15 帰還といつかの事情
「お願い。助けて。恐いの。体中が熱くて、痛くて……とても苦しいの」
「だ――だって、でも、そんなのって……」
「助けて……ねえ、助けてよ」
「嫌……嫌だよ。僕には」
「ねえ、お願い」
「嫌だ、できない。僕は君を」
「――私を殺して、空來くん」
*
住み慣れた部屋で目を覚ました。太陽が傾きはじめており、窓から見える町並みは夕日によって赤く染まっている。風音空來が体を起こすと、壁に背を凭せ掛けていた天風柴闇と、部屋に備え付けられている椅子に腰かける実兄、勇來がこちらを見た。
「目ぇ覚めたか」
と柴闇が言う。不愛想というほど愛想がないわけではないが、逆に愛想が良いとも言えないぶっきらぼうな態度だ。彼はいつもこうである。
「柴闇……」
「悪かったな、急に視界を奪った上に殴って気絶までさせて」
大して申し訳ないと思っていなさそうな調子だが、空來の兄である勇來がいる手前、一言だけでも謝罪しておかなければ具合が悪いのだろう。あるいは声や表情に出ていないだけで、本当に悪かったと思っているのかもしれない。頭の悪い空來にとって彼の心情を量ることは簡単ではない。
これまで無言だった勇來がおもむろに立ち上がった。そしてつかつかと空來のいるベッドまで歩み寄ってくると、乱暴に胸倉を掴み、空來を自分のほうへ引き寄せると、その頬を思い切り殴りつけた。鈍い音が鳴り、衝撃で後ろの壁に背中をぶつける。
「いッ……」
「馬鹿野郎、自分が何をしたかわかってんのか! どれだけ周りに迷惑かけりゃ気が済むんだ、この大馬鹿野郎ッ!」
勇來の怒鳴り声に空來はしばらく面食らったように黙り込んだ。
「い……いきなり殴ることないだろ! 僕だって好きでこんなことしたわけじゃ――」
「うるせえッ、お前の事情なんて関係ねえんだよ! 勝手なことばっかりしやがって、どれだけ心配したと思ってんだ! いい加減にしろッ!」
「な――」
なんだよ、と空來が声を震わせる。
「何も知らないくせに、知ったようなクチきかないでよ!!」
空來が怒鳴ると勇來は更に怒鳴った。
「ああ知らねえよ。たしかに俺は『お前のこと』をちゃんと知らない。だから今回のことがソレに関することなら、俺はそのことについて何も口出しできないし、するつもりもない! でもな、お前は静來を泣かしたんだ! それについては兄として、男として許しちゃおけねえッ!!」
勇來はそうまくし立てると空來に背を向け、この馬鹿弟がッと毒吐くと空來の部屋を出て行った。バタン、と扉が乱暴に閉められる。一瞬、耳に痛いほどの沈黙が流れた。
「……勇來が殴らなきゃ、俺がもう一発殴ってたところだ。別にお前のことを責めるつもりはないけどな、女の扱いを心得ようと、女の気持ちを理解しようと普段から努力しているお前が、自分の一番身近にいる女の気持ちを分かってやれずに泣かせてどうする? 勇來が怒るのも無理はない」
柴闇が落ち着いた声音で空來に言う。空來の頭の中では先ほどの勇來の言葉が何度も繰り返されていた。
――お前は静來を泣かせたんだ。
「紫闇。静姉……泣いてたの?」
「……今すぐにとは言わないけど、勇來が落ち着いた頃合いを見て、ちゃんと二人と話せよ。その時はしっかり頭下げろ」
柴闇は振り返らずに手を振って部屋を去った。
*
「空來は昔、人を殺したことがあるんです」
鈴鳴神社に到着したころには太陽が沈み始めていた。座敷に差し込む橙色の光が薄暗い部屋を照らしている。玲華が人数分の茶を盆に乗せてやって来たとき、静來が重々しく口を開いた。
「人――といっても、まだかろうじてヒトのカタチを保っていたというだけで、厳密には人間ではありません。殺した――というよりは、討伐した――という言い方のほうが正しいかもしれません」
癒暗は風音空來という少年の過去についてある程度のことは把握しているつもりだ。しかし、実際にその場面を見ていたわけではないので、静來の話には多少の興味があった。癒暗の隣であぐらをかいている龍華は持っていた孫の手を畳の床に置いた。真面目な話に似つかわしくないと判断したのだろう。
「はじまりは確か、十年ほど前。私が風邪をひいてあの森の病院へ行った日に、私と母についてきていた空來は、私の診察が終わるまで病院内を探索していました。そしてその時、空來は一人の少女と出会ったんです」
癒暗も一度見たことがある。笑顔が可愛らしい、花のような少女だった。
「その女の子は重い病気でずっと前から入院していました。闘病生活――といっても、これといって発作があるわけでもなく、少女自身は自分の体の何処が悪いのか知らないようでした。病院での生活は退屈だという少女のために、空來は毎日彼女の病室に通うようになりました。その子はもうあまり長くはないと言われていたそうですが、毎日空來と会っているうちに元気になって、ある時には軽く外を走り回れるくらいに回復したんです」
そう。そこまではよかったのだ。きっとそのまま何事もなければ、少女の病気が良くなって、今頃空來とその子は好い関係になっていただろうし、少女を病から救った少年の武勇伝ということで終わっていたのだ。
「でもある日から、女の子は急に空來との面会を拒んだんです。勿論、空來が簡単に諦めるはずもなく、あの子は何度もその少女のところへ行きました。会いに行っては追い返され、また次の日に会いに行っては追い返され、そんな日々がしばらく続いて、ようやく一度だけ、少女が空來と会うことを承諾しました。ただし、顔は合わさず、声だけ――という条件で」
――どうして急に会えなくなったの?
――いろいろあったのよ。
――いろいろって?
――空來くん。もう私に会いに来ないでほしいの。
――どうして!?
――どうしても。だから、もうここには来ないで。
――そんなの嫌だよ! どうして会いに来ちゃいけないの? いきなりそんなの、寂しいよ。
――私だって、寂しいよ。でも駄目なの。もう会えないの。
――……泣いてるの?
「人間がカルセット化する奇病――聞いたことありますよね?」
「学が一度かかったことがあるっていう――あれだよね?」
「はい。彼の中に竹鬼という他人格が発現する原因になった、あの病気です。病名『魔獣化症候群』――その少女の病気もそれでした」
魔獣化症候群は長年謎の病として恐れられてきた奇病だ。治療法は七年ほど前、かの有名な名医の家系「千野原家」の一人娘、千野原涼嵐によって解明された。
「治療法の解明はその少女にとっては遅すぎた。それに、確かにあの病気に治療法はありますが、完治するかどうかはその人の体質や、その人の持つ能力なども影響し、個人差が非常に大きいです。あの千野原家ですらそんな状態なんですから、あんな小さな病院で何をしたって、少女が助かるはずがなかったんです」
「たしかに、学が助かったのだって奇跡に近いよ。涼嵐本人から治療を受けていたことと、幸か不幸か、その治療中に能力の覚醒を起こして、病原体を『竹鬼』という人格に変えて一つの体に共存させることで運良く助かったんだ。でも、それでも、『竹鬼』は学の体に大きな負担を及ぼす存在が――平たく言えば、後遺症が残ってる。発病した時点でその子の将来は……絶望的だったろうね」
「空來との面会を初めて拒んだ日から、少女の病態は悪化していました。肌の色が変わり、皮膚にはウロコが、口の中には牙が生え、爪が鋭く伸びる――少女は自分のそんな姿を、空來に見せたくなかった。当然、少女の異変は外形の変化だけには留まらず、少女の思考や価値観も変えていきました。食欲がどんどん旺盛になり、次第に脳が人肉を求めはじめる。所構わず暴れだしたくなる衝動に駆られる。はじめのうちは人間としての理性でその感情を押し殺すことができました。でも、段々自制が利かなくなって、暴れる少女を看護師が数人がかりで押さえつけ、体をベッドに拘束しなければならなくなったそうです。そして、ある日、あの事件が起きました」
そう、あの日――変化の進んだ少女は拘束具を破壊し、病室の窓を割って外へ逃げ出したのだ。もうほとんど人間としての自我は残っていなかった。それを聞きつけた空來がその少女を捜してまわり、そして数時間後に発見したのだ。
「少女は空來に自分を殺すように頼みました。自分はもうすぐ完全なバケモノになって人を襲ってしまう。そうはなりたくない。このまま病院の人間や警備隊に見つかれば殺されてしまう。どうせ死ぬのならば空來の手で死にたい――と。その願いは空來からすれば、自分が好きになった女の子を自らの手で殺す、ということになります。簡単に引き受けられるはずがありません」
それでも空來は、結果的に少女を――半獣化した想い人の命を、その手で終わらせたのだ。
「長い問答の末に、少女は望み通り、空來の手によって生涯を終えたんです。周囲からすれば、それはただ有害なカルセットを討伐したというだけのことですから、空來が罰を受けることはありませんでした。しかし、罰を受けなかったからこそ――空來は今でも、そのことをひどく悔やんでいるのです」
「勇來は――このこと、知らないんだっけ」
「ええ、詳しいことは何も。あの人は馬鹿で不器用です。でも優しい人ですから、空來の過去を全て知ってしまうと、同情だとか、彼を擁護する気持ちだとか余計なものを感じて、空來への態度が余所余所しくなってしまうと――そう自分で分かっているんです。だから勇兄は、敢えて深くは知らずにいるんです」
勇來が空來の過去を知らないまま毎日を過ごしているのは、彼なりの空來への気遣いなのだろう。きっと兄として、同情して寄り添ってやれない代わりに、これ以上弟に余計な苦しみを感じさせまいと必死に考えた結果なのだ。
馬鹿で愚かで、優しく、まっすぐな男だ。
次回最終話は六月四日に更新します。