その原因が分かれば何かが見えるかもしれない
停止液に浸した印画紙を、水の入ったバットに手早く漬けていく。水の中の『写真』になったばかりの紙切れは、セーフライトの下じゃ暗すぎて色がハッキリしないけど……たぶん問題無いだろう。
暗室に篭り、何度も何度もタイマーを鳴らして、ただ焼き増しを繰り返すだけの作業を続けてたら、かなり疲れた。さすがに背中の筋肉が強ばってるような気がする。ちなみにタイマーは、薬品に浸ける時間を計るために使用する。
「おねぇちゃん、印刷終わったよー。」
外から和歌菜の声が掛かる。デジカメの方は終わったらしい。
「んー、ありがと。でもちょっと待って、今は開けるな。」
まだ露光しただけのものもあるから、ここで明かりが入ると台無しになってしまう。
塗れてる写真を乾かすために、全部クリップで吊るし終わってから外に出た。
「よーし、終了。じゃぁ印刷したやつ見せて。」
扉をあけると、すぐそこに妹がいた。
「おねぇちゃんの方も見せて。」
結構な量の束を渡すとすぐに、妹は入れ替わりで暗室に入って行った。私は受け取った写真を、1枚1枚チェックする。うん、良い感じ。そこに写るのはオール為井聡太。さっきクリップで吊るしたのも聡太くんだ。まったくいい人気商品だよね。
「ねぇ、この人誰?」
声に呼ばれて暗室に戻ると、一緒に吊しておいたベタ焼きを、穴が開くんじゃないかってほど眺めていた。
それは史稀を撮ったフィルムの一覧で、ついでだったから一緒に焼いておいたものだ。空を見上げる彼、絵を描いてる彼、横顔もいくらかあるが、基本は後ろ姿だ。そして嫌がらせのように撮った真っ正面も少々ある。
そうか、和歌奈は史稀の事を知らないのか。同じマンションに住んでいても、会った事が無いなんて良くある話……か、すれ違う人なんて特に意識していなければ記憶にも残らない。私だってそうだ。あの日会うまで、彼の事など全然まったく知らなかった。
「それは、今の調査対象。」
言いながらベタ焼きを外して眺めた。あぁ、なんだもう乾いてる。
初めて会ったのも後ろ姿、外で見かけた時も、声をかけた時も後ろ姿だった。私はどれだけ史稀の後ろ姿を見てるんだろう? 分かんなくってイライラして、探ってたらやり返されて……しかも、こいつの前で2回も泣いた。みっともない姿を見られてしまい、恥ずかしいって気持ちはあるけど、今はそれより気分が楽だ。
彼の前ではもう隠す必要が無い……たぶんそんな事なんだと思う。
「何かおねぇちゃん楽しそう。そんなに変わった人なの?」
そう、私を見ながら和歌奈は言った。……私にやけてたかな? その気まずさに思わず笑う。
「うん、まぁとっても変わったやつだね。」
変なやつだけど、私より大人で優しい。
「……でも、何か違う。」
そう、だけど、どこか違和感も感じていた。
「何それ?」
本当に何だろう? 彼の住居環境だとか生活とか、名前も名乗れない理由。不思議な事はたくさんある。けどそれは彼の事情……っと。私は言える立場にない。
「さぁ、まだわかんない。だから今調査中なの。それより明日はよろしく頼むよ? 卒業式で最後の荒稼ぎだからね?」
「イエッサー!! 理佐ちゃんも張り切ってたからね!」
「うんうん、心強いねぇ。」
このコンビのノリの良さは、ある意味最強だ。
「ところでさ、いつも誰にお弁当持って行てんの?」
しかし突然妹の表情が変わる。ニヤニヤした嫌らしい目を私に向けてきた。
「はい?」
「ねぇ、この人の所?」
私の手からベタ焼きを奪い取り、ヒラヒラさせて挑発する。弱味を握った時のあの腹の立つ顔だ。まさかこの手の内容で、自分が妹に向けられる事になるとは思いもしなかった。
「あ、あぁ、あいついつも、碌なもの食べてないから……つい。」
「へー。『あいつ』なんて呼ぶんだ? それにしても同じ人ばっかりだよね。」
確かにそれはそうなんだけどさ。でもそれは、彼という人物を突き止めるためだ。だけど……何か、妹の視線が痛い。
「『つい』なんて怪しいなー。それにほぼ毎日って妙に優しくない? ねぇ、おねぇちゃん? この人の事好きなんでしょ?」
手にしたベタ焼きを突きつけて、妹は私に詰め寄って来る。小さな写真の中で筆を握る史稀に目をやる。確かにこの真剣な姿は嫌いじゃない。好きな事に一生懸命打ち込む姿は好ましい。だけど……好き?
それが恋愛感情なのかと言えば、そんな気はしなかった。謎だらけの彼に興味はあるし、食生活に不満がある。彼の所は気分も楽で、あの場所は安心出来る。だからついお弁当を持って行き、ずっと彼を観察してるんだ。
「たぶん違う。」
その答えに、妹は遠慮なく疑わしそうな視線を向けてきた。
「そう? この人結構格好良いじゃん。」
「そう? でもこのヒゲ邪魔じゃない?」
「……。」
「……。」
結局、二人で首を傾げあったまま、この話は中断された。現像と印刷は終わったけど、まだこれを整理しなくてはいけない。明日の準備は終わってない。
久しぶりにお弁当持って史稀の家。お弁当はテーブルに置いて、私はいつもの指定席、ソファの端っこに座り込む。それからデジカメを手に、彼を眺めた。
いつものように、キャンバスの前には彼がいる。いつもそこで絵を描いてるから、そこは彼の場所なんだ。だから私は絶対そこには座らない。安易に座って良い場所じゃないって、何となく思うから。
ファインダー越しの史稀は興味深い。嫌がる彼を、目の前から撮ってやる反応はもちろんだけど、外で見かける『見えない何か』を見ようとしている史稀。その時の彼と、今こうして絵を描いている後ろ姿は、同じ人物なのに全然違う。
彼が見ようとしているものは、その時は何なのか分からない。けど、私はその方向を一緒にデジカメに収め続けた。そして、向かうキャンパスに描かれていくものとを比べる。 雲を見て、歩き続ける人々を描き。冬の木を見て、春を待ち眠る花を。揺れる水面を見て、音を奏でる者を描いた。
見たままではなく、彼の中のフィルターを通したものを描こうとしているのは分かった。
……だけど、何か引っかかる。
楽しそうにキャンバスに向かう史稀と、彼を臨む位置に在る私。それがいつもの場所で、いつもの過ごし方だ。
「ねぇ、史稀?」
今彼が描いているのは、砂に埋まりかけた時計。液晶モニタ越しに見つめながら声をかけると、筆も止めずに、何だ? と軽い返事が返ってくる。
「本当はどうしたいの?」
しかし、私の言葉で筆が止まる。言葉も無い。
「これだけたくさん絵を描いてさ、この絵はこの後どうするの?」
『史稀』は絵を描くのが好きで、描いてる時は楽しそうだ。でも、その描くものを考えてる時の表情は険しい。
彼は優しくて、おまけに何故かレディーファーストだ。でっかくて、インパクトがある階段愛用者。一般的に格好良いのかもしれないけど、無精ヒゲは嫌い。けど、余計な事は聞いてこないし、彼の傍は居心地が良い。
でも『よしあき』は、自分の名前を不釣合いと言い、自分で考えた名前を名乗る。広い部屋に不自然な一人暮らし。姉が様子を伺いに来て、学校に行ってる素振りも、働いている感じも無い。そして、自分の事を訊かれるのをとことん嫌う。
『彼』について分かった事は、このくらいだ。このくらいだけど……一人の人間としては、やっぱりどこか不自然な気がする。
「親と何かあったの?」
振り向いた彼は、不思議なものを見るような目つきをしていた。
「ある……のはある……けど、何でそんな事を?」
明らかに彼は動揺している。
「そう思っただけ。何となくね。」
彼の抱いている不満がどんなものか、私には分からない。けど、私にも母さんに言えない言葉がたくさんある。時々、全部投げ出したくなる時もある。
だけど実際にそうする勇気は無い。だから私は同じような繰り返しの日々を、些細なイタズラで誤魔化しながらやり過ごしてきた。
私は史稀と出会った事で、少し楽しくなった。これは事実だ。きちんと毎回言ってくれる『ありがとう』と『美味かった』これだけの事が、とてもくすぐったくて、舞い上がるほど嬉しい。
「でも何か、史稀は中途半端な気がする。」
たぶん史稀は、私の出来ない事をやったんだと思う。思い切って全部投げ出して、今ここにいるんだと思う。だけど……そこからが問題なんじゃないか?
私は目を逸らさずに彼をジッと見た。何度か何かを言おうとしていたが、その度に言葉を飲み込む。だけど……ちょっとマズイ事になったかもしれない。
「そうだよ、俺は中途半端だよ。」
……あ、ひょっとして開き直った?