この子どこの子魔界の子 ①
まだ現れないメインヒロイン。
大学進学を期に、僕がこの黄聖市に引っ越してきて2ヶ月近くが経とうとしていた。
過保護な両親とかわいい妹は、実家から通える近くの大学を何度も奨めてきてはいたのだけれど――僕は、そんな家族の反対を押し切って黄聖大学を受験し、なんとか合格。今年の春から、念願のひとり暮らしを始めたばかりの大学一年生だ。
出会いの春、初めてのひとり暮らし。
不安と期待をごちゃ混ぜにしながら、僕はこの街に足を踏み入れたのだけれど……
「おかえり、にーさん」
……ひとり暮らしって、なんだっけ?
大学の講義を終え、下宿先に帰ってきた僕を出迎えてくれたのは、遠く離れた地元にいるはずの僕の妹――世良楓のエプロン姿だった。
酷い話だと思うのだ。
家族が嫌いだなんてことはないけれど、生まれてこの方ずっと実家で暮らしてきた僕にとっては、故郷を離れてひとりで頑張る、という構図にそれなりに憧れもあったわけだ。
そんなささやかな憧れを木端微塵に打ち砕いてくれたのがこの子である。
「……にーさん、ぼーっとしてどうしたの? エプロン姿のわたしに見惚れて声も出ないの? それじゃあ結婚しよ?」
「なんでもないよ、ただこの世の不条理を噛みしめてただけ……ともかくただいま、楓」
最後の爆弾発言には一切触れずに、僕は靴を脱いで妹の隣を通り過ぎようとした。が、楓は僕の左腕をガシッと掴んで引き留めてくる。
「にーさん。今はこの家、わたしとにーさんのふたりっきりだよ」
「そうなんだ」
「……ふたりっきりだよ?」
「どうしてそんな首を傾げて「え? 意味分かってんの?」みたいな眼差しでもう一回聞いてくるのか僕には理解できないよ」
お人形さんみたいに整った綺麗な顔立ち。枝毛やくせ毛なんてまるで無さそうな、さらりと流れる艶やかな黒髪。
兄としての贔屓目を無視したとしても、楓は掛け値なしの美人だった。
普段はほとんど感情を表に出さず、自己主張も少ない大人しい子なのだ。彼女の通う学校でも「深層の令嬢」だとか「大和撫子」といった呼ばれ方をしているようで、学園のマドンナ(表現はちょっと古い気もするが)的存在なのだそうな。
「実家ではお母さんとお父さんの目があったからチャンスが無かったけれど、ここでなら、誰の邪魔も入らない。……さあ、にーさん。今日こそわたしと愛のハットトリックを――」
「いったいお前は何を3点獲得したいと言うの?」
なぜか僕に関連したことに関しては、今のようにぐいぐいと自己主張してくる――それも、本当にろくでもない方向にだ――この愚妹。いったいどこで何を間違って、こんな残念な子に育ってしまったのやら。
僕は普通の恋愛がしたいのだ。いきなりそんな、禁断のとか背徳のといった言葉が先に立つような、ドロドロとした男女関係を構築するつもりなど毛頭ない。
それに残念だったね、我が妹よ。
時間切れだ。
「たっだいまー! いやぁ今日も一日お疲れ様でした! こんな日はきっとお夕飯もとびきり美味しく…………って、なにこの昼ドラみたいな構図」
白い翼をパッタパッタさせて後ろの扉を開けて入ってきたのは、さっき大学で会ったばかりのユウリィだ。
彼女もまたここの下宿人であるために、当然ながらこういう鉢合わせだってあり得る話。
妹は僕の腕からそっと手を離し、底冷えするような陰のある笑顔をユウリィに向けていた。あと今軽く舌打ちしたでしょ、お行儀の悪いことするんじゃありません。
「おかえりなさい、ユウリィさん。……今夜は焼き鳥にでもしましょうか」
「ねぇ、かえちゃん。今絶対ユウリィの背中を見ながらメニュー決めたよね?」
どこからともなく切れ味のよさそうな包丁(本当にどこに隠し持ってたの!)を取り出し捕食者の笑みを受かべる楓を前に、ユウリィは翼を隠すように小さく畳んで後ろずさっていた。
「冗談ですよ、ユウリィさん。焼き鳥なんてできませんよね」
「そ……そうだよ、そうですとも!!」
「手羽先はから揚げに限りますものね」
「にゃんぎゃーっ!? 180℃の油でこんがりきつね色にされちゃううううううっ!!??」
ちょっぴり食欲をそそる口上を吐き捨てて、から揚げ認定されたユウリィは脱兎のごとく外へと逃げ出した。楓はそれを追って包丁を持ったまま靴をつっかけ出て行ってしまった。
「……ってこら楓、靴はちゃんと履きなさい! 転んで怪我でもしたらどうするの!!」
「心配する相手間違ってる、間違ってるよつっきー! 転んで怪我どころか、今にも細切れにされて油に投入されようとしている人がここにいるんですけどー!?」
冗談はさておき、どう見ても110番されて現行犯になる展開だったため、僕は仕方なく2人を追いかけることにした。
ここは黄聖市の海岸通りぞいにある『さざんか荘』という古めかしいアパートだ。とはいえ、その外観はアパートというよりは、昭和時代のちょっと大きい日本家屋といったところ。
風呂・トイレ・キッチンなどはすべて共同だったけれど、月10,000円という破格の家賃がそのデメリットをすべて打ち消していた。別に共同でも困ることはあまりないしね。
さて、本題に戻ろう。どうして実家にいるはずの妹がこの『さざんか荘』に居座っているのか。
「まさか、黄聖高校を受験していたとはわねぇ……」
「黄聖は屈指の名門進学校。偶然、にーさんが通う大学と同じ地域だったから、こうやって同じ場所にお世話になることに決めたの。すべては、偶然」
「ここまで信憑性のない偶然はじめて聞いたよ僕は」
「カラアゲこわいカラアゲこわいカラアゲこわいカラアゲこわいカラアゲこわいカラアゲこわいカラアゲこわいカラアゲこわい」
共同のダイニングに集まり、僕と楓、そしてやや涙目になって腰が引けたユウリィが食卓を囲んでいた。せっかくこうやって同じ時間に家にいるのだから、わざわざ個室で散らばって食べる必要もないだろう――ここは3人とも同じ考えだった。
しかし今日の夕食当番である楓さんや。さっきのやり取りの直後で鶏のから揚げを出してきたのはユウリィへの当て付けなのかい?
どうやら彼女はトラウマになっちゃったみたいで、ほかほかの湯気を出している揚げたてのから揚げを見て顔を真っ青にしていた。
この場合ってどうなんだろう……共食い扱いになるんだろうか。
ともあれ、何だか食卓が微妙な雰囲気になってしまっている。少しばかりフォローを入れておこうかな。
「ねぇかえちゃん。前々から思ってたけど、かえちゃんはユウリィのこと嫌いなの?」
「そんなまさか、嫌いなわけないじゃないですか。ただ、私とにーさんの愛の巣に土足で入りこんできた喧しいニワトリを捌こうとしていただけですよ?」
「嫌いどうこうの前に最初から人として見られてなかった!?」
そう思った矢先にこの追い討ちだよ!!
同居人というよりただの食肉扱いされてしまったユウリィは、驚愕と恐怖で目を真ん丸にしながら全身をぷるぷるさせていた。
流石に放置もできないので、僕は箸を置いて2人の会話に滑り込んだ。
「楓、ユウリィをからかうのもそれくらいにしておきなさい。ユウリィはバ――じゃなくて、人を疑うことを知らない素直な子なんだから、こんなことでもすぐ真に受けちゃうんだよ」
「それもそうですね。私の配慮が足りませんでした。そういうことで、今のはすべて冗談ですよユウリィさん。……まぁ、真に受けてもらっても結構なのですけど」
「と、そういうことだから。安心してねユウリィ」
「今の会話のどこに安心できる要素があったのか教えてほしいんですけど! しかも遠まわしにユウリィのことバカにしてるし!!」
遠まわしどころか割と直球でバカにしているよ? と続けようと思ったのだが、彼女の涙腺が限界に近づいてそうだったのでいじるのはここまでにした。
ユウリィ=ブレイブローズは、異世界《クリステラ》でも特に珍しい種族である有翼人を代表して、単身ではるばるこちら側の世界にやってきた。
これまで有翼人の一族は、他文化と交わることなく、特定の住居を持たない遊牧民としての生活を送ってきた。だが1年前の世界の接続をきっかけに、外の文化も広く学ぶべきだという考えが広まってきたそうだ。それで族長の娘であり、外の世界への好奇心が特に旺盛だったユウリィに白羽の矢が立ったのである。
そんなこんなで今年の春――この街に色んな文化を勉強しにやってきた彼女と僕が出会って、こうやって同じアパートで暮らし始めるまでに紆余曲折あったのだ。
その時のことを思い出しながらユウリィの方を見ていると、彼女もこちらの視線に気付いたようでにまにまとした不気味な笑みを浮かべてきた。
「あっれ~? そんなにユウリィの方へ熱い視線を傾けてどうしたのかな~? ……だ、だめだよ? こんなところで愛の告白だなんて、そういうのはもっとこう、お互いのことをもっとよく知って、もっとロマンチックな場所で2人きりでやらなきゃ「おっと手が滑りました」きゃいいいいいいいいいいんっ!? いま……今、ユウリィの隣を鋭く尖った何かが通り過ぎてったあああああああああっ!?」
ユウリィは恥ずかしげに頬に手を当て、全身をくねくねさせながらよく分からない妄言を言い始めた。だが、楓が棒読みな声で放り投げたフォークが弾丸の如き速度で彼女の頬を掠めていき、尻尾を踏まれたわんちゃんみたいな悲鳴をあげて椅子から転げ落ちてしまった。
「あははははは、何だか不穏当な発言が聞こえたものですからつい手が滑ってしまいました。まさかフライドチキン風情が、私のにーさんに色目を使っているだなんて思いもしませんでしたので」
「ついに扱いが調理済みと化した!?」
なんだかんだ妹の楓とも仲良くやってくれているし、彼女がいると場の雰囲気がにぎやかになる。
本当に、僕には過ぎた得がたい友人だ。
「ちょっとつっきー、いい感じにまとめに入ろうとしないで! 君はかえちゃんにどんな教育してるのさ! 人をニワトリだの手羽先だのフライドチキンだの、美味しい鶏肉料理の調理過程みたいに呼んでくるし! あげくの果てには包丁振り回してくるわ、どこからどう見ても立派な殺人鬼じゃない!!」
「あはは、それは楓なりの愛情表現だから大丈夫。ちょっぴり屈折してるかもだけど、受け止めてくれると嬉しいな?」
「さぁ、ユウリィさん。私の包丁を受け入れてください」
「そんな血みどろの愛情受け止めきれないよつっきー! かえちゃんも、そのルビ振りは絶対に納得できないからね!?」
嬉々とした表情で包丁を砥ぎはじめる楓、完全に腰を抜かして号泣しているユウリィ、そんな光景を一歩引いて見守っている僕。
……うん、これはなかなかに混沌な絵だね。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
翌朝のことである。
僕が起きるより前に、ユウリィは先に大学へ出てしまったようだ。
なぜそんなことが分かるのかというと、さっきダイニングのテーブルの上に「あんなスプラッタな妹と一緒にメシが食えるかー!!」という殴り書きのメモを見つけたから。
ホント、バカだねぇユウリィは。夜になったら嫌でも顔を合わせるっていうのにね。
そんな逃れようもない事実を、きっと彼女は忘れてしまっているのだろう。鳥頭なだけに。
楓と2人で手早く朝食を済ませ、通学路が途中まで一緒なのでしばらく並んで歩く。
ゴールデンウィークも終わり、街中にあった桜の色はほとんどが葉の緑に移り変わっていた。先月はドタバタしていたから、あまりゆっくりと桜を見る時間がなかったのが悔やまれる。
「来年はみんなでお花見したいなぁ」
「うん。わたしもにーさんと2人でお花見がしたいな」
新しい学校に入り真新しい制服姿になった妹は、僕と同じ意見のようでどこかずれた返しをしてきた。
中学の頃は昔ながらの紺のセーラー服だったが、黄聖高校の制服はグレーを基調としたブレザーとなっており、垢ぬけた都会的な印象を与えてくる。
そのせいか、いつも顔を合わせている妹がいつもより大人っぽく見えてしまっていた。愚かな兄心と言おうか、僕はついこんなことを聞いてしまう。
「しかしその制服よく似合ってるね。それを抜きにしても楓は美人さんだし、周りの男の子たちも放ってはおかないでしょ?」
「そうだね……確かにそう。呼んでもいないのにワラワラと、まるで砂糖に群がるアリのように寄ってきて辟易してる」
……さて、僕は冒頭から話の切り出し方を間違えたらしい。
言った後に思い出したのだが、楓は極度の男嫌いなのだ。そりゃあ男子から人気があっても嬉しいわけがない。存外、僕もユウリィのことをバカにできなかった。
気まずくなって、お互い無言のまま緩い上り坂をしばし歩く。
楓が通う黄聖高校は、海岸通りにある『さざんか荘』から僕が向かう黄聖大学の道の途中に位置している。そのため、必然的に僕は黄聖高校の入口まで妹を送り届ける形になるわけだ。
妹の高校が近付くと、同じように登校してくる他の生徒達からの視線がちくちくと突き刺さってきた。
男女問わず、僕への視線があまり好意的なものではないところを見ると、
(楓は随分みんなに慕われているようだね。よかったよかった)
このように結論付けて間違いはあるまい。
そう考えれば、親の仇みたいに睨み付けられようが、僕はまるで不快な気持ちになりはしない。むしろそれだけ妹のことが大事にされているということで、兄としてちょっぴり誇らしくもあった。
これまでは楓の希望もあって一緒に登校していたけれど、そろそろ時間をずらして別々に出た方がいいだろうか?
嬉しくもあり、寂しくもある感情を胸の内で弄んでいると、
「……そこの貴方。今、こちらを睨み付けていましたね」
「え? お、俺ですか?」
周りの視線を一身に集めていた妹が、険しい顔をしながらひとりの男子生徒を呼び止めた。さて、もう嫌な予感しかしないのだが、いったい何を言い出す気なんだい我が妹よ。
「理由を聞きましょうか。もし私に否があることでしたら、平に謝罪致します」
「い、いや!? 睨んでたのは世良さんじゃなくてそっちの奴で。どうして世良さんみたいにかわいい子が、そんな冴えない奴と一緒に歩いてるんだって思っただけで……」
「なるほど、よく分かりました。――じゃあ死ね」
ヤバい! と思ったのと同時、妹はブレザーの内ポケットに手を差し込み、僕は慌ててその手を掴んで制止した。学園のマドンナが一変して夜叉に変貌したのを見て、男子生徒は思わず地面に尻もちを着いてしまっていた。
危ない危ない! この子絶対制服の中にとんでもない物隠し持ってるよ! それが何なのか怖くて聞けないけど!!
「止めないで、にーさん。にーさんを侮辱したこいつは生かしておけない」
女の子とは思えないほどの力で僕の手を振り解こうとする楓だったが、僕だって男だ、そう簡単に力負けなんてしてやらない。
「兄想いなのは嬉しいけどほどほどになさい。それに、どんな理不尽があっても絶対に暴力を振るわないって約束、忘れたの?」
「でも!!」
納得いかない、といった眼差しで見上げてくるが、これ以上僕は言葉を続けるつもりはなかった。ただ、真っ直ぐに妹の目を見つめるだけ。
たっぷり10秒ほど見つめ合ったあと(楓の頬が少し赤らんでいた気がするが、気のせいとする)、楓はふっと腕の力を抜いてくれた。
「……ごめんなさい」
「謝るのは僕じゃなくて彼にでしょ。びっくりさせちゃったんだから」
僕はそういって腰を抜かしたままの男子生徒に視線を向けた。……大丈夫だよね? なんだか彼のズボンが湿っているように見えるんだけど、本当に大丈夫だよね!?
楓は座り込んだ彼に手を差し伸べようとして、やっぱり引いて、やっぱり手を出そうとして――結局手を引っ込めた。……そんな汚らわしいものを見る目で見下ろさないであげようよ。彼、きっとプライドズタズタだよ?
「う……うわああああああああああん!!」
結局自力で立ち上がった男子生徒は、周囲からの痛ましげな視線に耐え切れずに走り去ってしまった。
まあ、ある意味いい薬になったのかも。この妹と付き合うなら、それなりに神経図太くないとやってられないからねぇ。
校門まで辿り着いたので、楓とはここでお別れとなる。
さっきの騒動で遅れちゃったから、少し急がないといけないか――そんなことを思案していると、楓が僕の服の裾をちょいと掴んできた。僕が何も言わずに考え込んでいたから、機嫌が悪いように見えちゃったのかな。
「にーさん、怒ってる? わたしのこと、嫌いになった?」
「怒ってないからそんな顔しないの。……しかし、さっきみたいな様子で大丈夫なの? 友達はちゃんとできてるかい?」
「お母さんみたいなこと言わないで、ちゃんと女の子の友達ならいるから」
楓は僕の指摘にリスにのようにぷくっと頬を膨らませて抗議してきた。
まったく、僕のことを慕ってくれるのは嬉しいけど、もうちょっと兄離れもしてほしいかな、とも思ってしまう。
「男嫌いもなんとか克服してほしいところだけども」
「男の人は……にーさん以外には興味ないし」
時折、こうやって兄に向かって妖艶な仕草を見せてくるから困ってしまうのだ。
世良楓は僕の妹ではあるが、血は繋がっていない。
あまり認めたくはないのだけれど……俗に言う義妹ということになる。
だから、昨日この子が冗談半分で――冗談だと思いたいのだけれど――言っていた『結婚』というのも非現実的な話ではないのだ。
(最近は随分と女の子っぽくなってきたし……うぅ、こういう考えをすること自体がダメなのに)
『家族』というフィルターをかけることによって、これまで楓のアプローチをなんとか回避してきたけれど、一度でもひとりの『女の子』として彼女を見ようものなら――
「それじゃあ、わたしは行くね。ここまで送ってくれてありがとう、にーさん。大好き」
――あっという間に、堕ちてしまいそうで。
天使のように可愛らしい笑顔を残し、校舎へと走って行った妹の後ろ姿が見えなくなるまで、僕は阿呆みたいにその場に突っ立ってしまっていた。
これだけは自信を持って言える。数多あるラブコメの中でも、フライドチキンをヒロインにした作品はウチだけだって!!