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夢の話~誰にも見られない種類の笑み

作者: 大橋 秀人
掲載日:2015/09/01

 瞬くと、無限に広がる暗闇があった。

 落ちていることだけはわかる。

 でもそれが早いのか遅いのか、どれだけの速度なのかまるで見当もつかない。

 周りには何も見て取れない。

 空なのか、海なのか。

 限りなく静か。

 何も聞こえない。

 感じない―――音も、臭いも、風の冷たさも、水の温もりも。

 ただ、逆光が暗闇を照らし出している。

 遥か遠方から届く光をクッションにして、漆黒の闇を仰いでいる。

 

 そこにある感情を思案しだした時、傍らでひどく古びたランプが灯る。

 視界の隅でずっとそこにあったように橙色の光が時折、揺れる。

 ページが捲られる子気味いい音。

 コーヒーの香ばしい香り―――。

 ロッキングチェアが揺れ、軋む。


 意識を向けると、拒むように頬を張られた。

 「もうわたしの前に現れないで」

 鋭い痛みがその聞き覚えのある声のことを忘れさせる。

 アスファルトが濡れていた。

 傍らでビニール傘が開かれたまま落ちている。

 ―――背後で、憤りを含んだ足音が遠ざかっていく。

 

 歯を食いしばり振り返る前に、肩に尋常じゃない圧迫を感じた。

 兎に角、重い何かを担いでいた。

 足がぬかるんだ赤土に食い込んだ。

 歩を止めるとすかさず背中が打たれた。

 冷たさ。

 あとから激しい痛みと熱を感じる。

 歯軋りの音と鞭が空を切る音―――減り込む体。


 苦しみに耐え生唾を飲み込むと、裸の女が悶えていた。

 汗ばんで息を荒くしている。

 腰のくびれを押さえつけ、何度も体を打ちつける。

 ―――乳房の稜線が激しく揺れる。


 その谷に顔を埋めるべく頭を垂れると、無数のシャッター音が聞こえた。

 そこかしこから馬事雑言が浴びせられる。

 安っぽい木目調のデスクがフラッシュによって明滅する。

 震える呼吸を無理に抑え、拳を握る。

 机がにじみ、一筋の水滴がスローモーションで落ちていった―――。


 ―――水滴が一粒落ちた瞬間、数え切れない雨に打たれた。

 慌ててドアを閉めると一気に音の洪水は遮断される。

 ガラス越しに吹き付ける豪雨が嘘のように遠ざかる。

 荒くなった呼吸があまりにも生々しく鼓膜を叩く。

 落ち着くんだ。

 きつく目を瞑ると、呼吸の向こうに幽かな、でも確かな音を見つけた。

 無音?

 いや、聞き取れない何かが大音量でなっている。

 水音? 

 いや、違う。


 その正体―――それは炎。

 確信めいた想いがその灯火を見つけさせた。

 モノクロの、捉えどころのない、静かな。

 夜のビルの屋上で、吹き上げる風を一身に浴びながらも尽きることのない。

 生、あるいは死だろうか。

 どんなに周りが騒々しくとも体の奥底に認識される。

 ―――今ならそれに触れる気がした。

 今なら、諸手でやさしく包み込み、胸の奥にしまうことだって―――

  


 伸びきった手は、何も掴めず空を彷徨う。

 ―――気づけばまた暗闇だ。

 何も見えない。

 逆光さえ、もうない。

 それでも心は安らいでいた。

 ああそうだ。

 思わず笑みが零れる。

 これは誰にも見られない種類の笑みだろう。

 僕はそっと手を下ろし、隣で静かな寝息を立てる人の手を取ったのだった。

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