突然の訪問者
土曜の朝、8時半を過ぎた辺りの早い時間に、訪問者を継げるチャイムが不意に響いた。しかも音の種類はロビーじゃなくて玄関から鳴らしたものだった。
誰か出てくれるかな? って見回せば、母さんは先日買った食洗機に洗う食器をセットしてて、妹はソファのテレビが一番見やすい場所に、ドーンと陣取って動く気なんか絶対無さそうだった。
……はいはい私が行きますよ、行けばいいんでしょう? 私は渋々飲みかけのコーヒーをテーブルに置くと、壁のインターフォンに向かった。ちなみにあのコーヒーは半分牛乳で甘いんだ。
しかし、こんな早くに一体誰だろう? 回覧板ならチャイムなんか無しで、新聞受けに突っ込まれるはずだ。
「はい? どなたですか?」
『あ、私すぐ下の階の宮原と申しますが、美晴さんはいらっしゃいますか?』
すぐ下と言われて一瞬怯んだ。そして、私が出て良かったと心底思った。声が女性なのと、その女性が私を名指ししてきた事が、今ひとつ整理が付かない部分だけど、すぐ下と言えば史稀の部屋になる。
玄関先からなのでモニターには声の主の姿が映らない。今動揺してる自分がとても不思議でたまらない……けど、引け目なんだと納得させた。だって史稀には会わせる顔が無いのは事実だからさ。
「……私ですが、ちょっとお待ち下さい。」
「おねぇちゃん、誰?」
ボタンを押して通話を切ると、タイミングよく妹が尋ねてくる。動く気は無いくせに興味だけはあるらしい。でも残念ながら誰なのかってのは私も知らない。あ、そういえば、今の声、以前に聞いた事がある。私の記憶が間違ってなければたぶん声の主は……けど、もちろんそれは確信じゃない。
「さぁ? 下の人らしいよ。ちょっと玄関出て来るから。」
だから私は事実だけを言ったんだけど、予想外の過剰な反応に吹きそうになった。
「えっ、ちょっと、ねぇっ! 苦情来るほど騒いでないよね?」
確かに騒音はマンションの宿命だけどさ、よく下にも注意書きが貼ってあるし。でも絶対にそんな用件なんかじゃない、それだけは断言出来る。
それにしてもオロオロしている妹は微笑ましくて相当可愛い。普段なら『苦情かもね?』って騙してたかもしれないけど、さすがに今の私にはそこまでの余裕は無かった。
「何の用かは分かんないけど、多分それは違うから。」
「何で分かるの?」
この質問も難しい。だから私は曖昧に笑って誤魔化して玄関に向かった。……説明は色々面倒だからパスだ。
扉を開ける前に深呼吸を一回……二回。そして気合まで入れた。さあ来い! 一体何の用だ!? 史稀のお姉さんなんだろう?
緊張して扉を開けると大人の女性がいた。史稀はいなくて、一人だけだ。記憶通りのショートボブで、しっかり化粧のしてある顔は、切れ長の綺麗な目が微笑んでいる。淡いブルーのセーターの上に、ベージュ色の薄手のトレンチコート。下は黒のパンツでパンプスも黒かった。
しっかり着こなしてる事や、私より背が高いというのもあるかもしれないけれど、ただ真っ直ぐ立ってるだけで、『格好良い』と思わせる雰囲気のある人だ。
「はい? 何の御用ですか?」
やっぱり、前に見掛けた史稀のお姉さんで間違いはなさそうだ。理由に心当たりは無いながらも、ほんの少しホッとした。正直な所、彼女だとか言う人じゃなくて本当に良かったと思っている。やましい事なんか無いけど……面倒な事は勘弁して欲しい。
「あー、本当だ若い~。さすが高校生よね。」
「っ!?」
びっくりした。突然目の前の女性に頬っぺたを突付かれた。おまけにニコニコ笑顔で何故か勝手に納得している。
「……あの? 何なんですか一体?」
いきなり出鼻を挫かれた。断りも遠慮も無く触られるなんて、普通考えもしないだろう?
「あら、ごめんなさい。私は下の部屋の宮原芳彰の……姉の宮原茜です。」
尋ねるまでもなく史稀の姉である事は確定した。史稀のフルネームまで聞いてしまった。しかし、目的はさっぱり分からない。悪戯っぽい笑顔からも丁寧に会釈をする態度からも、肝心な事はさっぱり窺い知る事は出来なかった……っていうか、とても強敵だという予感しかしない。
「はじめまして、大垣美晴です。……で、あの、どういった御用でしょうか?」
「御用?……そうねー、私あなたがどんな子なのか見てみたかったのよね。」
笑顔で言う言葉はどう考えでも本音だ。包み隠す気の無いこの言葉に、逆に私は判断にも対応にも困る。
「……えーと、どうしてですか?」
「もちろん好奇心よ。もっとお話したいから、どこか外で良いかしら?」
「……はぁ、私には特に話をする気が無いんですが?」
「大丈夫よ。お金なら私が出すし、私は美晴ちゃんの事知りたいのよねー。あ、美晴ちゃんにも芳彰の事もいっぱい教えちゃうわよ?」
「いえ、結構です。」
「えー、美晴ちゃんは釣れない子だなー。あ、出るのが嫌なら、私上がらせてもらっていい?」
彼女の笑顔は崩れる事がない。苦手だとかそんなレベルをあっさり超えて、既に恐怖を感じる。Noの効かない強引な彼女に、私は頭を抱えたくなった。
たぶんだけど……この人の言葉は全部計算だ。こんな人を家に上げたら、どんな事になるか想像もつかない。ある意味母さんにも似たタイプだけど、それ故に母さんが見方に回ってくれるとは限らない。
それ所か私は誰にも史稀の事を話してないんだから、まず『史稀人は誰?』って所から始まるのか。史稀が誰で、どういった間柄なのかって事の一応の説明が無いと、史稀のお姉さんだっていう説明すら出来ない……。
「じゃぁ、出かける準備をしてくるんで、少し待ってて下さい。」
「はーい、待ってます。」
……もう全部面倒になった。抵抗も、言い訳も、家族への説明も。彼女がどうしたいのかも分からないし、断っても無駄だったんだ。私が素直に付いて行けば、きっとすべて丸く収まるんだろう!?
扉を閉めてすぐ、私は盛大な溜息を吐いた。言いようの無い敗北感でぐったりしていた。本当に何あの人? 史稀のお姉さんって一体何者だ???
年の差ってだけじゃない、何か大きな隔たりがあった。遠慮? そうか、遠慮ってものが完全に抜けてるんだ。あの人にはまったく引く気が無い……って、私が折れるまで、あの人はどこまでも攻め込んで来るって事か? 無理だ。どうやったって勝ち目がある訳が無い。
「おねぇちゃん変な声出してたけど何? 誰だったの?」
妹が不安そうにして、廊下をこっちに向かって来ていた。
「んー? そうだな……魔女裁判?」
「何それ?」
「本当に、一体何なんだろう? ……私もよく分かんない。」
「何なに、ねぇ、怖い人なの?」
確かに、怖いよあの人。でもこうなったら無理やりにでもポジティブシンキングだ。史稀の事を教えてくれるって言ってるんだから、しっかり教えてもらおうじゃないか。
何故か彼は私の事を色々知ってる。たぶんだけど、何となくそんな気がしてた。そしてあのお姉さんもだ。
本人が話したくなさそうだから、今までこっちからは聞かずにいたけどさ。でも、向こうがその気なんだから遠慮は要らないよね?
「大丈夫だよ、ただ強引なだけだから。それよりちょっと出かけてくるから。」
「へ? さっきの人と?」
「そう。」
「ねぇ……大丈夫? 変な事に巻き込まれてないよね?」
妹の健気な言葉が嬉しくて、私は思わず抱きついた。
「大丈夫だって。あの人は知人のお姉さんだから。」
「何? おねぇちゃんどしたの???」
「ううん、心配してくれてありがとう。和歌奈の言葉が嬉しかったからさ。」
「そう? でもそんなおねぇちゃん気持ち悪い。」
「……和歌奈、酷い事言ってくれるね?」
「だっておねぇちゃん変だもん。」
うん、そうかもしれない。でもごめん、今はちょっと充電させて。お姉ちゃん『巻き込まれてない』って言えなくてさ……実は少し怖いんだよ。
「はいはい、離れますよーだ。」
これでたぶん大丈夫だ。
自分の部屋に入り、手早くロングパーカーを羽織った。それから携帯と財布と、いつものようにデジカメをポケットに突っ込んだ。
史稀のお姉さんと話するのに、何でこんなに覚悟しなきゃならないのか、そもそもどうして史稀のお姉さんに呼び出されるのか、本当に色々な事が自分でも分からないけど、行くって決めた以上、逃げるなんて事はしたくなかった。それは自分のポリシーに反する事だ。
「じゃ、行って来ます。母さんには適当に言っといて。」
妹にそう言って玄関扉を開けると、やっぱり笑顔の史稀のお姉さんがいた。
「待たせてすみません。」
「ううん、じゃぁ美晴ちゃん、これから何処行こっか? 私朝ご飯まだなんだけど、美晴ちゃんは?」
……駄目だ。最初っからもう完全に、向こうのペースに流されてる気がして、私は顔が引きつりそうだった。