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BLUE・STORYⅢ  作者: 森田しょう
第一部 盲目の子羊たち
6/10

5話 孤独な子羊

「親父、どこに行くんだよ?」


 普段言いもしないその呼び方は、そう呼ぶ俺自身でさえ勇気のいるものだった。

 いつも仕事に着ていくスーツではなく、ジーパンをはき水色のワイシャツを羽織る親父。それさえも、いつもと違う雰囲気を醸し出していた。それが、俺が“父さん”ではなく“親父”と呼ばせている要因なのかもしれない。

「しばらく、家を留守にする」

「……はぁ!?」

 その言葉に、俺は気の抜けた声しか出せなかった。

「か、母さんがあんな状態なんだぞ!?」

「…………」

 親父は何も言わず、大きなカバンに靴下やら何やら、たくさんのものを詰め込んでいっていた。


「どうして一人にするんだよ!? 親父!」


 感情が高ぶっていく俺は、声を荒げる。こんな時でも、親父はなぜか落ち着いている。余裕を持っているような――いや、まるで他人事のように冷静なのだ。俺はそれが許せなかったんだ。

 親父はすくっと立ち上がり、俺を見た。全てを見透かしているような――遠い目。こんな双眸を向けられたことは、それまでに一度もなかった。そこに、親父ではない“別の親父”の姿があるように感じた。


「すべきことがある。母さんを――あの子たちを、頼むぞ」




  5話


  ――孤独な子羊――




「――いちゃん……お兄……」


 優しい声が聴こえる。それは母が子の髪をなでるように、俺の魂を優しくなぞる。その言葉を――その言霊を、俺は初めから知っている。それがあることの幸福を、平穏な生活の中では気付くことがない。どうして、伝えられないような時に……そう思うのだろう。どうして、普段気付くことが出来ないのだろう。

 その言霊に手を伸ばそうと、俺は闇色の意識の中でもがく。深い、深い意識の中。ここは怖い――と、心が叫んでいる。光明を求め、その温もりを手繰り寄せようと――。


「お兄ちゃん!」


 俺の視界が開けるのと同時に、驚く。そこには涙を浮かべている葵の顔があった。……ちょ、ちょっと近すぎる……と、なぜか冷静に思う俺がいる。

「お姉ちゃん、お兄ちゃんが!」

「え、目が覚めた!?」

 葵の声に呼応し、奥から希の声が届く。ドタドタと足音を鳴らし、葵と同じように俺の視界に顔を入れ込んできた。


「……や、やっと起きたー!」


 希は顔を引っ込め、この白い部屋から飛び出していった。扉の向こうから、「おばさーん!」「おばあちゃーん!」と、二人を呼ぶ声が聞こえてきた。

 ここは……病室か。そう思った矢先、雫が俺の顔に落ちてきた。それが涙だとわかる前に、葵の顔がまずいことになっていることに気付く。

「お、おに……いちゃん……」

 涙でぐしょぐしょに濡らした顔で、声にならない声で俺を呼ぶ葵。

 まずい、大泣きする寸前だ――などと、俺は冷静に思っていた。葵にとっては、冷静に考えられるものでもないのに。

「お兄ちゃあああーーん!!」

 葵は俺の上に飛び乗り、ギュッと強く抱きしめた。耳元で、普段では聞けないくらいの葵の声量が放たれていて、それがとても愛おしく感じられて、俺は葵を優しく抱きしめた。


 ああ、可愛い妹だなぁ……なんてしみじみ思いながら、自然と微笑んでいるのが自分でもわかった。





 俺は一週間も、眠り続けていたらしい。

 そんなに時間が経っているとは思えないほど、本当に少しだけしか夢を見ていないのだ。長い時間、夢の回廊を彷徨っていたようには思えず、みんなが日付を間違えているだけで、本当はほんの一日程度だったりするのではないだろうかとケータイのカレンダーを確認するも、本当に一週間(正確には、六日と半日)過ぎていて、愕然としたのは言うまでもない。

「家に着いて電話したら出ないから、公園へ行ってみればあんたったら、仰向けで倒れてたのよ」

 それも、苦しい表情で――と、叔母さんは笑いながら言う。きっと心配していたんだろうけど、底抜けのないこの明るさは、その片鱗さえ感じさせないものだった。それこそが、叔母さんのすごいところではないかと、再認識する。

「何があったの?」

 と、叔母さんはその紺碧の双眸を大きく開いて、俺の顔を覗き込んだ。

「何があったって、たしか……」

 俺は病室の白いベッドの上で上半身だけを起こした状態で、その時のことを思い返す。


 ……あれ、なんだったっけ。思い出せない。


「思い出せないの?」

 今度は希が歩み寄ってきて、顔を傾げる。俺は腕を組み、うーんと唸った。何か思い出せそうで、思い出せない。この胸に何か詰まっているような、嫌な感覚。ちょっとした切っ掛けで、それは解消しそうなのだが……。

「それこそ昔は身体が弱くて、泣き虫だったけど……最近は風邪もひかないくらい馬鹿みたいに丈夫なんでしょ?」

「馬鹿みたいに丈夫とは失礼な人だな……」

 そう言うと、叔母さんはクスクスと笑う。俺を微笑んでみるその視線は、俺の中に在る“誰か”を見透かしていたように感じた。

「あんたの父親も、馬鹿みたいに丈夫だったもの。親譲りね、そういうところも」

 母親のように優しく微笑み、叔母さんは俺の鼻先を指でちょんと触れた。俺は思わず顔を逸らしてしまった。恥ずかしいのと同時に、俺の中の誰を見ていたのか、わかってしまったからだ。

「あら、恥ずかしがっちゃって」

「ホントだー」

 希と叔母さんは顔を見せ合って、笑っていた。ったく、子ども扱いしやがって……。

 しかし、何も思い出せないってのも不思議なもんだ。特に外傷があるわけでもないし、脳に異常があるわけでもないとのこと。それなのに、僅かの間だけ聴いた“声”は、覚えている。


 女性の声。あの時、誰かがいた。


 そのことを、俺はどうしてか……誰にも言えなかった。理由はわからないが。





 目が覚めたその日、精密検査をした結果、特に問題はないとのことだった。ただ、様子見のためにもう一日入院することになり、退院するのは翌日の昼ということになった。せっかく学校も一週間以上休めたってのに、ただ気を失っていただけなので無為に時間を食っただけだ。それだけの時間があれば、有意義で建設的なことを行えたはずなのにと思う。その一方で、実際にそういった時間があったところで、半分以上を無為に過ごすだけのような気もする。

 そう言えば……趣味らしい趣味は無いことに、改めて気づく。休みの日に、何かをするわけでもなく本を読んだり、テレビを見たり、妹たちの相手をしたりするだけで、夢中に取り組むことなど何も無いように思う。読書が趣味かと問われても、おそらくそうではない。月に3~5冊程度しか読まないし、希や翠の方がよっぽど読むほうだ。


 ああ……だからかもしれないな。俺に、友人がいないのは。


 退院し、祖母ちゃんの運転する車の中で俺は気付く。外は久々の雨で、じめじめした空気が世界を侵食して、道端にたくさんの水たまりを作っていっていた。それらの原因である灰色の雲は、青い空をすべて遮る。雨の日が好きだなんて人は、この世にあまりいないのではないだろうか。不安や後ろ向きなことを考えるのは、いつだって暗い日だと思うから。


 家に着き、玄関の扉を開けると葵が出迎えてくれた。先日買った水色のワンピースを着て、リビングから猫のように静かな足音を立てながら、俺に抱き着いてきた。こう何度も実の妹に抱き着かれてしまうと、もう恥ずかしいやら何やら……。まぁあれだけ泣かせてしまったのだから、葵の甘える気持ちに応えてやらねばとも思う。俺には想像できないほど、心配したんだろうし。ただ、葵の激しい愛情表現を受ける俺を見て、家族が気味の悪いにやけ顔をする度に、俺は言いようのない恥ずかしさと憎らしさで一杯になる。


 ……そろそろ、離れてくんないかなぁ……兄ちゃん、恥ずかしいよ……葵。



 昼食が準備されている間、俺は母さんの部屋に向かった。中では、翔の寝顔を見ながら、ベッドの上で微笑む母さんの姿があった。

「ただいま、母さん」

「おかえり。……体は大丈夫?」

 母さんは俺の顔を見るなり、心配そうな視線を向ける。いつも俺が問うようなことを、母さんにさせてしまうなんて、長男として失格だな。

「ああ、もちろん。そもそも、体は何ともないんだから大丈夫さ」

 俺は母さんの不安を掻き消すために、笑顔を浮かばせてそう言った。

「それなら……よかった。心配したのよ」

 ふと、母さんの表情が泣きそうな葵の表情と被る。だけど、それは想像以上に俺の胸へ自責の想いを積み上げるだった。ズキン、とはっきりした音を起こすほどに。

「ハハハ、ごめん」

 俺は作り笑いをして、その場に胡坐をかいて座った。なんとか母さんの心配を払しょくさせなければ、と強く思う。

「本当になんともないんだよ。ほら」

 俺は大きく両手を広げてみせた。なぜそうやってしまったのかわからないけど。

「…………」

 すると、母さんは優しく笑って、傍で寝ている翔の頭をなで始めた。俺も少しだけホッとして、小さく息を吐いた。

「……昔ね、似たことがお父さんにもあったのよ」

 母さんはまるで独り言のように、言った。その視線は、翔の方に向いたままで。

「小さな頃から滅多に風邪もひかないような人が、唐突にね。望と同じ年齢の頃に」

「……高校生の時に?」

 ええ、と母さんは頷く。

「それは、どうして?」

「あの人の場合は、頭痛だったわ。それも、経験したことのないひどい痛み」

 頭が割れるようだ――と、親父は言っていたそうだ。

 そうだ……あの時、頭痛ではないけれど、意識を保てないほど視界が歪んだのだ。そこに立っているのが困難だった。

「変な声が聴こえるって……」

「……変な声?」

 俺は思わず、首を傾げた。

「自分を呼ぶ声。聞いたこともない声が、自分を呼んでいる。頻繁にあって、何度も意識を失って」

 母さんは顔を上げ、俺をじっと見つめた。叔母さんと同じ、紺碧の瞳。それはまるで、俺の全てを見透かしているかのようだった。

「……俺は大丈夫だよ。今まで、そんなことなかったじゃないか」

 その言葉を言うつもりがなかったのに、俺はなぜか繕うようにして言ってしまった。

「そうね。でも、何かあったら……ほんのちょっとした変化でも、誰かに言って。あなたも希も、隠そうとするから」

 母さんは小さく笑った。なぜか胸の奥が、ズキンと音を立てて痛む。言い当てられたような、感覚だった。

「わかったよ。何かあったら、すぐに言うから。それに、今まで隠そうとしていたことなんて、ほとんどないと思うんだけど」

 俺は思わず苦笑した。

「……あなたと希には、いつも無理をさせていたから。あなたたちはまだ子供なんだから……と思って」

 母さんも俺と同じように、苦笑する。どこかお互いにぎこちなくて、それは心の奥にある触れづらい“何か”があるから。俺も母さんも、それに触れないようにしてお互いを見ている。その傷を開けば、きっと戻れないくらいに傷付いてしまうとわかっているから。




 希が作ったいつもどおりの昼食を食べて、いつもどおりの会話が弾んで、いつもどおりの自分の部屋に戻って。普段通りの日常が、ここにある。それは俺を安心させるのと同時に、それがいつか――遠くない未来に、崩壊してしまうのだろうという危険性を孕んでいる。母さんと話していると、その危険性を見てしまうようで、怖い。

 だから、少しずつ遠くへ行こうと思ったのだ。まずは高校から。その次は、大学。そして就職。暖かい家族から、離れていく。そうやって、痛みを少なくしようとしている。

 ――だけど、それがどんなに馬鹿馬鹿しいことなのかなんて、すぐに気付く。今の温もりを、その大切な時間を……なぜ、捨てようとするのか。自分の責任やすべきことを放置して、痛みから逃げようとしている。

 わからない。この温もりを味わえば味わうほど、わからなくなっていく。だから余計に、泣きそうになる。

 泣きそうに――なってしまう。


 その時、コンコンと部屋がノックされる。俺が飛び起きるのと同時に、返事を待たずして扉が開く。

「……元気?」

 部屋に入ってきたのは、仏頂面の翠だった。今更、その質問をするのは些かおかしいと思うのだが。

「元気だよ。さっき一緒に飯食ったろ」

「飯を食うことで、元気さがわかるほど私は頭良くないよ」

 ……そうなのか? と思い、俺は顔をしかめる。相変わらず、対応に困る妹だな……。翠は扉を閉め、そこにもたれかかった。まるで、誰も入れないようにするために。

「で、どうかしたか? 翠が俺の部屋に来るなんて、珍しいし」

「そうだっけ?」

 視線を合わせず、翠は言った。葵とは違う意味で口数が少ない彼女は、もしかしたら反抗期というやつなのかもしれない。希ともあまり会話をしないし、ずっと読書をしている姿ばかりだ。

「ただ、少し気になることがあって」

「……何が?」

 俺はすぐに問い返す。すると、翠はポリポリと頭をかきながら、俺にようやく視線を向けた。

「あの時、付いて行ってたんだ」

「あの時ってのは?」

「兄貴が倒れた日」


 ――!?


 俺は思わず、目を見開いた。

「じゃあ、何が起きたのか……見ていたのか?」

 そう問うと、翠は大きく頷く。

「兄貴と叔母さんが出て行ったから、興味本位で付いて行った。……公園で、兄貴は急に倒れて。そしたら、黒装束の二人が明りのない所から出てきた」

 それはフッと、灯が宿るかのようにして現れたのだと、翠は言った。

「……どんな奴だった?」

「暗がりでよくわからなかった」

 即答。本当に即答だった。俺は思わず、大きく肩を落としてしまった。

「そ、そうか」

 それは残念だ。……少しでも手掛かりがあれば、よかったんだけどな。

「ただ、名前を呼ぶ声は聞き取れた」

 俺はその言葉で、再び顔を上げた。そして、翠は淡々と続ける。



 ――たしか、リンカって。



 リンカ――その名前に、一人だけ思い当たる。

 近衛凛夏――うちの高校の先輩だ。





 それは、本当に偶然なのか。それとも、必然なのか。

 俺たちが出逢ったのは、“運命”という単純な言葉で済ませられるのだろうか。



 でも、俺は後々に思う。


 全ては“そうなるように仕向けられていた”のだと。




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