序章
ご存知の方も初めての方も、改めてお久しぶりです、森田しょうです。
現在、エピソード6を連載しておりましたが、少々考えるところがありまして、暫し休載しこちらを掲載しようと思いました。
こちらはエピソード5となりまして、前作から少し時が経った世界でのお話になります。
前作、BLUE・STORY エピソード4をご存知のかたはより楽しめるのではないかなと思います。
ですが、これ単体としてもわかるように作っておりますので、ご安心下さい。
長い期間書かない日々が続いておりましたが、少しずつ掲載していければと思います。
ではでは、森田しょうでした。
いろんな人間がいて、いろんな世界がある。
私たちには私たち自身の人生があって、どこかで誰かと絡み合う。
でも、重なることとはまた違うようにも思う。
結局のところさ、私たちは孤独なんだよ。
このただっ広い満天のお星様の中みたいに、
たくさんの星たちがいて、せめぎ合っているように見えるけれど、
それぞれの星たちの距離は何万光年も離れている。
私たちも、同じなんだと思う。
そうじゃないかな?
BLUE・STORYⅢ
EpisodeⅤ
――暁の誓約が集いし処――
序章
今まで特に何かについて一生懸命勉強するとか、努力するとか、そういったことに傾倒してこなかった。もちろん勉強にしても運動にしても、人並みにできるようにはしているつもりだったが、それは“努力”というものではない。
俺は努力をしたことがないと、ふと思った。授業中、周囲を見渡してみると、同級生たちは一生懸命ノートに文字を書き連ねている。黒板に書かれた教師の文字と、自分が書いた文字に間違いがないかどうかを照らし合わせるかのように、何度も何度も顔を上げては、それと同じ回数だけ己の文字を見る。
それがなんとなくではあるが、少し愚かしいものに感じていた。それは人が自分の興味のないこと――例えば、他人の趣味や趣向などが、自分のそれと同じような類でない場合、共感はできないものだ。必死にそれが楽しいことであるとか、意外性であるとか、そういうのを必死に語られても、共感する部分が微塵にもないと無駄である。俺にしてみれば、他人が必死になって勉強している姿は、自分が本当に必要としている何か――努力とか、その果てに得られるかもしれない結果・成果のためにするべき過程ではないような気がするのだ。もしかしたら、自分には周囲の同級生のように勉強する必要性がないからだけなのかもしれない。それは時に、他人の反感や嫉妬などを買うことも、よく知っている。
教科書を机の上に広げて、特に何も書いていない、というより書くことのないまっさらで綺麗なままのノートの上にシャーペンを置いて、窓の外から町を眺める。
慣れない街並みが、そこには広がっている。
この町の高校に来て、一年以上が経った。けど、未だ慣れないような気がする。それは自分で選んだのに、とも思うけれど。
序章
――prologue――
チャイムが鳴って、みんなは一斉に勉強道具の片付けに入る。いつもはそんなに行動を同じようにすることなんてないのに、なぜか授業が終わる時、特にこの最後の授業が終わった時の迅速さといったら、なかなか真似できないものではある。それがいつもできないのに、どうしてこの時だけはできるのだろうか。早く帰りたり、終わらせたい――たぶん、それだけが共通しているから、最後だけ足並み揃ってしまうのだ。
「きりーつ。礼」
学級委員が機械のようにそう言うと、静かだった教室は一気に賑やかになる。閉塞された空間から解放され、みな思いのままに楽しそうなことだとか、これから向かう部活動がめんどくさいとか、どこどこに寄ろうとか、それぞれの“一日”を過ごそうとしている。
俺の机の上だけが、授業中のまま。何も書かれていないノートと、手垢などで一切汚れていない新品のままの教科書。俺はそれがこの学校の――普段の雰囲気だとか、学生たちの方向性だとか、そういった積み重ねられてきた普遍的な日常と掛け離れているような気がした。
そんなことを考えているうちに眠くなってきた俺は、帰っていく同級生の喧騒の中、机に顔を乗せて目を閉じた。
夢なんて、見なかった。夢はいつの間に消えてなくなったのか。大人になると夢と現実の距離に気付き、覚めてしまうもんだと思っていたが、俺にはいつの間にか“夢”というのが消えていた。そう言えば、幼い頃に抱いていた夢はなんだっただろうか……。
がらんとした教室に一人残された俺は体を大きく伸ばし、帰宅の準備を始めた。これから家に帰るのに約1時間……か。窓の外に目をやると、空は夕焼けに染まりつつあった。夜の帳が、静かに訪れようとしている。この時間帯が、あまり好きでない。特に理由はないような気はするが。
家のある団地内に人通りは少なく、家々には黄色い光が灯っていて、カーテンで遮られているけれど、家の暖かさが滲み出ているように感じる。俺の家も同じで、妹たちが既に家でご飯を食べているのかもしれない。
「ただいま」
既に夜の7時過ぎ、木造りの玄関に入ると家の中は人工的な明かりに溢れていた。いつもどおりに靴を脱ぎ、重苦しい制服を着たまま玄関に上がる。
「おかえりなさい」
と、小さな声が聞こえた。リビングへの通路の奥から、顔を覗かせている少女がいる。
「ただいま、葵」
俺はもう一度そう言った。すると、葵は笑顔で俺の方へ歩み寄ってきた。
葵<アオイ>――俺の妹の一人で、9歳の女の子。腰の下まである長い髪で、いつも白かベージュのワンピースを来ている。
「もうちょっとでご飯、できるよ」
「あれ、まだ食ってなかったのか?」
もう7時を過ぎているし、下の妹たちはもう食べている時間だ。すると、葵は小さく頷いた。
「だって、お兄ちゃん帰ってきてないから。一緒に食べよ?」
葵はそう言って、微笑んだ。妹は俺の前ではよくこうやって笑顔になるが、家族以外の他人の前では滅多に笑わない。極度の人見知りのため、10歳になるというのに未だ外に出るときは、俺やもう一人の妹――希の後ろに隠れたりする。家族で写真を撮っても、必ずと言っていいほど誰かの後ろに隠れて、恥ずかしそうに俯いている葵ばかりになる。物心がついてから、葵はずっとそんなんだ。
「カバン、持ってあげるから。早く」
と言いながら、葵は俺の服の裾を何度も引っ張り始める。
「ハイハイ」
俺は空っぽの弁当箱しか入っていないカバンを葵に預け、リビングへと向かった。本当は夕食が終わっていればいいのにって、思ってたんだけどな。
「お兄ちゃん、帰るの遅い!」
「……すまん」
リビングに入るなり、キッチン側から怒鳴り声が轟く。葵が俺を玄関まで迎えに行くもんだから、あいつに俺が帰ってくるのがいとも簡単にバレてしまうのだ。いつものことと言えばいつものことだが、俺が怒られるってのを葵もわかってるはずなんだが……。
「お兄ちゃんが帰ってこないと、みんなご飯にできないんだから!」
怒りながらも、彼女――希はキッチンで料理を作っている。キッチンと食事をするテーブルを隔てるカウンターには、既にいくつかの料理が並んでいた。
「遅くなるかもしれないって、いつも言ってるだろ」
「それならメールの一つや二つはするもんでしょうが! まったく、適当な性格してるんだから」
「へーへー……」
やれやれと思いながら、俺は制服姿のままテーブルに座った。帰る度に小言を言ってきやがって……あいつは俺の奥さんか。まぁ弁当もあいつが作ってるんだから、あながち間違ってないのかもしれないが。
希<ノゾミ>は俺の妹で、俺と同じ高校2年生。あいつは俺とは“二卵性双生児”で、俺が戸籍上では兄になる。とは言っても、生まれる時間がほんの少ししか違わなかったんだから、兄も妹もないようなもんだが。
二卵性双生児のため、見た目はあまり似ていない。身長も俺とあいつとでは20センチ弱離れているし、顔も違う。似ているのは、癖のある髪の毛くらいなもんだ。
「お兄ちゃん、ブレザーは?」
と、葵は俺の服をつまんで言った。
「ん? あぁ、ありがとう」
「うん」
いつもこうやって、葵は俺が脱いだブレザーをきれいにハンガーにかけて、クローゼットにしまってくれる。大体、その後には――
「希お姉ちゃん、お弁当箱」
「はい、ありがとね。ほら、葵も座ってて。もうできるから」
「はーい」
ニコニコしながら、葵は俺が座ってる席の隣に座った。葵は外食してもどこに行っても、俺の隣に座りたがる。
テーブルの席はいつの間にか決まっていて、俺がテーブルのキッチン側の真ん中で、その右隣が葵の席。左はばあちゃんの席だ。俺の真向かいが希、その左がもう一人の妹・翠。右が母さんの席になるが、基本的には末っ子の翔と一緒に座っている。
俺の家は女系家族……なのか、男は俺と末っ子の翔のみ。翔<カケル>にいたってはまだ3歳なので決定権など無いに等しく、ほぼ俺一人でこの女陣営に立ち向かっていると言っても過言ではない(ほとんど向かって行ってはないが)。
「母さんと翔は? もう食べたのか?」
カウンターに置かれてる料理を、椅子に座ったままテーブルに運びながら訊ねた。
「うん。今日はあまり食欲なさそうだから、簡単なものだけ食べて寝室にいるよ。翔はおばあちゃんが食べさせてくれた」
「そっか。ばあちゃんは? 姿が見えないけど」
いつもだったら希と一緒に夕食を作るか、ソファーの上で横になってテレビを見ているのだが。
「楓おばあちゃんたちとお酒飲むから、今日はあっちに行って来るってさ」
ばあさんたちと、か。母方の祖父母が同じ団地内に住んでいるので、同居している父方のばあちゃんはよくあっちに行って酒を飲んだりしている。うちの母さんは体が弱いし、俺たちは未成年で特に小さい子供もいるから、こっちの家ではお酒を飲まないのだ。
「そうだ。あとでちゃんと、母さんに“ただいま”って言っておきなよ。心配してたんだから。あ、これも運んで」
「はいはい、わかってるよ」
希は唐揚げを盛った皿を俺に手渡した。女性ばかりだからか、5人で食べるといっても量はさほどない。俺もそこまでたくさん食べるわけではないからな。
「ねぇ、お兄ちゃんご飯ついで」
「はいはい、人遣い荒いねー」
俺はキッチンの方へ向かい、いつものように茶碗にご飯をつぎ始めた。大体米三合、それがうちの一食の米の量だ。
「そのくらい手伝いなさい。お弁当、作ってあげないわよ?」
「……そら困るね」
こいつが専ら俺の空腹を満たしているので、逆らえないところではある。
「そしたら私が作ってあげるー」
すると、葵がカウンター越しに顔をひょっこり出して言った。我が妹ながら、可愛いこと言ってくれて……。
「葵は料理作れるの?」
希はクスクス笑いながら、葵にコンソメスープを渡していた。
「希お姉ちゃんに教えてもらうもん」
と、葵はムスっと顔をふくらませていた。こういう風に、外でも感情を素直に出せるようになると安心するんだが、奥手な葵にはまだまだ難儀なものなのかもしれない。
「無理しなくていいんだからね、葵。でも、作れるようになったらとても助かるけどなー。翠は料理苦手だし、作れるのは私とおばあちゃんだけだからさ」
うちの料理は基本的に、希とばあちゃんが作っている。俺は料理を作るのは苦手ではないが、二人の妹は結構ダメなようだ。
「よし、それじゃご飯にしようか。みどりー、ご飯にするよー」
希は手を洗い、エプロンを外しながらリビングのソファで本を読んでいる翠を呼んだ。あいつはこの時間帯、いつも静かに読書をしている。翠は何も言わず本を置いて、いつもの席に座った。
翠<ミドリ>は真ん中の妹で、中学二年生だ。希と葵は母によく似ており、幼い頃はそっくりだと言われたほど。しかし、翠だけは母にあまり似ていない。そのためか、雰囲気も違った感じになっている。社交的な望みとは違って、どこか冷たい空気を纏っている。言うなれば、一匹狼のようなものかもしれない。決してコミュニケーションが取れないわけではないのだが、敢えて取ろうとしない性格なのだろう。
「それじゃ、どっかの馬鹿兄貴が帰らないせいで食事が遅くなりましたが……」
と、希は手を合わせてそんなことを言い始めた。
「しつこい女だなお前……。悪かったって」
「たまにはそう言わないと、治らないかもしれないでしょ?」
ジト目で微笑む彼女は、やはり可愛くない妹だと改めて認識した。
「はい、いただきます」
すると、翠がご飯を食べ始めた。
「翠お姉ちゃん、まだみんなでいただきますしてない……」
葵がしょぼん、とした表情で呟くかのように言った。
「兄貴と姉さんの痴話喧嘩が終わるの待ってたら、ご飯冷めちゃうだろ」
冷たい口調で、翠は言った。いつの間にかクールな性格になったと思っていたが、とっつきにくい感じになったな……。最近、翠と会話らしい会話をした覚えがないんだよな。
「誰が痴話喧嘩よ! ほら、冷めないうちに食べちゃお。早くしないと葵の寝る時間になっちゃうし」
お前がケンカふっかけてきたくせに……と思いつつ、俺は大好物の唐揚げを頬張る。
うん、うちの唐揚げは一子相伝だな。ばあちゃんのも同じ味付けだ。
「……わたし、そんな早くに寝ないもん」
また葵はムスっとした表情を浮かべていた。
「女の子は早く寝ないと! じゃないと大きくならないんだから」
小学4年生の割に体が小さく、かなり少食の葵は俺たちの2倍、3倍は食べきるのに時間がかかる。体の線も細いから、もっと食べて欲しいと希は言っているもんだ。俺から言わせてもらえば、細いのはお前もだと思うのだが。
「そう言えばお兄ちゃん、明日なんだけどさ」
「ん?」
俺は唐揚げをヒョイ、ひょいと口に運びながら、生返事をする。
「生徒会役員会が朝早くからあってさ。弁当作るの、ちょっとしんどいんだ」
「そっか、了解。明日は適当にコンビニか購買部で買って食うわ」
「ごめんね、朝は起こしてあげるから」
「いいよ、それも。目覚ましは設定してるし」
「起きれないだろ」
「…………」
翠の素早いツッコミに、返す言葉が見つからない。俺は悲しいかな、朝が非常に弱いのだ。いや、この年代の男で朝が強い奴など少ないのではないかと思うのだが……それは言い訳なのかもしれない。中学生の頃、目覚ましを3つ設定していても起きることができなかったのは悪い思い出だ。学校でめちゃくちゃ怒られたもんだ。
しょうがない、他の人に頼むか。
「母さんはダメよ。最近、朝がしんどいんだから」
「母さんには頼まねぇよ。さすがにそれくらいはわかってるさ」
となると、ばあちゃんになるんだが……酒飲んでるから、明日はしんどいかもな。すると、俺の服の裾が少し引っ張られる感触がした。
「お兄ちゃん、わたしが起こしてあげる。お弁当も作るから」
と、葵がニッコリと笑って言った。いつも思うが、というより毎日思うが、葵は本当に可愛らしい妹だ……。でも、あと数年したら翠みたいにツーンとした性格になるんだろうか。それはそれで哀しくなるので、今のうちに目一杯頭を撫でておこう。
「……?」
なぜ撫でられているのか、葵はわからず顔を赤くしつつ怪訝そうな表情を浮かべている。
「葵、お兄ちゃん基本的に6時起きだよ? 大丈夫?」
俺は通学に時間がかかるので、弁当作りや朝ごはんを作る希がいつも起こしてくれるのだが、
葵と翠はいつも7時過ぎ起き。その頃に俺が家を出るので、あまり一緒に朝ごはんを食べたこともないのが現実。
「大丈夫だもん。今日、早く寝るから」
葵はそう言うと、なぜか箸を進めるスピードを上げ始めた。
「……葵って、本当に素直だよね」
と、希はその様子を見て苦笑した。素直すぎるよな……。
「ブラコンだよ、ブラコン」
翠のそのセリフに、俺は吹き出しそうになった。
「翠……あんたね」
「え? どう考えてもそうでしょ」
「まぁ、うん……否定できないね」
いや、俺に振られても困るんだが……。そんな俺の横で、葵は一生懸命ご飯を食べている。未だかつて、こんなに頑張ってご飯を食べている葵を見たことがない。それでも、俺や翠に比べたら遅いが。
「ごちそうさま。姉さん、あとはやるから先に風呂入りなよ」
翠はそう言って立ち上がり、食器を片付け始めた。皿洗いはいつも翠がやってくれている。他にも、幼い翔の相手をしてあげたりとか、洗濯も彼女がしている。
「うん、ありがとね。あ、唐揚げ余りそう。これ明日の弁当に使ったらどう? 葵」
「ううん、自分で全部作るもん」
「そ、そう……」
ふるふると、顔を振って葵は拒否した。希と俺は顔を見合わせ、少し苦笑してしまった。俺の明日の弁当……大丈夫かなぁ。
「ほら、早く片付けてよ。終わんないだろ」
食事を終え、俺は一階の寝室に向かった。もう翔が寝ているかもしれないので、なるべく足音を立てずに。
コンコンと、小さくノックをする。それから、ふすまをゆっくりと開ける。8畳ほどの和室の奥で、比較的大きめのベッドが置かれてある。母さんはいつも、そこで過ごしている。
「おかえりなさい、望」
「ただいま。ごめん、帰るのが遅くなって」
母さんはベッドから体を起こし、優しく微笑んだ顔を向けた。そのベッドの隣には、布団の上ですやすやと眠っている翔の姿がある。俺は翔の傍でしゃがんで、少し乱れた髪の毛を直しながら頭を撫でた。子供ってのは、体温が高い。触れる頭から、それが伝わってくる。
「いいのよ。少し遠いからね」
「……今日、体調はどう? 食欲がないって聞いたけど」
そう訊ねると、母さんは苦笑した。
「ちょっと、ね。でもご飯も食べられたから、大丈夫よ」
母さんがそう言って微笑んでいる時は、ほぼ決まって無理をしている時だ。物心ついた時から、そうだったから。親父がいなくて心細いはずなのに、それでも「大丈夫」と言っている。無理をするなと言っても、聞く耳持たないのは母さんの性格なのだろうとは思うが……。
「そっか。そういや、明日、葵が俺を起こしてくれるんだってさ」
「あら、そうなの? でも起きれるのかしら……」
「だから今日は早く寝るんだと」
そう言うと、母さんはクスクス笑い始めた。
「葵ってば、可愛い子なんだから。お兄ちゃんのことが大好きなのね」
母さんはニコッと笑って言った。それはわかっていることではあるんだが、面と向かって言われると恥ずかしくなってくる。
「んで、俺の弁当まで作るってんで気合入ってて」
「あらあら、そんなことになってたのね。でも葵、翠に似てあまり上手じゃないでしょ? 昔作った卵焼きも散々だったから」
「そういや、そんなこともあったような……」
そう言えば、俺が中学生の頃にそんなことがあったな。卵を上手く巻けなくて、黒焦げになってひどいもんだった。
「今日だって、唐揚げの残りを使えばって希が言ってもさ、自分で全部作るって言って聞かないんだよ」
「希に負けたくないのね、そういうところで。自分で全部やってみたいのよ」
「その意気込みはありがたいんだが、楽できるところは楽してもいいのにって思うんだがね」
と、俺はため息混じりに言った。
「女の子はそういうものよ。母さんが葵の立場だったら、同じことを言うと思うから」
クスクスと、母さんは笑った。
「母さん、入るよー」
希の声が聞こえた。そして、スっとふすまを開ける。
「どう? 体調は。眠れそう?」
希はそう言って、翔の傍でしゃがみ、俺と同じように頭を撫で始めた。
「ええ、だいぶね。でもお義母さん帰ってくるまでは起きてるわ」
「ダメよ、早く寝ないと。おばあちゃん待ってたら、日を跨いじゃうから」
「ハハ、たしかに」
俺は思わず、笑ってしまった。ばあちゃんはなかなかな酒豪で、亡くなったじいちゃんを困らせていたもんだ。
「そう言えばさ、葵なんだけど……」
「朝の希の仕事、するんだって?」
と、母さんは笑って言った。
「そうなのよ! 大丈夫かなー。ちょっとお姉ちゃん心配よ」
そう言って、希は頬に手を添えて頭をかしげる仕草をした。まるでどこぞのママのようだ。まぁ、うちではこいつが専ら母親代わりだからな。
「もしかして、葵って未だに望と結婚したいって思ってるんじゃないかしら。ほら、何年か前に顔真っ赤にして言ってなかった?」
「か、母さん、あれはいくらなんでも冗談じゃないかと俺は思うんけど……」
何年前だったか、葵が小学生になるかならないかだったと思うが、あの子から恋文のようなものを手渡されたことがある。それもみんながいるリビングで。
「私も冗談だと思うんだけど……というより、冗談であってほしいというか」
希も苦笑してしまっている。
「でもね、たまに相談されるのよ。“お兄ちゃんのために何かしてあげたい”って」
「おいおい……」
「モテるねーお兄さん」
ひゅーひゅーと、もう笑いが堪えられなくなってきたのか、希は肘で俺を突っつき始めた。こういう時に思う、ウザいと。しかもやり方が古臭いのが嫌だ。
「でも、お兄ちゃんを起こす仕事とかお弁当作る仕事とか、葵がやってくれるようになったら、私も楽だからいつかその方向に行って欲しいんだけどね」
「……ごめんね、本当はやってあげたいんだけど……」
母さんがそう言うと、希はブンブンと顔を大きく振った。
「何言ってるのよ! 私が好きでしてるんだから、気にしないで。料理作るの、好きでやってるんだからさ。葵もできるようになったら、それは将来に役立つことだしね」
「そうそう、俺が朝弱いのがいけないわけで」
「……ホントよ、まったく」
ふん、と希はそっぽを向いた。
「たまには家事の一つや二つ、やってもらいたいわよ」
「一応、トイレ掃除と風呂掃除やってんだろ……」
あとゴミ出し。生ゴミとかお前らやりたがらないから。
「それくらいは家族なんだから、して当然よ。ね、母さん?」
「お前なー、たまには選手交代してみるか? 絶対、生ゴミ出すとき悶絶するか、俺に投げ出すかどっちかだぜ」
「いいわよ? お兄ちゃんだってご飯作れるの?」
「おいおい、俺を舐めんなよ? お前らの誕生日限定スペシャルディナー作ってんのは誰だと思ってんだ」
そう、俺は特別な日は限定で料理を作ったりしているのだ。そして意外と得意。そりゃ、昔はばあちゃんと希と一緒に作ったりしていたからな。
「それが毎日できたら大したもんだけどねー」
「毎日は無理だ。お前の弁当、毎日スクランブルエッグとウィンナーな」
「は、はぁ!? いくらなんでもそれはないでしょ! 私、今までそんなに手を抜いて作ったことないでしょうが!」
「それが俺の精一杯だ。堪忍してくれ」
「あ、あのねぇ!」
と、そんなやり取りを母さんはニコニコしながら見ていた。こんな風に声を張り上げていても、弟の翔はぐっすり眠っている。
いつもの日常といえば、日常。でも、どこか危険性を孕んでいる。いつこの状況が崩れてしまうのか。それは多分、希も、翠も抱いているのだと思う。
「それじゃ、私明日の準備だけしておくから」
風呂から上がり、二階に行こうとした時、希がリビングから顔を出していた。
「準備って、何が?」
「ご飯とか、味噌汁とか。明日早く出るからさ」
「……俺がやっといてやるから、お前は早く寝な」
俺はリビングの方へと向かった。それを見てか、希は訝しげに頭をかしげている。
「たまにはそれくらいやってやる」
「でも……」
「なんでもかんでもお前一人にやらせるわけにはいかないだろ。一応、これでも兄貴だからな」
少しくらいやってやらないと、そのうち兄貴としてダメという烙印を押されそうだ。まぁ今更と言えば今更なんだが。
「……わかった、ありがと。それじゃ、先に寝るね。お兄ちゃん、おやすみ」
希は微笑んで、俺の肩をポンと叩いた。
「おやすみ」
俺もそう返して、リビングに入っていった。
明日は弁当の分も考えると、米は三合かな。そう考えながら炊飯器に米を入れて、水道水を適当に入れる。そしてリズミカルに、米を研いでいく。この米を研ぐ音ってのは、人によって違いがよく出ているなと思う。ばあちゃんは結構豪快に研ぎ、希はゆっくりと優しく研いでいるような音。母さんは……どうだっただろう。もう、あまり記憶にないかもしれない。
母さんが体調を崩したのは、三女の葵が産まれてから何年かしてからだっただろうか。昔は家事なんてのは全部母さんがしていて、料理だっていつも作っていた。母さんの手料理はばあちゃん仕込みで、味付けはよく似ていた。特にカレーライスがうまかったと思う。親父の好物だと聞いたけれど。
体調を崩してから、今の状態になるまではあっという間だった。たぶん、昔からその兆候はあったんだろうけど、前述したように希にしても、母さんにしても“無理をする”のだ。心配をかけまいと、普段通りの姿を見せようとする。だから、急速に体調が悪くなっていったように見えるだけで、本当はそうでなかった。気付けなかった俺も情けないもんだ。家族なのに、大事な母親なのに。
いつの間にか、家事は俺たち兄妹で分担するようになった。料理全般は希が。片付けや洗濯は翠。掃除は俺と葵。ばあちゃんは今はパートの仕事をしていて、基本的には帰ってきてから家事全般を一緒にしてくれている。そうやって、母さんができなくなったことをみんなでカバーしてきた。
でも、それはどこか緊張感の伴った、不安定な糸で繋ぎ止められているような気がするのだ。いつかそれが、唐突もなく、ぷつんと切れてしまうのではないかという懸念がある。それはきっと、母さんが亡くなる時だろう。そうなった時のことを考えると、どうなるかはわからない。
たぶん、俺が遠くの高校に通おうとしたのも、それが理由の一つな気はする。その“瞬間”が訪れた時、なるべく傷を負わないようにするために。
これ以上、家族での温もりを大きくすれば、失った時の痛みが大きくなるから。
米を研ぎながら、そんなことを考える。家にいると、そういったことを考える時間が増えてしまう。だから、なるべく遅く帰りたいって思うんだ。こういう時間を作らなければ、今のようなことを考えないで済む。
時刻は22時13分。しん、としたリビングで一人だと、なぜだろうか、いつかこうなってしまうのだろうと思ってしまった。