3話 僅かな面影
「おっかえり~!」
家に着き玄関を開けるなり、ショートカットの女性が飛び出してきた。このテンションの高さ、久々すぎて驚いてしまう。ちなみにこの時、希が彼女の犠牲になっていた。
「希はますますかわいくなったねー! 昔のお姉ちゃんにそっくりで困るわ~」
「お、叔母さん、久しぶりなのはわかるんだけど……く、苦しい……」
「お前もたまには葵の気持ちを理解しろってことだ」
「あ、葵も大変だったのね……反省する」
と、希は叔母さんに抱きしめられながらしょんぼりしていた。俺は2人をよそ目に玄関から上がり、手洗いのために洗面所へと向かった。
「叔母ちゃん、こんにちはー」
「あら葵、久しぶり! こんにちは! 元気だった?」
「うん!」
葵もニコニコしながら、挨拶をかわす。賑やかな人が来たということで、これからちょっと疲れるような気がしなくもない。やっぱり、俺が早起きすると何かしら起きるのかもしれない……。
3話
――僅かな面影――
小谷野海――
母さんの双子の妹で、俺たちの叔母さん。俺と希とは違い一卵性双生児のため、母さんとは顔がそっくりである。とは言っても、性格は真反対。物静かで、いつも穏やかに微笑んでいる母さんとは違い、叔母さんはよくしゃべるし、大きな声で笑ったりもする。かしましい、というのかもしれないが、典型的な“明るい人”なのだとも言える気がする。希をバージョンアップさせたような人だ、と母さんと祖母ちゃんに言ったら「的確すぎておもしろい」と言われた。その時、希に殴られたのは言うまでもない。
俺たちが生まれた時、母さんと叔母さんはまだ17歳で、高校生だった。ほぼ毎日のように俺たちの世話をしてくれていたようだが、あまり覚えていない。叔母さんは高校を卒業するのと同時に、都心の大学に進んだため家を出た。だからか、物心がついてから顔がそっくりな叔母さんを母さんと困惑することは、あまりなかったようにも思う。もちろん、最初はどっちがどっちかわからず、戸惑っていたようだが。
あまりこっちには帰って来なかったけど、母さんが体調を崩してからはよく帰ってくるようになった。当時は叔母さんも結婚したばかりで、妊娠もしていて大変だったのに、俺たちだけでなく、幼い翠と葵の面倒をよく見てくれた。それもあってか、翠と葵は叔母さんによく懐いている。いろいろ大変だったはずだけど、叔母さんは「子供が生まれる前の予行練習よ」と言って、よく笑っていた。
叔母さんには子供がいて、女の子で「光〈ヒカリ〉」という。今年の春、小学校に入ったばかり。今、母さんの部屋で翔の世話をしているのだとか。
「それにしてもあんた、また背、伸びた?」
リビングで俺を見上げながら、叔母さんは頭をかしげた。
「そんなに伸びてないと思うけどな……」
「いやいや、2年も経てば伸びてるでしょ。今何センチ?」
俺は腕を組み、うーんと唸った。はて、何センチだっただろう? たしか、以前の健康診断の時は……。
「たぶん182、くらいだったと思うけど」
「182!? あんた、どれだけ大きくなるつもり!?」
叔母さんは大げさに驚いて、背伸びをして俺の頭をなで始めた。
「あのー、やめてください」
俺は軽く叔母さんの手を弾き飛ばした。叔母さんはなぜか、「ちっ」と舌打ちをかました。
「あの可愛い望ちゃんがこんなに大きくなるなんて……生まれた頃には想像できなかったなぁ。叔母ちゃん、ちょっと悲しい」
はぁ、と叔母さんは頬に手を添えてため息をついた。なぜ勝手なところで、勝手に落胆されなければならないのか……。
「ん? 待てよ。182センチってことは……望って、もう空より大きいんじゃない? ねぇ、おばさん」
と、叔母さんはキッチンで希と一緒に昼ご飯を作っている祖母ちゃんに訊ねた。
「どうかしらねぇ~。でも、当時のあいつよりでかいことは確実だわね」
「やっぱり? 親子揃って私を見下ろしやがって……嫌味?」
「……なんだよ、その言い掛かりは……」
なぜか叔母さんは俺を睨む。どうも、昔から背が低いことを親父に馬鹿にされていたそうだ。とは言っても、叔母さんはこの国の女性の平均的な身長のため、小さいわけではないと思うのだが。
「まったく、少しは私たちの身になってほしいもんだわ。見上げてると首が痛いんだから」
あーやれやれ、と叔母さんは自分の首をさすり始めた。
「空に感謝しなさいよ? 背が高い男ってのは、それだけでお得なんだから」
「どっかの特売かよ、俺」
叔母さんの変なたとえにはため息が出てしまう。それに親父と比べられるのは、あまりいい気はしない。
「んで、その親父はまだ帰ってないの?」
叔母さんはそう言いながら、キッチンの方へ行って希たちが何を作っているのか覗き込んだ。
「希たちが中学卒業間近の頃からだから、もう2年は帰ってないわね。どこで何してるの知らないけど」
「あら、そうなの。そろそろサイクル的に帰ってきてもおかしくないんだけど」
「お父さん、彗星か何かなの?」
と、希はちょっと笑って訊ねた。
「そうそう。気まぐれに見えて、実はきちんと周期守ってるのよ。ハレー彗星、みたいなね」
「それだったら、死ぬまで帰って来ないじゃない」
叔母さんの冗談に、希は小さく笑っていた。
たしかに、よくよく考えてみたら2年くらいで帰って来ていたような気がする。それは父親として“どうなのか”と思うが。
俺は親父が好きでない。というよりも、親父の行動が許せない。
親父が家を留守にするようになったのは、母さんが体調を崩し始めた頃だった。急に「しばらく、家を出ることになる」と言って。
なぜ、あんな状態の母さんの傍にいないのだろうか。
俺や希はともかく、なぜ幼い翠と葵を放って出て行ったのか。
俺は男だし、長男だからいい。でも下の妹たちは違う。ほとんど親父と遊んでもらった記憶はないんじゃないだろうか。翠は真ん中だったから、我慢することは多々あったのだと思う。元々本音を言う性格じゃないから、それを出そうとはしないけれど。葵が俺たちに甘えるのは、親父と母さんに甘えられなかった。母さんはしょうがないが、親父はもっと接することができたはず。傍から見れば“放置している”ように見えてもおかしくないのだ。
母さんも、自分が苦しい時に親父が傍にいなかったというのは、本当に心細かったんじゃないだろうか。いくら俺たちがいるといっても、やっぱり親父にはかなわない。2人が本当に愛し合っているのは、普段の生活から簡単に感じ取れるほどだったから。
祖父ちゃんの葬式の時に、それを強く感じた。
祖父ちゃんは、3年前、交通事故で死んでしまった。13台の車・バスを巻き込む大きな事故で、死者は48名。当時、連日ニュースになった覚えがある。祖父ちゃんは仕事の関係でバスに乗っていて、その事故に巻き込まれた。祖父ちゃんが乗っていた位置は、本来であれば“無事なはず”だった。しかし、衝撃で崩れてきた高速道路の高架から幼児を守ろうとして、命を落としてしまったのだ。
事故の報せを聞いて、親父は海外からすぐさま帰ってきた。その時も、2年ぶりだったと思う。
祖父ちゃんの葬式が終わり、火葬場でのことだった。
その時、親戚や祖父母の知人が集まり、食事をしていたのだが、ほとんどが初めての人ばかりで、寧ろ「赤の他人」と言った方がしっくりくるのではないかと思うほどだった。もちろん、それは亡くなった祖父ちゃんにとっての「知り合い」であって、俺や親父たちの「知り合い」ではないのだが。
「翔一さんも、物好きだったわよね」
「そうそう、子供を引き取ったりして。しかも、下の子は事故で亡くなったんでしょう?」
そんな中年のおばさんたちのひそひそ話が、20人以上いるその空間の中で、俺の耳に入ってきた。俺はたまたまトイレに行っていて、その席に戻ってきた時で、その人たちの近くを通ってしまったからだ。
「そんなに稼ぎも多いわけじゃないのに、無理に引き取る必要はなかったと思ったわ」
「ほんと、昔っから物好きな人だったわよ。親が親なら、息子も息子だけれど」
「子供が子供を作って……常識がないというか、ねぇ」
それが親父たちのことを言っているのだと、俺は何となくわかった。親父と母さんは、学校の同級生の親御さんに比べたらかなり若い。それもそのはず。母さんが俺たちを産んだのは、まだ17歳の時。当時、親父も18歳。2人は高校生だった。事情を知らない人から“その事実だけを見れば”常識がないと思われるのは当然だったのかもしれない。
そして、後に知った。
親父は養子なのであるということを。
引き取った祖父を、その人たちは“物好きな偽善者”だとも言っていた。
「お人好しだとは思ったけど、今回もそれが原因とはねぇ。たまには“見て見ぬふり”をすればいいのに」
当時中学生だった俺は、我慢することはできるはずもなかった。自分の祖父を侮辱されて――しかも、当人の葬式が行われ家族がいる場所でそんな言葉を発する奴らを、誰が許せるだろうか。俺は席に戻ろうとした足を止め、踵を返してそのおばさんたちの下へ行った。
「あらぁ、望君。どうしたの?」
座っている自分たちの前で見下ろす俺に気づき、その人たちは“なんの生産性もない下劣な誹謗中傷でしかない会話”を止め、醜悪な声色ですっとぼけた顔をして見せた。
よくもまぁ、知らない振りができるものだ。少しは聞かれたんじゃないかってビクビクした方が、怒りは増さないのに。
その時、誰かが俺の手を止めるかのように、握りしめてきた。
「望、やめなさい」
それは、母さんだった。小さく、顔を横に振っていた。母さんは“俺が何をしようとしていた”のか、わかっていたんだと思う。
「でも、母さん。俺……」
何を、言おうとしたのだろう。今となってはわからないけれど、おそらく、「殴らないと気が済まない」という本音を言いたかったのだと思う。でも、母さんはきちんと理解してくれていて、優しく微笑んだ。
「望がしなくてもいいの。大丈夫だから」
母さんはそう言って目を瞑った。かと思いきや、俺の前に立ち、そのおばさんたちを見据えた。
「亡くなった義父〈ちち〉と、夫に対する侮辱は許しません。出て行ってください」
凛とした、はっきりとした口調で、母さんは言った。その瞬間、この席が静まり返ったのは言うまでもない。と同時に、母さんを知る人は驚いていたのではないだろうか。これほど怒りを露わにしている母さんが、そこにいるのだから。
「な、何を言っているの? 侮辱だなんて私たちは……ねぇ?」
一人のおばさんは、苦笑しながらもう一人のおばさんに訊ねた。そのおばさんも、「そんなことするわけがないじゃない」と笑って誤魔化そうとしていた。
「私ははっきりと聞きました。尊敬すると義父と、愛する夫を侮辱された妻として、あなたたちがこの場にいることは我慢なりません。出て行ってください」
母さんの声は、この空間に静かに、突き抜けるように発されていた。ここまで怒っている母さんを見たことのない俺は、ただただ驚くばかりだった。それはきっと、離れて座っていた希もそうだったと思う。
「あなたね、遠路はるばる来てやったっていうのに、なんなのその失礼な台詞!」
おばさんもカチンときたのか、立ち上がって激昂した。
「それに、本当のことでしょう? お人好しが祟ってこうなったんじゃないの」
幼児を助けなければ、死ななかった。そういうことなのだろうと思う。だけど、それを――その行動を“お人好し”という言葉で括るのは、暴力的だと感じた。どうして、そういう捉え方をするのだろう。俺にはそれが理解できなかった。
「……きっと、あなた方には理解できないでしょう。お義父さんの行動を」
母さんは、さっきと違いどこか……諦めにも似た、哀しそうな声でそう言った。いや、哀れんでいるかのように。
「赤の他人を助けるということが、どれほど難しいことで、勇気のいることなのか……。あなたたちには、絶対に理解できないでしょう。そうやって、その行動を蔑むことしかできないのだから」
「あなた、私を馬鹿にしているの!? いい加減にしなさい!」
「いい加減にするのはあなたたちです!」
怒号を放つおばさんに対し、母さんはそれよりも大きく、怒りに満ちた声を上乗せした。
「私自身が侮辱されようが、蔑まれようが構いません。でも……お義父さんと空を……私の家族を馬鹿にすることだけは、絶対に許さない!」
おばさん以上の怒号が、響き渡る。華奢な体格の母さんの中から、どうやったらそんな声が出るのだろうかというくらいに。
「私たちのことを何も知らないのに、つまらない噂やくだらない価値観で適当に話を作って、それを面白おかしく人に話して、陰でこそこそと人の悪評を立てて、何が楽しいの? そうやって他人を蔑んでいて、何が生まれるんですか?」
母さんはずいと、一歩前に出た。思わず、おばさんは後ずさりをした。
「私は誇れる人生を歩めていると、胸を張って言えます。そうさせてくれているのは、子供たちと……他ならぬ、夫のおかげです」
その時、母さんは歯を食いしばったように見えた。今にもはち切れんばかりの想いが、感情がそこに滞留しているかのようだった。
「彼がいるから、私はここにいる。あなたに……あなたたちに、自分をそう言ってくれる人がいますか? 仮にいるのだとしたら、その人を馬鹿にすることはできないはずです。絶対に」
母さんはそう言って、睨みつけるようにその人たちを見つめた。自分の存在価値を――意義を“与えてくれる”人。その人をけなしたり、見下したりすることなどできない。誰もが、そういった人がどれだけ大切な人であるかを知っているから。
「空、もういい」
その時、親父がいつの間にか母さんの隣に来ていた。親父は喪主だったから、お坊さんとどこか別の場所で話をしているのだと思っていた。
「でも……」
母さんは何かを言いたげだった。だけど、父さんは優しく微笑んで、小さく顔を立てに振った。まるで「わかっているよ」とでも言っているかのように。だからか、母さんも親父と同じように、優しく微笑みを浮かべた。
そのやり取りで、俺は2人が――親父と母さんは、俺たちが思っている以上の何倍、数十倍の固い絆で結ばれているのだと悟った。お互いがお互いのことを知り尽くしているような、それも指紋の数や癖の全てさえも。言葉を投げかけなくたって、2人だけの見えない言霊が心を通わしている気がした。
それはどれだけ相手を思い遣れば――どれだけお互いを愛せば、愛されれば辿り着ける世界なのだろう。俺たちの“親”である前に、2人は“ヒト”なのだということを知った。
「望にい、どうしたん?」
幼い声――ヒカリの声で、俺はハッとした。叔母さんと一緒に母さんの寝室に来て、ヒカリの遊び相手をしているんだった。ヒカリはポカンとした表情で、俺を見上げている。
「……いや、なんでもないよ」
と、俺は誤魔化しの作り笑いを浮かべた。それさえも彼女はよくわかっていない様子だった。しかし、ヒカリはすぐに子供らしい笑顔をして見せて、「あのねー」と言ってきた。わからないことは放っておいて、自分の話を聞いてもらいたいもんなんだなと思った。
「うちね、クラスの委員長に選ばれたんよ! すごいじゃろー」
「へぇ、委員長か。俺なんか選ばれたことないな」
ヒカリは屈託のない笑顔で話してくる。そこには何も混じりっ気のない、純粋な笑顔なのだということが如実に伝わってくる。何かの本で見たことがあるが、幼い子供は“自然”なのだそうだ。表情の一つ一つ、仕草の一つ一つに打算的なものは含まれていない。そういう術を身に着けていないのだ。
世間で――この社会で生きるのに必要な術であるはずなのに、どうしてか、それを身に付ければ付けるほど、自分を偽っているような――重苦しい心になっていく気がする。
「ヒカリ、随分あっちの方言喋るようになったね」
と、ベッドで横になっている母さんが言った。今日は思いのほか体調は良く、きちんと食事も取れるほどだった。いつもは一日2食くらいなのだが。
「そうなのよ。どんどん旦那の言葉を真似しちゃって。私といる時間の方が長いのに」
叔母さんはため息をついて、ベッドの横のソファーに座った。
「そういうものよ。翔だってほとんどパパとは会ってないけど、口癖を真似したりしてるから」
母さんはそう言って、クスクスと笑っていた。その翔はというと、ヒカリの隣で体育座りをして、ボーっと彼女を見ている。
ヒカリの父親――叔父さんは西日本の出身で、方言が独特なのだ。こっちは標準語だから、少し興味深いものではある。
「口癖? 空の口癖ってなんだっけ?」
「ほら、よく“まぁ”とか、“~っての”って言ってなかった?」
すると、叔母さんは閃いたかのように指を鳴らした。
「あぁ……言われてみれば、昔っからそうだった気がする」
親父と母さんたちは昔っからずっと一緒だったらしく、祖母ちゃん曰く、ほとんど兄妹のように育ったのだという。
――どうして、親父は母さんを選んだのだろう。
叔母さんと母さんが話しているのを見ていると、時折思ってしまう。傍から見れば、そっくりなのに。それが結婚した18年前なら、尚更だ。でもそれは、あまり聞いてはいけない――タブーな、そして繊細な箇所なのかもしれない。祖母ちゃんたちからしたら、簡単な理由、若しくは容易に理解できる理由なんだろうけど。
「望にい!」
「いて」
べし、と俺はヒカリに頭を叩かれた。まずい、またもや話しかけられていたことに気付かなかった。
「さっきからうちの話、全然聞いてないやろ!」
「ご、ごめんごめん。ちょっとボーっとしちゃって……」
俺は苦笑しながら謝るものの、ヒカリの表情はブスッとした機嫌の悪いものになったままだった。
「もういい! 翔、あっちで遊ぼ!」
「……?」
と、ヒカリは立ち上がってキョトンとしている翔の手を握り、そのまま寝室から出て行ってしまった。
「あーあ。望、後で謝っておきなさいよ~。あの子、結構根に持つタイプだから」
「そ、そうするよ」
しまったなぁ……どうも、最近妙に考え込んだりしてしまって、人の話が耳から耳へと、突き抜けて行ってしまっている。
その時、こんこんと襖をノックする音がした。「入るよー」と声がして、おぼんを持っている希が入ってきた。
「叔母ちゃん、お茶持ってきたよ」
「あらあら、ありがとね希」
「お母さんも冷たいので良かった?」
「ええ、ありがとう」
はい、と希は2人にガラスのコップのお茶を手渡した。
「お兄ちゃんもいる? ついでに持ってきたけど」
「もらうよ、サンキュ」
しかし、“ついで”は余計だろーよ。と思いながら、冷たい緑茶をすする。
「ヒカリ、怒りながら翔引っ張って2階に行っちゃってたけど。何かしたの?」
と、希は訊ねてきた。俺はその質問に思わず、苦笑いをしてしまった。
「まぁ……ちょっと怒らせてしまいましてね」
「あらま。とばっちり食うのは翔なんだから、ちゃんと相手してあげないと」
「そうは言ってもなぁ……。めちゃくちゃ喋るんだもんよ」
普段会っていないし、話したいことは山のようにあるのはわかるんだが。
「何言ってんの。ほとんど妹みたいなもんでしょ? 可愛い妹が3人もいるんだから、慣れたもんでしょうが」
「……お前、それ自分も含めてる?」
俺は思わず、訝しげな表情を浮かべて言った。
「え? だ、ダメかな?」
「おいおい……」
目をパチクリさせながら、希は無理やり作ったかわいらしい笑顔で言った。そういう今作ったわかりやすい顔したって、可愛いだなんて思わないっていうのに。こちとら、何年お前の顔見てると思ってんだ。
「葵と翠はともかく、ぴーちくぱーちくうるさいお前が可愛いとは思わんね」
「はぁぁ? チョップ!」
ズビシ。希のチョップが俺の脳天に振り下ろされた。
「てめぇ……何しやがる!」
「お世辞でも良いから、可愛いね、くらい言いなさいよ!」
ビシッと俺に指をさして、彼女は言う。
「なんで双子のお前にお世辞言わなきゃなんねぇんだよ!」
てか、お世辞でもいいのかよ……と心の中で突っ込みを入れてみた。
「いつもご飯作ってあげてるんだから、感謝の意味も込めて言ってほしいなー」
と、希は俺の隣に座って祈るように両手を合わせ、物欲しそうな双眸で俺を見てきた。俗に言う“うざい”というやつだ。俺もさっきの希と同じように、チョップを振り下ろした。しかし、それは彼女の十字ブロックで防がれてしまった。
「女の子に暴力、反対ですよ!」
なぜにですます口調……?
「こんなの暴力の範疇に入らないだろ。お前、俺が本気で暴力してきたらどうすんだ?」
俺は呆れながら、そう訊ねた。
「本気で? うーん…………」
すると希は腕を組んで、唸り始めた。
「……でもお兄ちゃん、そんなことしないじゃない、絶対に。そうでしょ?」
希はそう言って、屈託のない子供のような笑顔をして見せた。いや、子供なんだけど、まるで本当に無邪気な何も知らない幼い子供のように。
なぜだか俺は恥ずかしくなってきて、自分の頬が若干赤くなっているような気がして、思わず希から顔をそむけてしまった。
「あ! 照れてるんでしょ?」
「うっせぇ、チョップかますぞ」
「照れてる照れてる~」
ムカつく声で、希は俺の二の腕辺りを指で突っついてきやがった。くそ、これでは俺がこいつに遊ばれてしまっているみたいじゃないか……。
「なんだか、兄妹っていうよりもカップルに見えるよね」
望と希の楽しそうなやり取りを眺めながら、海は呟くかのように言った。「そうね」と、空は笑顔で小さく頷き、お茶をすする。
「いっつも2人一緒だった昔が懐かしいわ。望も希も怖がりで、お姉ちゃんたちの手を繋いでさ」
私が大学生の頃は、たまに帰ってくる私を怖がっていたもんだ。理由なんて想像するのに難しくないけど、大きくなったんだなぁ。
そう思いながら、彼女は当時と今の彼らの姿を重ね合わせていた。
「ああいう姿を見てると、望は空に似てるわね。見た目はあんまり似ちゃいないけど」
「そうね。マイペースで、いつもボーっとしてるように見えて、実はなんでもこなしてる。そういうところも、空そっくりよ。勉強に関しては、放っておいても一番取るくらいだから」
夫の昔の姿を思い浮かべながら、空は優しく笑った。
「あの三瀬高校なのに……。そんなに勉強だってしていないんでしょ?」
「らしいわね。担任の先生からたまに言われるもの。“ノートをとってください”って」
「ハハハ、さすが」
と、海は期待通りの高校生になっている望を想像し、笑ってしまった。ある意味たくましく育ってくれて、叔母として安心したわ――と思いながら。
「望も希も、勉強に関してはお姉ちゃんに似てよかったね」
「似たのかしら?」
うーん、と空は苦笑した。
「空に似たんだったら、勉強は中の中に決まってるじゃない」
昔の“彼”を思い出すと、いつもそうだったなと彼女は思う。
「兎にも角にも、仲良さそうで安心した。少し、心配してたんだけど」
海はそう言って、小さくため息をついた。それは安堵のものであった。
「心配って?」
それに対し、空は一呼吸を入れて訊ねる。
彼女にはわかっていた。海が“心配していること”がなんなのかを。寧ろ彼女が家にやって来るのは、それを確認するためでもあったのだ。
「空に対してよ。……これだけ帰って来なければ、“放置されてる”って思ってもしょうがないじゃない。理由があるにせよ、ね」
「…………」
「望は優しいから、下の妹たちにそういう風に思ってほしくないんでしょう? 寂しい想いだって、させたくないはず。でも、それは望がいくら頑張っても――希がいくら頑張っても、2人には勝てないのよ」
父親代わりをしても、母親代わりしても、絶対に敵わない。それはきっと、彼ら自身が一番よくわかっている。だから、もどかしいのだ。
「きちんと言えばいいじゃない。ちゃんとした理由があるんだって」
「……それは……」
空は声を小さくして、俯いた。ふと視線を望たちに向けると、2人はお互いに言葉を投げ合いながら、痴話げんかを続けていた。
「空が言うなって?」
「…………」
空は海の問いに、ゆっくりと首を横に振った。それは自分自身が口止めしているのだということを指しているのか、と海は思った。でもきっと、それだけじゃないはずだとも思う。彼女は目を瞑り、ゆっくりと息を吐いた。
この話は、もうよそう。
「ところで、どうなの?」
目を開いた海は、そう言った。その言葉は、いつも帰って来た時に投げかけられる問いだった。
「去年よりはいいと思う。暖かくなってきたら、冬に比べたら楽かな」
「そっか、それならよかった」
去年よりは――
そういう返し方は、いつもと変わらない。双子なんだから、ある程度のことはわかっているつもりだった。だから、いつもと同じ返答であっても、彼女は少しだけホッとしたように見せていた。でもきっと、お姉ちゃんはわかっている。私がわかるのだから――と。
「今年も桜を見ることができたわ」
空は呟くかのようにそう言って、自分のいるベッドから見える窓の外を眺めた。ほんの3畳ほどの広さしかない庭には、優しげな緑色に染まっている草が生い茂っていて、あちこちに淡い桃色の花が芽吹いていて、穏やかな日光を受けながら小さく揺れていた。
私は――春が好きだ。たくさんの花々がそれぞれの命を輝かせて、多種多様なその一瞬でしか表すことのできない色を私たちに見せてくれて、世界には薄っぺらい白い雲をたっぷり含んだ淡い色の青空が広がっていて、何があるわけでも、何かが決まっているわけでもないのに、なぜかわくわくしている自分がいて。たぶん、それは私だけじゃないはず。
春は、そんな季節。
何かが始まりを告げる音を、鳴らしてくれる季節。
星の声が、風に乗って私たちの心に届けられるんだ。