音楽を聴いて思う事は人それぞれだ
店の扉を開けるといつものようにベルが鳴った。しかし、いつもとは何かが違って妙な気分になる。
「あ、美晴ちゃんいらしゃい。」
この声の主は文紘さんで、客の居ない店内で一人グラスを磨いている。そうだな、気分は貸し切り? でも、この間の話を思い出すとさすがに心配になる。
「約束通り来ましたよ。」
何か一緒に注文した方がいいのかな? って考えた時、やっと気付いた。
「あ、そっか。サティだ。」
「当たり。ジムノペディ。よく分かったね?」
カウンター席。彼の目の前に座ると、すぐにおしぼりと水が置かれる。少し意外そうな反応をする彼に私は少し得意な気分になった。
「曲自体は有名じゃないですか。色々BGMで使われてるし、これ幻想的でいいですよね。」
愁いを帯びたピアノの音が、店内に溢れている。その澄んだ音に耳を傾けていると、水の隣に注文していないミルクセーキが当たり前のように置かれ、くすぐったい気分だ。マスターだけでなく、文紘さんも同じようにしてくれる事がとても嬉しい。
「はい、美晴ちゃんスペシャル。」
「あ、どもです。」
早速カップに冷えた手を伸ばして両手で包み込むと、じんわりと温かい。口に運ぶといつもの甘さが広がり、思わず顔が緩む。味も温度もマスターが用意してくれるのと一緒でホッとした。
「そうだ。ねぇ、マスターは?」
そしてこれはいつもと違う。今までは一人だったから、当然といえば当然なんだけど、いつもカウンターの向こうにいるマスターが、いない状況というのは初めてだ。
「あぁ、じいちゃんは出前中。昔馴染みのとこにね。」
「出前? マスターが?」
文紘さんが入った事で自由な時間が出来たのかもしれない……とは思っていたけど、まさか出前? しかも御大自らってどういう事だ? って、でもそれは私の早とちりで、それにはまだ続きがあった。
「もう店に来れなくなっちゃった人の所でね、お見舞いも兼ねてるからどうせしばらくは帰ってこないよ。ついでにちょっとお願い事もしたしね。」
「なるほど。」
……そっか、それなら納得だ。でも誰だろう? 三滝のおばあちゃん最近見てないし、高畠のおじいちゃんも会ってないな。見かけなくなった人達を思い出して結構しんみりしてたのに、その雰囲気をぶち壊して突然晴れやかな声が上がる。
「だからね、今は自由時間。」
ちょ、ちょっとそれ台無しだから。でも私の思いなんかお構いなしに、サボリ宣言をした彼は、涼しい顔で自分のためのコーヒーを注いだ。
「そうだ。ねぇ、知ってる?」
ゆったりとコーヒーを楽しんでいた文紘さんは、思い出したように口を開く。
「この曲は、ギリシャ神話の神々を称える祭りの絵を見て創作されたらしいよ。」
「そうなんですか?」
このジムノペディは、ゆったりとした染み入るような曲で、私の抱いているのギリシャの神々のイメージとは大きく異なる。この神話の神々は、守る者ではなく畏れられる者。もっと荒々しくて、人間くさくて、滑稽で、利己的だ。その気まぐれや、欲、そして嫉妬で人間は多大な被害を被る。でも、抱くイメージは人それぞれ……という事なのだろう。
「夢のイメージみたいな曲だと思ってました。」
そう、私はそんな風に思っていた。
「そっか。でもこれ、全裸で踊る様子を描いた壷の絵らしいんだな。」
むせた。おまけに咳き込んだ。それほどまでに衝撃を受けた。裸で踊るって何!?
「大丈夫?」
「……はい、ものすごくイメージとかけ離れてただけです。」
「美晴ちゃん、変な想像した?」
「はい、過分に……。」
私は口にするのも恥ずかしいほどの乱痴気騒ぎを思い描いた。でもそういえば、古代のギリシャでは神聖な儀式全裸で行う。なるほど、ならばその絵というのも、そんな場面を描いたものかもしれない。
「美晴ちゃんもか、やっぱりそう思うよね?」
彼と二人、顔を見合わせて一通り笑って、一息ついたところで彼は改まって口を開いた。
「昔の壷を見てさ、遥か古に思いを馳せる。この曲は、そのサティの物思う部分なんじゃないかなって、俺はそう解釈してみたんだ。」
彼はカップの中のコーヒーを見つめて語る。
「もう信仰する人のいない、物語として伝わるだけの神々。そして信仰している人々を閉じ込めた絵……そういうのってロマンを感じない?」
そして私を見て優しく微笑む。けど、素直じゃない私の心中は複雑だ。
「全然視点が違うんですね。」
そんな所まで考えられなかった自分が歯痒くて、思わずカップを掴む手に力が入ってしまう……けど、そんな自分も情けなくて、こっそり深呼吸をして力を抜いた。
「そうかもね。音楽家はロマンチストだよね。俺も最初解説聞いた時、頭抱えたんだよ。この考察は、もう一度改めて考えてみた結果。まぁ、当たってるかどうかはサティに聞いてみないと分かんないけどね。」
都合良く勘違いしてくれた彼は、やたら優しい顔をする、思い出し笑い……なのかな? うん、その時の事でも思い出しているのかもしれない。
人の悪い私は、それをからかいたくなったけど、たぶん私には扱いきれない。彼の方がずっと上手だろうと本能的に感じ、からかうのは止めておいた。
やがて曲が終わり、プツプツという雑音の後に訪れた静寂は、とても不自然で落ち着かなかった。同じ空間に変わらない人物。けれど、ただ間に曲があるというだけで、その空間の印象がまったく違う。
男の人との距離感が実はよく分からなくて、とりあえずふざけるようにしてる私には、まだ文紘さんと二人だけって状況は苦手らしい。BGMの効果は偉大だ。
「次、何がいい?」
だから彼の申し出にホッとした。
カウンターから出た彼を私は自然と目で追う。彼は年季の入ったレコードプレイヤーの前に立つと、回転盤の上のレコードを丁寧にケースに戻した。
プレイヤーは長年磨かれて艶の出た木製の筐体。その横に置かれた大きなラックには大量のレコードが納められている。これもマスターが大事にしてるもので、CDすら廃れてきた今もずっと現役だ。
しかし、私も曲を探そうとラックに近付くと、ラックの状況が違っていた。余裕を持って置かれていたレコードは、ぎっちりまとめて押し込まれている。そして、空いた筈のスペースにはクラシックのレコードが見事に埋まっていた。
「クラシック好きなんですか?」
パッケージを適当に引っ張り出して一枚づつ眺めながら、以前スーパーでされた質問をそっくり返してみる。
「まあまあかな? 母が好きでさ、昔は家にいると何かしら流れてて色々と聞かされたな。最近はCDに取って代わられてるから勝手に持って来たんだ。」
「いいんですか、それ?」
「気付いてないんじゃないかな? これどう?」
「好きですけど、喫茶店のBGMじゃないですよね?」
彼が持つパッケージの、指差した場所にはブラームスの『ハンガリー舞曲 第5番』と記されている。激しい情熱と垣間見える弱さがアクセントのドラマチックな曲は『チャップリンの独裁者』でも使われた曲だが……店内のBGMには向かないだろう。
「まあそうかな、俺もこれ好きなんだけどな。じゃぁ無難にピアノ・ソナタ?」
何故か残念そうな言い方をするんだなと感じたが、その理由はすぐに解る。
「でもさ、他にお客さんいないんだから好きなの流しちゃおうよ。」
なるほど。BGMの選曲ではなく鑑賞会のつもりらしい。よくよく見れば、彼が手に取って選んでいるのは交響曲ばかりで……って、あれ?
「そういえば、カラヤンの指揮ばっかですね、」
「うん、ファンだったらしいよ。彼が亡くなった時は、部屋閉じこもったまんま出て来なくって、うちの食糧事情が大変な事になったんだって。俺は小さかったからあんまり覚えてないけど、親父が必死に料理してた姿は記憶にあるなぁ。」
いかにもおかしそうに笑っているが、そんなレコードを勝手に持ち出していいんだろうか? 本当は大事に保管してしてあった物なんじゃないかと、緊張しながら改めて棚を眺めていると、気になる1枚を見つけてしまった。汚したり傷を付けたら一大事だなと思い、私は慎重にかつ丁寧に出来るだけそっと抜き出した。
「マ・メール・ロアだ。」
モーリス・ラベルのマザー・グースを題材にしたピアノ連弾の組曲。なので、もちろんカラヤンでは無い。テレビなんかで所々聞いた事はあるけれど、全部を通して聞いた事はない。
「それ聞く?」
「はい。」
彼に手渡すと、慣れた手つきでパッケージから取り出し、そろりと盤に乗せた。
特有のプツプツという音の後、緩やかにピアノの旋律が流れ始める。最初の曲は『眠れる森の美女のパヴァーヌ』美しくも儚さを感じるメロディーが店の中に溢れ出た。
これはピアノの曲だけど、BGMには向かないなと感じた。こんなにスゴイ曲を、聞き流してしまうなんてもったいない。
丁寧に奏でられるピアノの音は、鳥肌が立つほどの優しさが込められていて、私は言葉が出なかった。それほどまでに今までに聞いた曲とは全然違う。私はピアノなんて弾けないから偉そうな事は言えないけど、同じ楽譜を使っても、人によって奏でられる音が違うという事実に、改めて驚かされた。
そんなレコードをちゃんと持っている文紘さんの母親は、本当に音楽が好きなんだなと……本当にそんなレコード持ち出して良いのか? と、私はもう一度心配になった。
「あのね、最近ここで色々クラシック流してるんだ。」
曲が2つめの『親指小僧』に変わり、湧き上がる水のように螺旋のメロディーが流れ出た頃、文紘さんがまた話し始めた。最初の曲は始めから終わりまで、二人とも黙って聴いていた。私は何も喋れなかった。……ってのが本音だけど。
「何か理由あるんですか?」
「うん、予習のためにね。」
「予習? コンサートにでも行くんですか?」
「外れ。」
まだ棚でレコードを物色していた私が振り返ると、カウンターに戻っていた文紘さんは、二杯目のコーヒーを注いで悪戯っぽく笑った。
「ここで生演奏やってもらう事になってね、お客さんに予習させてんの。」
……そっか、私が予習させられてたんだ。そんな明確な理由があるとは思ってもみなかった。こういう表情が嫌味にならずに似合う人って、看板としての素質があるんだろうなって、彼を見てるとつくづく思う。
「音大生に伝があってさ、食事で釣って週末にやってもらう事にしたんだ。来週の金曜から始めるからよかったら来てね、ぜひお友達と一緒に。」
後半の部分に力がこもっている所が何とも言えない。
「分かりました、声掛けてみますよ。文紘さんのお給料のためにね。」
だから私も、後半の部分に力を込めて返した。
それから二人で大笑いして、笑ってるうちに曲は『パゴダの女王、レドロネット』の、どこかエキゾチックなメロディーに変わっていた。