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BLUE・STORYⅢ  作者: 森田しょう
第一部 盲目の子羊たち
3/10

2話 求められるものと、その在処


「ただいま」

 いつものように帰宅の言葉を出し、あまり大きく音がしないようゆっくり扉を閉める。ばあちゃんが「あんたは力が強いんだから、優しく閉めなさい。それで“人様の普通”なんだよ」と言われていたからだ。特に深い意味はないと思うが。

「あ、お帰りなさい」

 リビングから顔を出したのは、希だった。あいつは俺と同じで、帰宅部。今は18時過ぎだが、希はいつも5時前後には帰ってくる。

「おう」

 と、俺は生返事をして廊下などに目をやった。いつもなら葵が出迎えてくれるのだが、姿はまだ見えない。二階にいるのか?

「今日は早いんだね、えらいえらい」

「昨日の今日だからな、そりゃちゃんと帰るさ」

 希は大きく頷きながら、ニコニコ笑っていた。セリフがまるでどっかのオカンだぜ……。既にエプロンを付けていて、もう晩御飯の準備は着々と進んでいるようだった。

「母さんは?」

 そう訊ねると、希は「リビングだよ」と言って、再び自分の仕事場へと戻っていった。珍しいな、夕食時に母さんがリビングにいるなんて。日が暮れると、母さんはよく体調を悪くしがちだった。顔が青白くなっていくというか……。生来、低血圧なせいもあるんだろうが。

 靴を脱ぎ、リビングへ向かった。そして入ろうとした瞬間、ひゅっと希が顔を出した。驚いた俺は思わず、目を見開いて一歩後ろに下がってしまった。

「な、なんだよ?」

 すると、希はニヤっと笑みを浮かべた。

「葵の弁当、どうだった?」

「どうって……まぁ、初めてにしては上出来だったと思うが」

 希に合わせた結果、なぜかヒソヒソ声になってしまっていた。

「超プリティじゃなかった?」

「……なぜ知っている?」

 と聞き返すと、希は笑いを堪えながら俺の方を叩き始めた。なんなんだこいつ、変なもんでも食ったのか?

「葵ね、私の弁当とお兄ちゃんの弁当、間違えちゃったらしいの」

 笑っちゃダメだと思っているのだろうが、こいつは我慢できずに声が少し漏れてしまっていた。おそらく、俺があんなプリチーなお弁当を食べている姿を想像してしまっているに違いない。気持ちはわからんでもないが、なんかムカつくので軽く頭を叩いておく。

「いたっ! もう、叩くことないじゃない」

「ったく……。んで、葵は?」

 そう訊ねると、希は頭をさすりながらリビングの方に目をやった。俺はリビングに入り、キッチンの方から反対側のソファのある方へと目を向けると、母さんがそこに座っていた。葵は母さんに抱かれて、頭を撫でられている。

 さて、励ますとするか。








2話

――求められるものと、その在処――







「あら、お帰りなさい」

 俺に気づいたのか、母さんはこちらに顔を向けた。その瞬間、葵も俺に気づき、顔を隠すかのように母さんに抱きついていた。

「……これはどういう状況?」

 俺は母さんに苦笑しながら訊ねた。母さんも同じように苦笑している。それを見て、大体の状況は飲み込めてきたが。

「ほら、葵……間違えちゃったじゃない。それでショック受けちゃって……」

「そうだよなぁ……」

 せっかく頑張って作ったのに、最後の最後にやらかしてしまったんだもんな。そりゃショックを受けるさ。

「いい加減、落ち込むのやめたら?」

 と、同じくソファーで座っている翠が言った。いつものように、読書したままだ。

「翠……そんなこと言わないの」

「いつまでもくよくよしたってしょうがないだろ。それに、兄貴自身がダメだったなんて思ってないんだったら、別にいいじゃない」

 母さんの言葉に、即座に返す翠。しかし、こいつは視線だけは本の活字にずっと向かって行っている。

「そうじゃなくてね、葵がショックなのは、お兄ちゃんのために作ったものがお姉ちゃんに、お姉ちゃんのために作ったものがお兄ちゃんに渡してしまったのが嫌なのよ」

 母さんはゆっくりと、まるで葵の気持ちを代弁するかのように言った。

「どっちだっていいと思うけどね……」

 呆れたように、ため息交じりに翠はそう言って、再び本をめくっていた。俺は頭をかきながら、葵の隣に座った。それでも、葵はまだ顔を母さんにうずめたままだ。

「葵、お弁当作ってくれてありがとな。おいしかったよ」

 そう言いながら、葵の頭を撫でてあげた。すると、葵はチラッと俺の方に目をやった。少しだけ目が赤い気がする……。まさか泣いていたのか?

「……ホント?」

 かすれるような小さい声で、葵は訊ねた。俺は一呼吸おいて、大きく頷いた。

「ああ、もちろん。また作ってくれるか?」

 俺はニコッと微笑んで、葵の頭を軽くぽんぽんと、撫でた。葵は何度か瞬きをして、小さく頷いた。あまり感情を表に出さない子だが、なんとなく元気になってきたのだとは思う。さっきからずっと眉が八の字だったのが、少し緩やかになっているからだ。

「お兄ちゃん……」

「ん?」

 目をこすりながら、葵は顔を上げた。

「……また、頑張るからね」

 その笑顔が見れただけで、俺は十分嬉しかった。






「そう言えばさ、お前の弁当ってどんなんだったの?」

 夕食を食べ終え、俺たちはソファーで寛ぎながらテレビを見ていた。葵は二階に上がっていて、母さんは翔を寝かしつけている。

「んー、なんか豪勢だったね。生姜焼きとかいろいろあって」

 希は風呂上がりのアイスクリームを口に運びながら、言った。

「生姜焼き……俺のにはなかったな」

「ほら、お兄ちゃん生姜焼き好きでしょ?」

 と、彼女はスプーンを俺に向けた。

「そんなこと葵に言ったっけな?」

 思わず頭を傾げる。記憶にある中で、俺は食事中に「あれが好き、これが好き」とは言わない。

「葵さ、母さんに訊いてたんだって。昔、何が好きだったとか」

「あぁ……なるほど」

 葵が産まれてから一年くらいまでは、母さんが食事作ってたもんな。母さんなら、みんなの好物くらい把握しているだろう。

「でも味付けはまだまだだったね。これから教えてあげないと」

 うん、と頷きながら希はアイスクリームを頬張る。

「葵が姉さんに教授を願うとは思えないけど」

 翠がまたもや、本を読みながら言った。夕食を食べ、風呂上がりだというのにこいつの体勢は、食事前と変わっていないことにいつも驚く。

「そうかな? すっごく教えてあげたいんだけど」

「そうだって。あいつ、姉さんに敵対心抱いてるから」

「敵対心って……え、まさかお兄ちゃんが原因で?」

 引きつった顔で、希は問い返す。

「二人はいつも痴話喧嘩してるし、あまり似てないから外で歩くと恋人同士に見えるんだよ。そういう噂、聞いたことない?」

 翠は本をめくりながら、淡々と言った。

「俺がこいつと? ……勘弁してくれよ」

 そう言った瞬間、希のチョップが俺の脳天に振り下ろされた。いってぇな……。

「聞き捨てならないわね、その噂。どこをどう見ても、仲のいい兄妹じゃない」

 すると、希は俺の腕に手を回して組んできやがった。俺はすぐさま手を振りほどいた。

 よくよく考えたら、中学生の時だったか……何度か言われたことはあるな。とは言っても、苗字が同じだからか、大体が疑心暗鬼なものだったが。

「ま、葵が敵対心燃やすのは、そういうのも理由なんだよ。たぶん」

「ふーん……モテるねぇ、お兄ちゃん。顔だけはまともだからかな」

 クスクスと、希は笑って言った。

「いちいちうるせぇな。まぁ、双子の男女ってのは珍しいんだろ。まさか、双子だなんて思ってる側も気づかないだろうし」

 実際に、今日がそうだった。あの先輩に、俺には恋人がいるのだと思われていたのだから。







「東くんって、彼女いるだろ?」


 静かに弁当を食べられると思ったら、また話しかけてくる。先輩――近衛凛夏も、俺と同じようにここで昼食をとっているらしい。加えて昼寝。

「彼女なんかいやしませんよ」

 俺は座ったまま、真向かいに座っている彼女に目を向けずに答えた。

「でも私、君が女の子と一緒に買い物をしてる姿、見たことあるんだけど」

「……そりゃ妹ですよ」

 ひょいと、特製タコさんウィンナーを口に入れる。すると、近衛凛夏は小さく笑った。彼女の方に目をやると、まるでそれは嘘だろと言わんばかりの目をしていた。これはいつも経験してきたことだった。中学時代や、高校生になってからも、同級生や知り合いなどに見られ、聞かれたことは多々ある。その度に、俺は今回のように「妹だ」と言っても、適当な嘘をついて――と思われてきた。そうなると、説明するのが億劫になってくるのだ。そもそも、女と歩いてるからって、簡単にそうであると決め付けるのは如何なもんかと思うんだが……。

 そういうこともあって、あまり外で希と歩きたくない。気が付けば、外に出るときはいつも一人になっていた気がする。

「本当に妹?」

 ずい、と顔を出して先輩は言った。思わず、少しだけたじろいでしまった。

「本当ですよ。嘘をつくメリットなんてありませんからね」

「……なるほど。じゃあ、本当なんだ」

 先輩はそう言って、納得したかのように頷いた。その反応に、俺は少し驚いた。こんな簡単に信じてもらったのは、初めてかもしれない。

「妹って、一つ下くらい? この高校じゃないよね?」

「えっと……あいつは別の高校で、同い年です。なので高校二年です」

「同い年? ……まさか、わけあり?」

 それはどういう意味なのか――と思ったが、よくよく考えたら“両親が再婚であるならば、連れ子同士で同い年”という可能性はある。しかも、それなら似てないってのも納得がいくだろうし。

「いえ、そうじゃないです。二卵性の双子なんで、あまり似てないんですよ」

 と、俺は苦笑しながら言った。

「二卵性!? へぇ……珍しいな。そういう人と知り合うの、初めてでさ」

 驚いた表情を浮かべたかと思えば、彼女はすぐに嬉しそうな――無邪気な子供みたいに笑った。たしかに、二卵性の双子で兄妹というのは珍しいのかもしれない。

 そう言えば、母さんも双子だったな……。叔母さんと母さんは顔がそっくりなので、外見で判断するには髪型のみ。幼い頃は、たまに間違えてしまったという。性格はあまり似てなかったな。

「それで、その可愛らしいお弁当はその妹さんが?」

「これは……下の妹が」

「下ってことは――ああ、そっか」

 先輩は一人で納得し、手をぽんと叩いた。たぶん、だからこんなに弁当が可愛らしいのだと思ったのだろう。それは好意的な解釈で、説明が省けて非常に助かる。

「妹さん、東くんが好きなんだな」

 俺の弁当を覗き込みながら、先輩は言った。急に何言ってんだ、この人は……。

 その時、機械音がリズミカルに鳴り始めた。先輩はハッとして、はしごを登って上へ行ってしまった。おそらく、携帯電話の着信音だろう。

「はいはい……あ、ごめん。ちょっと忘れてた。まだ……うん、京子は? そう、了解」

 電話を切る音がして、再び先輩は下に降りてきた。手にはカバンがあり、どこかに行かなければならないようだ。

「それじゃ、私は戻るわ。授業、ちゃんと受けなさいよ」

 それはどういう意味なのか――と思った時には、先輩は扉を開けて出て行ってしまった。

 近衛凛夏……たしか、生徒会の役員だったな。今まで、何度か生徒総会で見たことがある。たしか、生徒会長ではなく書記長だかなんかをしていたはず。特に目立つような人ではなかったが、三年生の中でもかなり綺麗な人ではある。そのためか、よく同級生たちの話題にものぼっていた。しかし、別の噂も聞いたことがある。


 一人でいつもいる、孤独な生徒会役員。


 なぜか、少しだけ自分と似ているのかもしれないと思った。俺自身、いつの間にかずっと一人で行動しているから。

 弁当を食べ終え、俺は手を合わせて「ごちそうさま」と言って小さくお辞儀をした。ペットボトルのお茶を一口飲み、立ち上がって周囲を見渡した。中庭で数人の学生が弁当を食べながら、談笑をしている。少しだけ見える校舎の窓には、廊下で楽しそうに友達と会話をしている同級生たちの姿が見える。

 高校生になって、ほとんど知り合いのいないこの高校に来て一年以上が経つが、俺は未だに一人で過ごしている。今も、こうして空を見上げて。






「……ねぇ、お兄ちゃん」

 希の声に、俺はハッとした。横にいる彼女を見ると、訝しげな表情でこちらを見ていた。

「急に黙らないでよ、怖いじゃない」

「怖いってなんだよ……」

 意味がわからんことを言いやがって。

「それで、明日どうなのよ?」

「明日って、何が?」

「だから、お買い物。久しぶりに一緒に行こうよ。土曜日だしさ」

 と、希はルンルン気分で言った。明日は土曜、学校は休みではあるのだが……。

「いい年して、なんで妹と買い物に行かなきゃなんないんだよ……」

「別に年齢は関係ないでしょ。どうせ部活もしてなくて、暇なんだからさ」

 そりゃたしかにしてないし、土日はとくに何かをするわけでもなく、翔の遊び相手くらいしかしていないからな……。しかし、今日のこともあって希と二人で外を歩くというのに、若干抵抗があるのだ。

「お前と一緒に歩くと、変な誤解が生まれるんだよ」

「そんなの気にしたら負けよ? お兄ちゃん、意外と気にする正確なんだね」

 希はそう言って、俺を横目で見ながら小さく笑い始めた。

「誤解が生まれてるのは事実だろ。翠も今しがた言ってたろ」

 すると、希は「気にしない気にしない」と言った。

「翔の服と、葵の服を買わなきゃいけないんだよね。あ、葵も一緒に連れて行こうよ。それだったら、変な誤解は生まれないんじゃない? 兄妹だって思われるわよ」

 葵とか……。ここ最近、あまり一緒に出歩くということをしなかったからな。今日の弁当のお礼という名目で、何か好きなもんでも買ってあげようかね。それに、あの子はあまり外に出たがらないから、ちょうどいいかもしれない。

「わかったよ、明日な」

 と、俺はため息混じりに了承した。

「よし、やっと折れたわね。翠はどうする?」

「私はいい。翔を見とくから」

「そっか。じゃあ、明日はヒカリちゃんもお願いね。たぶん、私たちが帰る前に来ると思うから」

「わかった」

 翠はこくりと頷いた。ヒカリ……?

「明日、叔母さんたち来るのか?」

「うん、そうよ。言ってなかった?」

 あれ……そうだったかな。言われたような気もするし、そうでないような気もする。光<ヒカリ>は、俺たちの従姉妹。母さんの妹の娘だ。今年、小学生になったばかりのはず。

「叔母さん二人目妊娠してるし、おじさんも長期出張なんだってさ」

 それで今週と来週は、うちに泊まりに来るらしい。それなら実家に帰ればいいのに……と思ったが、母方の祖父母はバリバリの仕事人間で、若い頃よりも家を空けることが多いのだ。そのため、家族が多く賑やかなうちの方に来るのだとか。





 風呂に入って、二階に上がり自分の部屋に入り、俺はベッドに仰向けになるよう倒れ込んだ。なんか、今日は久々に学校で人と話した気がする。思ったよりも普通に話せるもんだな……とは思ったが、改めて思う。

 学校での俺と、さっき家族と話していた自分。

 自分でもギャップがあると思ってしまう。いつだったか、言われたことがあるもんな。“東は他人に興味がない”と。よくもまぁそういうことを本人を前にして言えたもんだ、とは思うが。

 だから、俺は希が昔から羨ましかった。誰とでも仲良くなれる、明るい性格のあいつが。社交的で、率先して他人がめんどくさがりそうなことをして。そして、家族の中心となっている。我が家は、希の存在で“家族”として機能しているといっても過言ではない。

 俺には何があるだろうか。人様より、若干背が高いくらいだろうか。



 ――望は、お父さんに似て背が高くなるわね――



 中学校の入学式で、まだ着慣れていない制服に身を包む俺は、母さんにそんなことを言われた。俺はあまり親父が好きでなかったので、“お父さんに似て”というフレーズが、すごく嫌だったのを覚えている。たしかに、親父も180センチは超えており、顔はあまり似ていないがそれだけが共通点とは言えるのかもしれない。

 そう言えば――今日、何か夢を見たような気がする。あまり夢を見なくなったので、たかが夢のことを気にしてしまう。

 なぜだろう、その夢の中には親父がいたと思うのだ。俺はもう、親父とは2年近く会っていないのに。妹たちも、母さんも。





「夜が怖い?」

 まだ元気だった頃の母さんは、リビングでコーヒーを飲んでいた。幼い俺は、こくりと頷く。手を繋いでいる隣の希も、同じように。

「急にどうしたんだ。昨日はなんともなかったじゃないか」

 母さんの隣で、親父もコーヒーを飲んでいる。目をパチクリさせながら。

「だって……何か、音がするんだもん」

 希は震えるような声で言った。いや、震えていた。握りしめている左手から、それが伝わってくる。

「音? 風じゃないのか」

 親父がそう言うと、母さんが何かに気づいたようにハッとした。

「あなた、昼間に映画みたじゃない。サスペンスの」

 母さんの言葉に、親父もハッとしていた。この日の昼に、家族で見たサスペンス映画がとても怖かった覚えがある。当時、俺と希は一緒の部屋で寝ており、布団に入っても恐怖で震えてどうにもできなかったのだ。

 俺たちが怖がっている理由がわかると、親父と母さんは優しく微笑んで、「こっちへおいで」と言った。母さんは既に幼い翠を抱いていたため、必然的に親父を挟み込むように、俺と希は抱きついた。

「望たちに、悪さをするような人はいないよ」

 親父は優しくそう言って、俺たちを抱きしめた。ぽんぽんと、ゆっくりと背中を叩いて。

「父さんも母さんも、おばあちゃんたちもいるから、大丈夫さ。それに何かあったら、父さんがみんなを守るから」

「……ホントに?」

 俺と希は、同時に訊ねた。親父はニッコリと笑って、頷いてくれた。親父を抱きしめる力は、より一層強くなった。希もそうだということが、容易に分かった。妹だからか、双子の片割れだからか。

「大丈夫、大丈夫」

 母さんも、俺たちを優しく撫でてくれた。本当にそんな些細なことで、眠れない夜だったはずが、いつもよりも穏やかで、安らかな夜になったのだ。






 目が覚め、いつも起きてからみる風景だった。目をこすりながら丸い置時計に目をやると、時針は朝の6時前。どうしてこんな時間に目が覚めてしまったのだろう。

 まだ5歳か、6歳くらいだった。あの頃は、素直に生きれていたように思う。いつの間に、俺は“いろんな自分”を作っていったのだろうか。あの頃の俺に、そんなことをする必要性もなかった。

 必要……? 高校内で、そうする必要があるのか。そうしていた方が、楽だというくらいしか理由はないように思える。



「うわっ、なんでもう起きてんの?」

 リビングに入ると、まだ寝巻き姿の希がコーヒーを飲んでいた。

「起きたら悪いのかよ……」

 俺はキッチンの方へ向かい、冷蔵庫を開けた。俺はまず、牛乳を飲まないと朝は始まらない。

「だって、休日にこの時間に起きられると……ねぇ?」

「ねぇ?って言われても困るんだが」

 誰に同意求めてんだよ。

「あ、牛乳? カフェオレのポーションあるけど」

「いや、いい。このままで飲むよ」

 牛乳は家族の中で俺しか飲まない。毎日のように飲んでいるから、大きくなるんだぞ――と、よく祖母ちゃんに言われたもんだ。

 ちなみに、祖母ちゃんは昨日から叔母さん宅へ行っており、こっちへ来るための準備を手伝っているのだとか。本来であれば楓ばあさん――母方の祖母ちゃんが行くべきなんだが、それは前述したように無理なようで、うちのばあちゃんが行っているのだ。家が近かったため、幼い頃から世話しているので叔母さんも娘みたいなもんだと言っていた。

「叔母さん、何時に来るんだ?」

 俺は牛乳をコップ一杯に入れて、テーブルの席に座った。

「昼前になるって言ってたかな。たぶん、うちでご飯食べるんだとは思うけど」

「そっか。叔母さん、結構久しぶりだよな」

「そうだね。いつ以来だろ。以前、父さんが帰ってきた頃じゃない?」

「……そうだったか?」

「そうよ、たしか。中学三年になる春だったと思うけどね」

 よくはっきりと覚えてるな……と、俺は感心した。およそ二年くらいだというのは覚えているが、いつの頃かは全くわからない。いつの間にか“またいなくなっていた”というほうが正しいのかもしれない。生きているということだけはわかるが、どこにいるのか俺たちにはわからないのだ。親父はいつも、行き先を告げずにいなくなっている。たとえ、母さんが傍にいてほしいと願っていても。

 そんな親父に、嫌悪感を抱くのは容易だった。だからか親父の話が若干でも出ると、空気が重くなる。そうさせているのは俺なのだが、希もそれを察し、言葉を発しようとしなくなるのだ。

「あら、おはよう葵」

 ほんの一瞬の沈黙を破るかのように、希は言った。リビングの出入り口へと目を向けると、眠気眼でパジャマ姿の葵が立っていた。

「おはよう……お姉ちゃん。……?」

 目をこすりながら、葵は俺を見ていた。頭をかしげるもんだから、思わず俺も同じように頭をかしげてしまった。

「どうした?」

 そう問うと、葵はボーっとした表情で、

「お兄ちゃん……今日は休みだよ?」

 と言った。いや、休みだっていうのはわかってるけどさ……。

「やっぱりねー、お兄ちゃんが休みの日の8時前に起きてくるのは、誰だって驚くのよ」

「…………」

 俺は葵にまで“休日に起きるなんて、なんか勘違いでもしてるんじゃないの?”と思われているのか。なんだか、自分が少し情けなくなってきてしまった……。

「葵、今日はお兄ちゃんと3人で一緒に買い物に行かない? 久しぶりに葵の服買いに行こうよ! お姉ちゃん、奮発しちゃうからさ」

 希は葵の前でしゃがんで、ニコニコしながら言った。

「ほんと? 行くー!」

 葵のボーっとした表情が、ぱあっと明るく弾けたかのような笑顔へと変わった。葵はあまり外に出たがらないが、俺たちと一緒ならばいつもこんな風に笑顔になる。人見知りだけど、他の人ともコミュニケーションは取れる子なのだ。

 俺ははしゃいでいる希たちを横目に、新聞の活字へと目をやった。動物虐殺の記事。なんとなくだけど、“身近で起きた事件なのにそうでないような気がする”のは、なぜだろう。

どこかで、俺たちは――平穏な空間にいる人々は、凶悪なものや、危険を孕んでいることとは無縁かのように日々を振舞う。日常の中に危険は内包されているのに、砂漠に隠れた地雷の如くそれらは世界に点在している。それがたとえ、平和な国であっても。今まで何も起きていない場所であっても。




――早く来い――

――殺さないさ。静かにしていれば――




男の――あの時の声が聞こえる。昔の記憶。きっと、希は覚えていない。その方がいいんだ。



朝食を食べ終え、俺たちは3人で町へと出掛けた。今日も天気は良くて、空はまるで水彩画の如く青色と白色を混ぜたかのように淡く、ぼやけた雲の輪郭が優しくて、少しずつ形を変えながらその風景の中で漂っていた。

「3人で外出するの、久しぶりだよね」

 と、希が言った。町には土曜日ということもあり、たくさんの人たちでごった返していた。カップルであったり、ベビーカーを押しながらにこやかに話している夫婦だったり、目的は様々だろうけれど、同じ曜日・同じ時間にこれだけの人がいるのをわかっていて、外出している。買い物をする時とか、外食する時に自分たち以外にもたくさんの人がいないと、なぜか不安になってしまうのは自分だけだろうか。人が多いと歩く時にぶつかりそうになるし、電車やバスに乗ってもせめぎ合っているようで息苦しいのに、どうしてかその方が却って安心する。自分と同じような目的を持っているからだと、心のどこかで無意識に思っているからだろうか。たくさんの人がいれば、それだけ買い物もする気になると思うのだ。

「葵、どんなの買いたい?」

 町を見上げながら、あちこちにキョロキョロと視線を動かしている葵に、希は訊ねた。

「えっと……お姉ちゃんに任せる」

「葵の服なんだから、自分で決めないと」

 希は葵の返しに苦笑せざるを得なかった。

「だって、お姉ちゃんが選んでくれた方がかわいいんだもん」

「で、でもなぁ……」

 と、希は困った表情で俺に顔を向けた。でもまぁ、葵の言っていることはあながち間違っちゃいないし、葵が選んだら全部暗そうな服ばっかりになりそうだからな。

「決めてやれよ。葵は一人でなかなか決められないんだしさ。お前が選んでくれたものの方が、決めやすいんだよ。な?」

 俺はそう言って、葵に同意を求めた。葵も俺に顔を向けて、ニコッと笑って頷いてくれた。

「うーん、結局そうなるのか……」

「ま、それがお前の役割ってこった。いつものことじゃないか」

「そりゃそうだけどさー、やっぱり葵自身に選んでほしかったっていうのもあるのよ」

 やれやれ、といった表情を浮かべて希は苦笑した。俺たちに何もかも頼りがちな葵に、そういった“決断する・選び取る”ということをしてほしかったのだろう。それがたとえ、こういった簡単なことであっても。

「お姉ちゃんに選んでほしいの。……ダメ?」

 まるで母親に恐る恐る聞くかのように、葵は言った。まずい、そういうかわいい姿を希に見せると……。

「あ、葵……あんたって子は……!」

「うわ」

 俺は希の姿を見て、思わず変な声を出してしまった。希は爆発でもするんじゃないかというくらいの喜びの表情(若干涙目含む)で、葵を抱きしめにかかった。

「もう可愛くてかわいくて、ダメよ私は!」

「お、おい! 街中で抱くな! 恥ずかしいだろうが!!」

 俺はすぐさま希を引き離しにかかった。いきなり何の事だかわからず、葵はキョトンとしている。

「何すんのよ!」

「何すんのよ、じゃねぇよ! こ、こんなとこで暴走すんな!」

「暴走だなんて失礼な。かわいいんだから抱きしめたくなるでしょ!?」

 その時の希の表情は、まるで当然だと言わんばかりのものだった。それにムカついたのは至極通常のことである。

「き、気持ちはわからんでもないけど、頼むから――」

 とその時、葵が俺の服の袖をクイッと引っ張った。

「あのね、お兄ちゃんも、私の服選んでほしい」

 葵はニコッと、少しだけ頬を桃色に染めて言った。語尾にハートマークが付いているかのような台詞だった。その表情があまりにもかわいくて、俺が逆に照れてしまうくらいだった。思わず、俺は希に顔をやった。

「……こりゃ反則だ。勝てねぇよ……」

「でしょ!?」

 そんなこんなで、2人で葵に絶賛萌えてしまいながらも、再び町を歩き始めた。あまり家族で出かけるということはなくて、この3人というのも珍しいのだ。特に意識して出掛けなかったわけではないが、それぞれが家での役割というものがあり、特に希はここ数年、本当に母親代わりみたいなものだった。休みの日でも、すべきことは山のようにあった。

 でも最近は妹たちも大きくなり、それなりに一人でできるようになったので、希に対する負担というものは小さくなっていったのだ。

 そう言えば。

 こうして3人で歩いている時、葵は決まって俺と希の間にいるような気がする。3人の時だけでなく、家族でいる時も。葵は寂しがり屋だからか、外に出る時は俺か希と手を繋ぐ癖がある。けど今は、希の手を右手で握り、左手で俺の服の裾を掴んでいるのだ。本当は手を繋ぎたいけれど、ちょっと恥ずかしいという葵の気持ちがなんとなく伝わってくる行動だった。

「じゃあ、ここにしようよ。私もよく買いに行く所だしさ」

 街中を10分くらい歩いて辿り着いたのは、今どきの若者が着ていそうな服を売っているお店。俺も服に無頓着なため、あまりファッションとか、そういうのはわからない。

「どれがいいかな~。葵、ワンピースがいい?」

「……うーん……」

 葵は白いワンピースと睨めっこしていた。優柔不断な性格なので、こうなると時間がかかりそうだ。

ふと思い出したが――あれは、何年前だっただろうか。翠が小学6年だったから、2年ほど前か。あいつが学校の修学旅行でお土産を買ってきて、葵のほしいものがわからないからって、何種類か買ってきていた。「どれがいい?」と翠が聞いて、やっぱり葵は今と同じでお土産たちと睨めっこして、悩みに悩んでいたものだ。その時の葵は、なぜか不機嫌そうな表情を浮かべる。そういう意味ではないんだろうけど、あの子の頭の中では選び取る指針があっちに行ったり、こっちに行ったりして大変なんだろうと思う。

俺は2人から少し離れて、なんとなく他の服を見て回った。葵はいつもワンピースなどの服しか着ないから、たまにはデニム系のパンツとか、趣向を変えてみようかなと思ったり。

 その時、トントンと肩を突っつかれた。後ろに振り向くのと同時に、


「やっ、東君」


「……?」

 まるで兵隊の敬礼のように、おでこに手を添えて立っている少女――高校生くらいの女性で、ニット帽をかぶり長いスカートをはいている――がいた。……見たことはあるんだが、誰だっただろうか。

「あ、誰か思い出せそうで思い出せないって感じでしょ?」

 と、その少女はニコッと笑った。砕けたように笑うんだなと、なんとなく思う。

「同じクラスの浅沼。前、起こしてあげたでしょ?」

「……あぁ~」

 天井を仰ぎながら、俺は思い出した。昨日、なぜか昼休みに起こしてくれた同級生だ。

「同級生の顔覚えていないなんて、東君らしいね」

「いや、すぐに思い出さなくてごめん」

 浅沼はそんな俺に対し、呆れるでも怒るわけでもなく、クスクスと笑っていた。

「今日は付き添い?」

 チラッと、彼女は服を見ている希と葵の方に目をやった。

「ああ。妹たちの」

「へぇ……かわいいね。さっき見かけた時、一瞬、親子かと思ったけど」

 俺は浅沼の言葉に対し、思わず目をパチクリさせた。

「だって、仲良さそうに手を繋いで歩いているんだからさ。かなり若い夫婦って思われてもしょうがないくらいにね」

「そ、それは心外だな」

 と、俺は苦笑した。

「褒めてるんだよ! 東君って、妹さんたちといる時は違うんだなーって」

 それはどういう意味なのだろうと、俺は訝しげに頭をかしげた。言葉の意味がわかっていない俺を見てか、浅沼はまたもさっきのように、砕けた笑顔をして見せた。

「でも妹さん、下の妹さんに対してなんだか、姉っていうよりも母親って感じだよね」

 再び、彼女は2人の方へ目をやる。希は葵が睨めっこしている服とは違う服を持ってきて、「これはどう?」と提案していた。

 なんとなく、彼女の言うとおりだなと思った。葵は兄妹の中で、一番親と接していない子だ。あいつが生まれてから母さんは体調を崩していって、物心がついた頃が、母さんの最も悪い時期だった。入退院を繰り返していて、葵は甘えたくても甘えられなかった。親父もその頃からあまり家にいなかったから、寂しい想いをしていたのだと思う。葵が俺たちに甘えるのは、その反動でもあり、満たされない両親からの愛情なんだと思う。

「私も妹、欲しかったなー。妹さん、いくつ? 上の子は年子?」

 そんな2人の姿を、浅沼は羨ましそうに眺めていた。

「いや、同い年。双子なんだ」

「双子……!? ってことは、二卵性?」

 彼女の問いに頷くと、浅沼は目を大きく見開いて「へぇ~」と言った。

「私、そういう人と知り合うのは初めてかも。小学校でも、中学校でもなかったしさ。そもそも、双子なんて確率的に低いじゃない。ましてや二卵性なんてさ」

「まぁ、たしかに。俺も今まで他の人で双子っていうケース、見たことないな」

「いやー、やっぱり顔似てないんだね。双子ってさ、顔そっくりっていうのがすごいじゃない」

 すごい、のだろうか……? あまり共感できなくて、またもや頭をかしげてしまった。

「でも、同い年の兄妹なのに似てないってのも、なんだか不思議。生命の神秘って感じだよね!」

「そ、そうか?」

 浅沼は目をキラキラさせながら言ってくる。珍しいのはわかるが、生命の神秘って……なんだか大げさな気がするんだが。

「京子―、どこ行ったー」

 賑やかな店内で、誰かを呼ぶ声が聞こえてきた。その声に、浅沼はまずい、という表情を浮かべた。

「置いてきちゃった、やばいやばい。それじゃ東君、またね」

 浅沼はそう言って、このそこそこ広いこの店内のどこかへと消えて行った。

「ねえねえお兄ちゃん、こんなのどうかな?」

 浅沼がいなくなるのとほぼ同時に、希が後ろから話しかけてきた。彼女は俺がさっきまで浅沼と話していたことには気づいていないみたいだ。

「……なんか、やけにかわいい服だな」

 水色のワンピースで、ヒラヒラが付いている。葵らしい服装といえばそうかもしれない。

「もう少し落ち着いた感じの方がよくないか?」

「えぇ、そうかな? 葵―、お兄ちゃん、もっと落ち着いた方がいいって言うんだけど」

「えっと……お兄ちゃんがそう言うなら……」

「ちょ、ちょっと葵。さっき、これがいいって言ったじゃない!」

 照れている葵に対し、希はもう苦笑しかしていなかった。

 親子――か。俺たち兄妹は、“兄妹”というよりも“親子”に近いのかもしれない。今の家庭環境がそうさせているのだとは思うが、両親と死別しているとか、そういうのではないから、どこか中途半端に“兄妹になり切れていない部分”というのがあるのだろう。





「迷うから一人っきりにしないでよ」

「ごめんごめん、凛ちゃん」

 あはは、と浅沼京子は笑って言った。賑わう洋服屋の店内から出て、二人は商店街の通りを並んで歩いていた。

「ところで凛ちゃん、例のことなんだけど」

「……東君?」

 凛ちゃんと呼ばれた少女――近衛凛夏は、“例のこと”と聞くや否や、鋭い目つきになった。

「やっぱり“持ってる”ね、あれは。たぶん、妹さんたちも。接触してないから、はっきりとはわからないけど」

「ふーん……そっか」

 凛夏は顎に指を当て、小さく唸った。

「で、どうするの?」

 京子は頭を少しだけ傾げながら訊ねた。それに対し、凛夏は目をパチクリさせながら答える。

「もちろん、こちらの手助けしてもらう。優真もそうしてほしいみたいだから」

「……そっかぁ。個人的には、放っといてあげたいんだけど」

 ため息交じりに、京子は言った。

「どうして?」

「だって、家のことで大変そうだから。本来なら“一般人には関係のないこと”じゃない」

「そうは言っていられない。ただでさえ人手不足なんだ。理由を話せば、彼だって協力してくれるさ」

 うん、と凛夏は一人で大きく頷く。その自信と根拠はどこから来るのだろう……と、隣の京子は若干呆れ気味に思う。

「ていうか、京子。いつの間に東君に会ったわけ?」

「え? さ、さっき」

 唐突な凛夏の質問に、不意を突かれた京子は少し慌てながら答えた。

「ふーむ、私も会って行こうかしら。折角だし」

「折角ってどういう意味よ……。それよりも、今日は“冬じい”に用事があったんじゃないの?」

「あ、そうだった」

 なぜ折角だという理由で会おうとするのかわからない京子。凛ちゃんの行動原理は、たまによくわからない。


 ふと、京子は空を見上げた。この商店街には天井があって、空は見えない。でも、今日は晴れ晴れとした青空が広がっているのがわかる。大気も柔らかくて、春の暖かみのある気配と、夏に向かうじめっとした暑さが交じり合ったものになっていた。




 春は、何かが始まる季節。そんな予感がするんだ。


 京子はそう思いながら、何度か瞬きをして、再び前を見据えた。







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