6.過去
アリスは、母の死を見ていない。しかし、その日の事は明確に覚えていた。
ある夜ふっと目を覚ましたアリスは、母がじっと自分を見つめているのに気付いた。部屋の明かりはついておらず、薄いカーテンの向こうは真っ暗闇、どうやら真夜中であるらしい。そんな中で、昼間と同じ服装のまま、今までに見た事のないような表情で自分を見つめる母は、知らない人のように見えて少し怖かった。
「……ママ?」
アリスが呼ぶと母は驚いたように目を見開き、そしてすぐにいつもの母の顔に戻った。
「起こしちゃったね、アリス。ごめんね。」
「ママ、まだおようふくなの? ねないの?」
「そうね……もう休みたいわ。ママ、くたびれちゃった。おやすみ、アリス。」
額へキスをしながら囁く母の声を聞きながら、アリスは再び眠りへと吸い込まれていった。その直前、母がもう一言何か言ったような気がしたが、よく聞こえなかった。
翌朝目覚めた時、母の姿はなかった。
狭いアパートの部屋は探し回るまでもなく、母は何処にもいなかった。部屋に取り残されたのは幼いアリスと、一枚の手紙。
「『アリス』って、かいてある。えっと……ママ、は……」
まだ学校に行っていなかったアリスには、その短い手紙を読むのにもとても時間が掛かった。
『大切なアリス。ママは出かけます。一人で外に出るのは危ないから、いい子でお家にいてね。少しだけ待っていて。大人の言うことをきちんと聞くのよ。ごめんね。』
アリスは首をひねった。ママは何を謝っているんだろう?
それからアリスは、母の言いつけを守って家の中でひとりで過ごしていた。すぐに玄関のドアが開いて、ママが帰って来ていつものように抱きしめてくれる、そう信じて。けれど、いつまで待っても、母はなかなか帰って来なかった。やがて高く昇った太陽が沈み始める頃、母が帰らないかわりに知らない大人たちがアリスを迎えに来た。彼らは幼いアリスが怯えないように優しく言った。ママは帰ってこないから、君は今日からおじいちゃんおばあちゃんと一緒に暮らすんだよ、と。
その時、分かった。昨夜の「おやすみ」の後、最後に母は「さよなら」と言ったのだ。
「ママがどうなったのか、誰も教えてくれなかったけど、私には薄々わかってた。ママは、私を置き去りにして遠くに行ってしまったの。あんな所に置き去りにして。」
アリスが話すのを、メイファは黙って聞いていた。
「あの後、私が最初に連れて行かれたのはパパの両親の所。私を一目見て、パパのママが言ったわ。『こんな目も髪も黒い子供が、あの子の娘である筈ない!』って。心細さに震える五歳の子供を突き飛ばしたのよ。……その後も、どこに行っても同じだったわ。施設でも学校でも里親も、私を見る大人たちは私を見下してた。私は、世界のどこへ行ったって『よそ者』なの。」