笑ったのは店へと向かう橋の上
さて、今日のタイムセールはタマゴと豆腐、火曜だから朝分の魚も買って、牛乳も少なかったから……と、買い物リストを頭に刻みつけながら、夕方の道を自転車でスーパーに向かっている途中、久しぶりに彼を見つけてブレーキをかけた。
一方的に名乗って以降、しばらくの間どこに行っても彼の姿を見かける事が無かった。別に待ち合わせしてる訳じゃないから、ただタイミングが合わなかっただけだろう……とは思っていたけど、どこか物足りないような気がしていたのは間違いない。
十二月に入り空気はまた一段と冷えた。それなのに……彼は寒さに強いのか?
殊更寒い風の吹き抜ける橋の上の反対側で、じっと川を眺めている。西の空は朱から薄紫へと染まりつつあり、あの美しさには心が躍るっていうのに、どうして今日は川なんだ?
でも、今日はさすがに薄着じゃなくてグレーのコート。おまけに首には紺色のマフラーも見えて安心した。もし今日も薄着だったとしたら、今背中に貼ってるカイロを無理矢理にでも渡してしまっただろう。寒がりの私には、今はそれくらいしか押しつけられる物が無い。
しかし、手をポケット突っ込んで、一体何を見ているんだか……。街灯の光を映す川面か、水の流れに身を任せる草か、泳ぐ魚は……見るにはもう少し暗いか。
一人で色々考えてみたって、やっぱり何だか分からない。セールの時間が気にはなるものの、結局私は好奇心には逆らえないんだよね。
彼とセールを一瞬だけ秤にかけて、あっさり自転車を反転させた。考えるまでもない。久しぶりに見つけたんだ、ここで逃してたまるもんか。
身の切れそうな冷たい風に負けず、全力でペダルを漕いで橋の手前の横断歩道に向かう。冷え過ぎで痛む耳は、もう少しで頭痛にランクアップしそうだ。惜しくも間に合わなかった信号を待って、反対側に急いで渡る。そして速度を緩め、彼の側で自転車を止めた。
「久しぶり。ねぇ、名前は何ていうの?」
自転車に跨ったままいきなり声を掛けると、彼はこちらを目で確認して溜息をこぼした。またかという態度は少々面白く無いものの、覚えてくれてて良かったと思う。
彼は川面を眺めたまま、諦めたように口を開いた。
「しき。」
そして私は呆然とする。こんな突然で強引な質問に、あっさり答えが返ってきて拍子抜けしてしまった。もう少し、こう……一人で一方的にウダウダと突付き回す事を想定してのジャブだったのに、こうもすんなり答えてくれると後の予定が完全に狂う。けど、『しき』って何?
「しき? それはどこの部分? 名字? 名前?」
訊いといて何だけど、『しき』って名前はあるのかな? いや、でも実は日本の人じゃなかったら、そんな名前もあるかもしれない。
こっちは既にフルネームで名乗っているし、どうせなら両方聞き出したい。別に悪用しようとかって訳じゃ無くて、彼だやつだと不確かなのばっかじゃなくて、きちんと呼び名を決めておきたい。
「自称。」
「はい? 自称って何? 本名は???」
じ、自称って、どちらでも無いってどういう事だ? 私は適当にあしらわれただけなのだろうか?
「俺には不釣合いらしいから、使ってない。」
いや、別にあしらわれた訳では無いらしい。彼は目を閉じ溜息混じり。相当浸りこんでる感じか? けど自分の名前が嫌い……とかいうのでも無さそうだ。不釣合いとはどういう事だろう? 私の印象としては、立派過ぎる名前を付けられていたとしても、それに負けるような外見だとは思わない。うん、ひげは相変わらず邪魔だと思うけど。
じゃぁ逆? 珍名で気に入らない? いや、それだと『不釣合い』という表現にはならないか。
うーん、もし苗字を拒否するのであれば、家? …そうだな。家族と何か問題があるという事かもしれないか……けど名前も、ってのは何だろう?
「……じゃぁ、『しき』ってどんな字?」
「歴史の『史』に、『稀』」
どうした? 面倒そうな顔してるくせに、これも素直に答えてくれるじゃないか?
うーん、『史稀』か。ペンネーム、ハンドルネーム……そのくらいの雰囲気だよな。
「その意味は?」
そう尋ねると、彼……いや、史稀は驚いた顔をして私を見た。よしよし、やっと私を見る気になったな? ほんの少しでも彼のバリアに穴を開けたような気がして、私は内心ガッツポーズだ。そしてたぶん顔は笑ってる。寒くて表情筋おかしいけど、この内心の喜びは隠せていないはずだ。
史稀はしばらく躊躇して、それでも律儀に話してくれた。非常に素直な性格の人間だったらしい。
「……長い歴史の中で、変わったやつが居てもいいだろうって。」
とてもバツが悪そうな彼に、私がまず思ったのは。聞かれて恥ずかしいなら、そんな名前を名乗るな! そして、名乗るんなら自身を持て! だ。中途半端が一番悪い。
とりあえず、その意味から受ける印象としては、彼は彼を取り巻く環境の中で異端な存在である? とか、そんな所だろうか?
「……笑うな。」
意外と単純なネーミングセンスに、思わず笑ってしまった私にすかさず苦情が申し立てられる。
「悪い、つい。」
「つい何だ?」
大分薄暗くなって、はっきりとは見えないが、以前のような無表情ではないらしい。もし今が明るければ、赤い顔が見られたかも知れない。そう思うと非常に残念だ。
「いや、単純だなって。」
「うるさい、余計なお世話だ。」
「うん、私お節介だもん。でもさ、名乗るなら堂々とすれば?」
「……変なやつだな、お前。」
その声はやや笑いを帯びて、また少し穴を広げた気がして心が躍る。
「うん、よく言われる。でも一つだけ訂正しとく。お前じゃなくて『美晴』。私には大垣美晴っていう名前があるの。」
たぶん名前を覚えてくれてはいないだろうから、念を押すように二度も名乗った。この前は、印象さえ残せればそれで良かったから、どっちでも良かったんだけど、今度はさすがに覚えて欲しい。
「そういえば、前にもそう言ってたな?」
ほーら、やっぱり覚えて無い。
「仕方ないなぁ。み、は、る。だからね? 今度は覚えといてよ。」
「さて、どうだろうな?」
「それと。……史稀も十分変なやつだから。」
私の中での史稀はこれで確定している。人の事は言えないんだぞ? それにしても、彼の言葉の雰囲気が急に柔らかくなったような気がする。
「お互い様かよ……。」
ほら、軽口が出た。だとしたら嬉しい。
「そうなんじゃない?」
私があっさりそう答えると、彼は驚いた事に笑い出した。冷笑とか苦笑とか、ましてや微笑なんてものじゃなくて、失笑……だよね、これ。
とにかく、何でそこまで??? ってほど笑ってくれた。
ひょっとして私は、バリアに穴どころか、中にまで進入する事が出来たのだろうか? ずっと不機嫌だった彼は、もっと取っ付き難いと思ってたのに、予想よりも遥かに親しみ易いタイプなのかもしれない。
『予想外』
私はその言葉を、彼の印象に付け加えておいた。