実は何かが変わったのかもしれない
「美晴、最近楽しそうね? 何か面白い事でも見つけたの?」
朝食時、笑顔で問う母の言葉に、自信作の玉子焼きを口に入れ損なった。
「あら、落ちたわよ?」
分かってる。そんな実況はいらない。
「……えっと、何で?」
母は食後のお茶を啜りながら、楽しそうに私を眺める。その行動にとても嫌な予感がして、その視線から何とか逃れたいとは思うものの、母の席は真正面である。
いや、そもそも逃げる理由なんか無いはずなのに、どうしてこんなに居心地の悪い思いをするのだろう? 追うから逃げる。逃げるから追う? 強いて言えばそんな心境だろうか? ただ実際、こういう時の母は油断ならない。母には娘をからかって楽しむ悪い癖があり、この危機感はその経験から生まれたものに他ならないからだ。
「何でって、美晴が楽しそうだからよ? 美晴は何かに熱中してる時、とても楽しそうなんだもの。」
母は事も無げに言ってくれたが、残念ながら自覚は無い。そうか、見るからに楽しそう……にしてたのか。反省、反省。もっとしっかり隠しておかないと。そんな簡単にばれるようだと、色々な事に支障をきたす。
「えー、おねぇちゃん、今何かの作戦やってんのー?」
諜報員1号こと、3つ離れた妹の和歌奈も、興味津々に話に加わる。
「別に、何もやってないよ。」
作戦なんてのは本当にやっていない。聡太くんの写真と、修学旅行の時の葵写真の販売は近々やろうと思ってるけど、今はまだ準備もしてない。それに、わざわざ作戦名なんか付けてはしゃいでるのは妹の方だ。
でも確かに最近は充実してる。史稀の事を探るのは楽しいし、文紘さんが考えてる『いい事も』とても気になっている。好奇心が刺激される事ばかりで、確かに浮かれてたかもしれない。
「えー、何かやる時は教えてよ~? また、理佐ちゃんと一緒に協力するからね!」
理佐ちゃんは聡太くんの妹であると同時に、妹と同い年の親友だ。ついでに『兄思いの妹』である前に、相当の『お祭り好き』でもある。私の諜報員2号として積極的に活躍してくれているのも、そんな所があっての事だ。友達と一緒に騒ぐのは楽しい。しかも、特別な状況ともなれば更に楽しい……という所だろう。
「はいはい。まったく立派な協力者が居て、私は幸せ者ですよ。」
のりの佃煮の載ったご飯を、妹はとても美味しそうに食べている。私はそれを眺めながらお茶を啜った。まだご飯は少し残っているものの、肝心の食欲の方が母のせいで何処かに行ってしまった。
「さて、私はもう出る準備しなきゃ、いい報告があったら教えてよ?」
壁の時計を見た母は、食器を流しに置いた後、そう言い残して慌しく洗面所に消えた。確かに、私もそろそろ準備をしなければならない時間だ。でも、その前に食器は洗っておきたい
「和歌奈、早く食べちゃって。」
妹を急かして、自分の食器を流しのタライに置き水を張る。じっと蛇口から出る水を眺めていると、自然と溜息が零れた。
基本的に私は母には敵わない。親子であるせいだろう、似たもの同士である事は間違いない。イタズラ大好き、好奇心旺盛、お祭り好きのお節介。母も私もそんな性分だ。
しかし、そうであるが故に、経験値という点に於いては、どうしたって母には適わない。私の行動そして思考というものが、読まれてるんじゃないかと時々感じる。
もちろん母の事は好きだ。感謝してるし、尊敬もしてる。けど、苦手意識が無い訳じゃない。はっきり言って今正に、その苦手意識の真っ最中だ。
……いい報告って何? 母は一体何が言いたいんだ???
しかし、それからも私は史稀を見かける度に声をかけ続けた。母の言葉の謎は、今いくら考えたって分からない。それより史稀を探して、彼の事を知る方が楽しい。
基本的にまずは溜息を吐かれる。それから鬱陶しいとばかりに無視しようとしてくれる。けど負けない、そのくらいの方がやる気が出るってもんだ。
「史稀は何してるの? 私はこれから買い物行くんだけどさ。」
「ねぇ、今日は見える? 見えたらどんなのか教えて。」
「いつまでそうしてるの? まさか一日中とか?」
「史稀ってさぁ、どんな集中力と忍耐力してんの? 私は飽きたら止めちゃうな。」
私は彼にひたすら話しかける。
彼は彼で迷惑そうにしつつも、結局は律儀に返してくれる。
そんな態度が面白くって、私はつい笑ってしまう。
すると彼は、少しむくれる。
そんな他愛の無いやり取りが、楽しくてしょうがない。
「目では見えないものを見ようとしてる。」
「まだ見えない。見えたらいいんだけどな。」
「時間はあるさ、まだ。……今の所はな。」
「集中は切れるまで。時間見て驚く事もあるな。」
何を言ってるんだか分からない部分もあるけど、総合していけばそのうち考えてる全貌が見えるかなって、とりあえずふーんって聞いてた。
そのうちそんなに邪険にされる事も無くなって、溜息の種類も何となく変わった。彼の張ってるバリアも『しょうがないなぁ』ってくらいのレベルまでは落ちたような気がする。何となくだけど手ごたえがあって、ここまで続けた甲斐があったってもんだ! って、私は更に張り切っていた。
そして今日は、学校からの帰りに史稀を見つけた。大体いつもこのくらいの時間に彼を見かける事が多い。
でも今日は、じっと何かを見てるんじゃなくて、家の傍の横断歩道で信号が変わるのを待っている。私は『珍しいっ! これは絶対捕獲だ!!』って肩にかけた鞄を抑えて全速力で走った。だって本当に珍しいんだよ? 彼の日常風景って。
「史稀!」
信号が青に変わる寸前、歩き出すより前に彼のコートの袖を掴んだ。急に走って心臓バクバクだけど、目的を果たした達成感で充実している。
「……またお前か、懲りないなぁ。」
驚いた様子で振り向いた彼は、その言葉ほど呆れた様子は無い。相変わらずの邪魔な無精ひげと、何にもしてない髪の毛。このフラっと出てきましたって感じは、近くに住んでるんだろうか? それともただ無頓着なだけだろうか?
「うん、だって、見かけた、から。」
「見かけても、放っとけばいいだろう?」
「だって、何か、せっかくなのに、嫌じゃん。」
弾む息を整えながらじゃ、切れ切れにしか言葉が出なくてもどかしい。そうしてるうちに信号が変わり、南北方向の車が動き出す。内心悪かったかな? と、思いはしたけど、彼が不満を口にしなかったから、まぁいいかとそのままにした。溜息は漏れてたけどね。「何で?」
「面白いもん。」
即答だ。私の行動基準には『面白い』か『面白くない』かが大いに係わってくる。
「……何だそれは?」
でも私は笑って誤魔化した。こういうのは感覚的なもので言葉には出来ない。言い換えればこれが私の性格で、こうであるからこそ『私』なのだ。
すると彼は、目を瞑って上を向きしばらく黙り込む。
一体何を考えてるんだろう? 私は彼の出方を待つ。どうせまた、大いに呆れられてでもいるんだろうか? しかし、その予想は大きく外れ、もう一度歩行者信号が青に変わった頃に、彼は突然不思議な事を言い出した。
「じゃぁお前、絵のモデルやらないか?」
「はっ? 何?……絵?」
「そう、絵。」
「……ひょっとして史稀は、画家?」
そう問うと、彼は薄く笑いこう答えた。
「なりたいとは思っている。」
そうかそうか、卵なのか。私の中の彼のメモに『画家の卵』と肩書きを追加しておく。私の推測ではないきちんとした情報は、たぶんこれが初めてだ。インデックスの名前だって自称でしかない。
しかし、前途多難ってやつなのかな? 彼の笑みには焦りと自嘲が混じっている。頑張っても報われないのは辛い。でも、その努力の全てが報われるほど、この世界は優しく出来ていない。同情なんてする気はないけど、何となく自分の将来を重ねてしまう。芸術の道は厳しい。母に憧れて、写真の道に進みたいと思っている自分にとって、それは人事ではない。
「普段物や風景を見て描いてはいるけど、人を描いてみるのも面白いかなと思ってな。」
面白い……って私の真似か? でも納得は出来た。絵を描くためにあんなに真剣に見てたのか。
「ふーん、いいけど? あ、ヌードでも描く気?」
「それは興味無いな。」
残念ながら後半の冗談は、冗談とも取ってもらえず、間髪入れずにあっさり否定された。まぁ、肯定されても困るけど、でもその反応は何だか面白くない。別に自分の容姿に自信があるわけじゃなし、そんなに胸がある訳でもない……けど、私にも女のプライドはある。勝手に傷付いただけだけど、心の奥に仄暗い炎が宿るのを自覚した。
「……じゃぁ、どんな絵描くの?」
「目には見えないもの。」
私のテンションが下かろうが高かろうが、彼の答えは以前と変わらない。けど、目には見えない私って何? やっぱり彼の言う事はいまいち分からない。
「一体何を描く気なんだ?」
煙に巻かれた心地がして不満いっぱいの私は、傷付いた分も上乗せして、疑惑の目を思いっきり彼に向けてみた。けれど、彼は私に笑いかけて横断歩道を渡り始める。
「まぁ楽しみにしとけ。じゃ、俺コンビニ行くから。」
気が付けば信号は再び青で、呆然としてるうちに点滅が始まる。
道を挟んだ反対側には、薄く明るい緑色がイメージカラーのコンビニがあって、確か今は何かのコラボの新メニューのキャンペーンをやってたはずだ。彼の姿がその店に消えるまで、何故か私はじっと見ていた。
「……なんだ、史稀も笑えるんじゃん。」
そして私は、本人が聞いてたらたぶん怒りそうな感想を、はっきりと口にした。でもその声は、動き出した車の騒音にかき消されてしまう。
それに、もう落ち着いていた心臓が、また激しくバクバクしだした音も、たぶん騒音が掻き消してくれていたと思う。