまま元の世界に帰したとして、この子はきっと同じことを繰り返すだけだと思うの。そして今度は本当に『夕凪』に来てしまうでしょう。そう思わない? ここに来たばかりの頃の私なら、間違いなくそうするわ。」
「それは……」
「そんなことになっては、せっかく帰した意味がなくなってしまう。だから、ね、ちょっとだけ時間をちょうだい。アリスが落ち着くまで、少しだけそっとしておいてあげてほしいの。」
天使たちは、キーとカイと呼ばれた小さな子どもたちは、何も言えずしばらく押し黙っていた。メイファの言葉は反論のできない、正しいものだと天使たちには分かっていたから。しばらく二人は黙ってお互いの顔を見合わせ、やがてメイファとアリスに向き直り、こっくりと頷いた。
「分かった。少しだけ……アリスの、残してきた体が危なくならないくらいの時間なら、待ってあげられる。」
「ありがとう、二人とも。」
「ママ! 私、いくら時間もらったって考えは変わらないわ!」
アリスの抗議を、メイファはそっと押し止めた。
「変わるかどうかはその時になってみないと分からないわよ。でも、私も……このままでいいと少し思っているの。あの地獄のような場所に、このままあなたを送り返すなんて、私には出来ない。」
「ママ……。」
胸が詰まったように何も言えず母を見つめるアリスに、メイファはにこりと笑いかけた。それは幼い日、まだしあわせだったアリスがとてもよく知っていた母の笑顔だった。
「今までの分も、たくさんお話ししましょうね、アリス。」