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夕凪  作者: 志茂 安芸子
10/10

10.幻想

「死後の世界に、お菓子作りの道具なんて、あるのねえ。」

 妙なところに感心したようにアリスは呟いた。

「道具も材料も、そんなに無茶なことを言わなければだいたいの物は出してもらえるよ。もっとも、この世界じゃ食事もお菓子も食べなくたってお腹は空かないし、のども乾かないけれど。」

 泡だて器を忙しく動かしながらキミコが答える。彼女はこういう作業がよほど好きなのだろう、絶えず何かアリスの知らない曲を口ずさみながら楽しそうに手を動かしていた。なかなか手際も良い。エルナはその半分くらいの速度で簡単な作業をこなし、メイファが指示を出すのが恒例のようだ。

「この世界には実体はないからね。人も、物も。」

「そう。だから実際に小麦粉がここに存在するわけじゃない。」

 作業台の向こうからこちらを覗き込んでいる天使たちがそんなことを言う。

「どういう事?」

「ここにある物はすべて、君たちのような魂やそれが生み出した想像上の産物、概念にすぎないんだ。」

「言わば幻だよ。菓子がこんがり焼けるのも、砂糖が甘いのも、君たちがそう思っているからさ。」

 よく分からない言葉に眉をしかめるアリスを見て、キミコはあははっと声を上げて笑った。

「まあまあ、そんな難しいことは分かんなくたっていいんだよ。知らなくたって困らないもん。それにしても、天使ちゃんたちの可愛い声でそんな難しいこと言われると、すっごい違和感あるよね。」

 キミコが差し出すメレンゲ菓子をぱくりと口で受け取り、無邪気な笑顔で頬張る天使たちは、本当にただの幼い双子の姉弟にしか見えない。キーと呼ばれた女の子も、カイと呼ばれた男の子も、ほとんどそっくり同じ顔に同じ表情。少年の声がまだ高いために声音にも差がない。外見も行動も声も十歳にならぬくらいの幼子としか思えないのに、言葉遣いだけが大人のそれであるのは確かに違和感がある。

「キミコはぼくたちを人間の子どもみたいに扱う。」

「姿が似ているのは知っているよ。でも、ぼくたち子どもとは違うんだよ。」

 そう言って揃って口をとがらせる様子も、拗ねた子どもそのものである。メイファが笑いながら口を挟んだ。

「キミコちゃんは、かわいいものが好きだからね。」

「そうだもん。キーやカイみたいなちっちゃい子を見てるのが好きなんだよ。」

 キミコは満面の笑みを浮かべると、二人をまとめてぎゅっと抱き締めて頬擦りした。天使たちはきょとんとした表情だが、特に嫌がるそぶりは見せず、されるがままになっている。少女の腕の中にすっぽりと抱え込まれた二人は不思議そうに言った。

「小さいものが、かわいいの?」

「そうだよ。あたしにとってはね。」

「じゃあ、キミコがこうしてギュッとするのはなぜ?」

「うーんと、かわいいものや、大好きなものにはね、こうやって抱き締めて好きだってことを伝えるんだよ。」

 アリスはどこか呆けたように、キミコと天使たちとのじゃれ合いを眺めていた。

(好きなものを抱き締めて、好きだってことを伝える……この言葉、前にも聞いたことがある。)

 いつ、誰が、アリスに教えてくれた言葉だったんだろう。思い出そうとするまでもなく、古い朧な記憶がぼんやりと浮かび上がってきた。アリスを膝に載せて抱き締め、頬擦りするような優しい人は、アリスの記憶の中には一人しかいなかった。

「昔、あなたが小さい頃、同じように言ったことがあったわ。」

 そう言ってしみじみと目を細めているメイファを、アリスは黙って見つめた。それからふいっと目を逸らし、独り言のように呟いた。

「……うん、覚えてるよ。ママがああやって抱き締めて、大好きよって言ってくれたこと。」

 メイファが驚いたように目を見開くのが、視界の端に見えた。嬉しそうに、しかし少し哀しそうに微笑んで、彼女は娘を後ろからそっと抱き締めた。アリスは一瞬体を強張らせたがすぐに力を抜いて母の腕にもたれる。

「ごめんね、アリス。」

「……ん。」

 ううん、と否定して謝らなくていいと言えるほどには心の整理がついていない。かといって、うん、と謝罪をそのまま受け入れる気持ちにもなれない。曖昧な返答。でも、メイファにもそれはきちんと伝わったようだった。

「ずっと、こうして抱き締めてあげたかった。ずいぶん大きくなったのね。」

「当たり前よ、十年経ったんだもの。」

 周りの大人が何も教えてくれなかったほどに幼かったアリスも、もう十五歳になった。あの時から変わっていない母の年齢に近付いた今のアリスには、あの頃の母が抱えていた事情や辛さも多少なら想像できる。あの時のメイファの傍に、守ってやらなければならない存在としてではなく同じ境遇を分かち合える相手としてアリスがいたら、もしくは今のアリスの隣に同じ経験をしたメイファが寄り添えていたら、二人とも夕凪に来ることは無かったかもしれない。

(……どちらにせよ、考えるだけ無駄なことだけど。そんな仮定は成り立たないんだから。)

 アリスはそっと、虚しさを吐き出すように溜息をついた。

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