期待と失望と全放棄
「俺だって頑張ってたんだ……やりたい事我慢して、不満ばっかだったよ。成績落とさないようにしてさ、でも、いくら頑張っても出来て当たり前。ずっと兄貴と比較されてばっかでさ。母親の希望の大学入ったのに、当然だって言って喜んでもくれやしない。俺の事はどうだっていいんだろうよ。だから家を出て、でも結局一人じゃ何も出来なくて、だから中途半端なんだろ? どうだ、これで満足か!?」
一気にそうまくし立てると、史稀はそっぽを向いて黙り込んだ。えーと、私そこまで訊いてないんだけどな……。
そこには拗ねた子供が居た。……でっかいけど。
思い通りにならない事に苛立ち、期待した成果が得られない事に彼は不満を抱いてるらしい。
私に言われてもな……正直な所そう思う。言うべき相手を間違えている。けど、その気持ちは私にだって十分過ぎるほど分かってる。
だから私はカメラを置いて彼に近付いた。彼はそれをどこか警戒した様子でこちらに神経を尖らせている。でも私は、そんな事には構わず手を伸ばして頭を撫でた。彼が私にしてくれた事。だけど状況は全然違う。だから私はハッキリ言った。
「そこまで分かってるんなら、どうにかすればいいんじゃないの? それちゃんと言わないと状況なんか変わらないよ?」
飛び出したはずなのに、結局何も変わってないんだ。ずっと不満を溜め込んだまま、何も変えなかったから、今こうして決壊した。
「どうせ俺は、お前みたいにしっかりなんかしてないよ。理由だって情けないさ。」
撫でる手はいきなり払い退けられて、口は情けない言葉を吐いた。……聞きたくなかった。そしてたぶんこの言葉で、私の中の何かが弾けた。
「そんなんだと、あんたの前で泣いた私まで情けないじゃないか。しかも2回だぞ、2回。」
「知るか。」
そんな彼の姿が悔しくて、腹立たしくて、私は再び頭を撫でた。もちろん今度は嫌がらせだ。
「止めろって!」
「嫌だ。」
ショックだった。劣等感でいっぱいの言葉を口にした事が、私と比べて卑下した事が。……腹の底から怒りが湧く。今、一生懸命描いてる事は何なのか? 立場の違う私と比べてたって何にもならない。それに何より、私は立派でも何でもない。
右の手は掴まれて封じられた。だから今度は左手で撫でた。
「しつこいな!」
「あぁ、意地でも撫でてやる!」
払おうとする手を、引っ込めて避けた。二度も同じ手が通用すると思うなよ?
「もう放っといてくれ、お前には関係ないだろ!?」
「それはこっちの台詞だ。私と比べて何になる? 逃げるんなら最後まで逃げろ。それが出来ないなら、せめて前くらい向いとけ!」
「何だよそれは!? 意味わかんねーよ。」
「情けないって事だ!」
「だから、俺は情けないって言ってんだろ?」
「……そういうのが嫌なんだ。」
「悪かったな。」
掴まれてる手に力が加わり結構痛い。でも今はそんな事なんかどうでもよかった。
「……私は史稀に助けられてたんだ。」
彼は何も言わない。頭しか見えないからどんな顔してるのかも分からない。けどたぶん、もうどうでもいい。
「ありがとうとか、美味しかったとか、言ってくれるのが嬉しかったんだ。……なのに、自分は情けないんだって開き直るようなやつだったなんて、ガッカリだ。」
「……知るか。」
苦々しそうに呟く言葉は、私の怒りに拍車をかける。
「悪かったよ。私が勝手に期待したんだ。ずっと邪魔して悪かった。もう帰る。」
掴まれてた手を引き剥がし、私はデジカメを掴んで玄関へと足を向けた。もう二度と来たくもなかった。
「さっき私に言った事、私じゃなくて親に言え。言いたい事は言っとかないと、段々言い難くなるんだ。場合によっては手遅れにだってさ。それと、史稀は私に無理するなって言ったけど、史稀はもっと無理したら?」
振り返らずに部屋を出た。時間は夕方でも外は十分暗かった。暦は春のくせに相変わらず朝夕はしっかり寒い。私は寒いのは苦手だ。だけど頭にきてる今は、クールダウンに丁度良いと思った。
通路から見える東の空には、ほんの少しだけ足りない月が浮いている。ぼんやりそれを眺めると、苛立つ心に何か穏やかなものが沁みてきた。
ちゃんと頭を冷やそう。エレベーターの乗り口まで来た私は、迷わずに『▲』ボタンを押す。呼んだエレベーターに乗り込んでからは『12』を押した。
最上階。見慣れているようで、だけど全然違う通路から、改めて空を眺めた。滅多に来る事は無いけれど、いつもより月に近くなったような気分になれた。
好きなものをを眺めてたからなのか、冷やし過ぎなほど寒かったせいなのか、気持ちの切り替えは早かった。
だけど……今度は、物凄い自己嫌悪に陥った。勢いで勝手な事を言った事を、そして余計な事まで言った事を。ただひたすら後悔した。
支えになってくれた人だから、あんな姿は見たくなかった。思い描いてたイメージを、壊された事が悔しかったって、たぶんそんな所なんだろう。でもそれは、ただ自分の理想を押し付けただけでしかなくて、迷惑以外の何物でもない
おまけにあの言葉は、自分にだって返ってくる。いや、むしろ自分に向けた言葉なんじゃないか? 自分の事を棚上げにして……人の事がが言えた義理か???
いつものように上着も着ずに、ふらりと史稀の所に行ったのが悪かった。出てきた後、帰らずに気分転換に向かったのも悪かった。寒空の下で長い時間、考え込んでたのも悪かった。そんな悪循環の結果、私はしっかり風邪をひき込んだ。
その日の夜は食欲が無くて、何かおかしかったから早めに寝たけど、翌朝目を覚ましたら体が怠くて起き上がれなかった。
結構な熱を出した。数日寝込んでやっと熱が下がっても、すぐには体が動かなかった。……軟弱な体だな。
起きあがれるようになってから、史稀の部屋の新聞受けに手紙を置いた。勝手に怒ってごめんなさい、自分の事棚に上げるような事してごめんなさいって、謝れるだけ謝罪の言葉を紙に綴った。
時間が開き過ぎて、私は彼に……史稀にどうやって会えばいいのか、分からなくなっていた。あぁっもう、本当に本当に自分の事だ!!
手紙なんて、たぶん私が楽になるための手段でしかなくて……そう、分かってるけどやるしかなかった。
あれから、一度も史稀に会う事なく4月に入った。日中の日差しは和らいできたものの、高い場所では結構冷える。7階のベランダにいると通り抜ける風が強くてきつい。やっと治った風邪がまたぶり返すんじゃないかって、嫌な事が頭を掠める。
妹と二人して干している洗濯物が風に煽られて揺れている。寒いけど、乾くのは早そうだ。
手すりの向こうの風景は、随分とピンク色が混じるようになった。こうやって眺めてみると、至る所に桜が植えられている。本当に日本人は桜が好きだな。って、少し呆れてしまう。もちろんそれ以上に大歓迎なんだけどさ。
一年の内でこの時期が一番好きだ。私にとって4月の初め……より詳しくは4月8日。この日は私の誕生日、つまり特別な日があるからだ。
誕生日には、このピンクの花が満開を迎えている。この辺り一帯、いや桜が咲いてる場所全部から、祝われているような気分になれて、一人内心にんまりする。
空も好きだけど桜も大好き。でも、そんな物思いは、妹があっさりと破ってくれた。
「ねぇ、おねぇちゃん、最近お弁当持って行かないよね?」
「……あー、そういえば、そうだね。」
ソックスをピンチで留めながら、私は曖昧な返事をした。そういえばなんてもちろん嘘だ。史稀の所にはもう行けない。……いや、行かない。
もちろん、後ろめたい罪悪感のおかげで足が向かなくて、そして、以前は大きかった『彼の事を知りたい』という興味が、私の中から失せていた。
情けない言い訳で足踏みしている彼に、たぶん私は失望した。だから会いたいなんて思えなかった。
「そういえばって、」
タオルを広げる妹は、探るような目付きを私に向けてくるけど、でも……会いたくないものは、会いたくない。
「もう別にいいやって、思ってるんだ。」
「ふーん、よく分かんないけど、おねぇちゃんはひねくれてるもんね。」
「知ってる。」
釈然としない部分もあるけど、その言葉はむしろ私にとって褒め言葉だ。何でもない返事を返すと、妹は少し偉そうにこう言った。
「そう? でもたぶん、おねぇちゃんは分かってないよ。」
それがどういう事なのか、私には分からなかった。尋ねても『内緒』って、教えてくれなくて……最後には『しつこい』って怒られた。
……分からない。私は何を分かってないんだ???