分かってるのか分かってないのか?
今日は3月の14日、中学の卒業式が近付いてきた。だから学校が終わるとすぐに私は急いで帰ってきた。まだその準備が終わってなくて忙しいんだ。
けど、マンションのエントランスに入ったすぐの所に史稀がいた。身長のある彼は探さずとも目に付くし、見慣れた姿は間違えようがない。
黒いシャツの上にブルーのブロックチェックのシャツを着て、壁にもたれて立っていた。今日は珍しく髪をセットしてるくせに、無精ひげは相変わらずだ。彼は私に気付くとすぐに、声をかけて寄って来た。
「あ、おい。お前ちょっとうちに来い。」
……少し苛つく。いつも『おい』とか『お前』ばかりで気に入らない。名前なら、もうずーっと前に教えてあるのに、名前で呼ばれた事は未だに無い。
「『おい』でも『お前』でもない。私には、大垣美晴って名前があるの。」
「それは分かってるから、いいから来い。」
何処が分かってる? 何がいいんだ? 私は全然良くないっての。
写真の準備で忙しいってのに……。聡太くんは今年で卒業してしまう。だから最後にこう、パーっと妹達に売ってもらって荒稼ぎしよう! と、そういう算段だってのに。
以前のように階段に向かおうとするのを、エレベーターのボタンを押して阻止し、壁に寄りかかってその到着を待った。史稀も並んで寄りかかるので、隣を見上げて口を開いた。
「今日は忙しいから、お弁当持って行かないって言ってたよね?」
ほぼ毎日のように続けていたお弁当も、準備が終わるまではお休みだって言ったってのに、一体何の用があるんだろう?
「あぁ、だからこうして待ってたんだ。」
とは言うものの、彼はそのまま黙り込む。到着した誰も居ないエレベーターに先に乗り込んで、知らん顔して『7』のボタンを押そうとしたけど、横から伸びてきた手に『6』を押された。……チッ、失敗か。
「……それ何?」
モーターと空調の音が響くだけの狭い空間で、彼は遠慮がちに訊いてきた。
「何が?」
「紺色の袋。」
「あぁ、今日貰ったバレンタインのお返し。」
私の手にしたやや大きめのビニール袋は、担任の岡崎先生からの戦利品だ。……中身じゃなくて、袋がね。
この袋には、先生の奥さんが作ったクッキーが入っていた。もともと返す気なんか無いって言ってたのに、「生徒は大事に」って渡されたらしい。けど、自分がお返し配って回るのが面倒だからって、私に「配っといてくれ」と押し付けてきた。
何だかんだ言って、あの先生は奥さんに弱い。おまけに新婚さんの愛妻家だ。そこを適度にからかうのがまた良いんだよね。もちろん、『適度に』ってとこが大事だけど。
学校中をうろうろするのは骨が折れたし、代理人が持ってきた理由を説明するのは手間で、しかも何となく気まずい。それが×6回ってのは相当堪えた。
でも私には拒否権は無いんだな、これが。
先生は、私が学校で友人の写真を売りさばいているのを知って、黙認してくれている。「別に問題起こさなければいいんじゃないか?」と、言っているが……たぶん面倒なだけだ。だから代わりにこうやって使われる。けどこれ……たぶん脅迫って呼ぶよね?
その空になった袋に貰ったお返しを入れてる訳だ。お返しいらないって言っといたのに、皆律儀に返してくれて、困ってしまった。逆に変に気を使わせて……悪い事した気がして、何だか私は心が痛い。
「……ふーん。」
自分で質問してきたくせに、史稀の返事はそれだけだった。しかもその声には心が入ってない。もちろんそこから特に話が膨らむ訳でも無く、残りの時間は無言のまま6階に到着した。一体何なんだその態度は?
エレベーターを下りると、先を行く史稀の後を仕方なくついて歩いた。鍵を回して開けてくれた扉を先にくぐると、いつものように油絵の具の独特の匂いがする。
私は勝手に奥に上がり込み、リビングに荷物を置いて、まずアトリエを覗く……これ、もう習慣だな。
部屋の中央に置かれたイーゼルには、真っ白いままのキャンバスが立て掛けられていて、私は首を傾げた。
「あれ? 昨日の絵は?」
昨日までは、波に漂う林檎の絵が置かれていて、タイトルは『受験生』だと言っていた。
「終わり。」
声のした方を向くと史稀は私より少し左の方向を指差していた。つられて横を見ると脇のテーブルには、確かに見覚えのある絵が置かれている。ただし昨日とは違い、右下の波の部分に白で『Shiki』と名前が入っていた。
あぁ、この絵を見せたかったのか? と、思ったんだけど、そうでもないらしい。今日は解説が始まらない。今まで完成した後は色々と思いを語ってくれてたのだが……一体どうしたんだろう?
彼はダイニングテーブルの向こうに立ったまま、全然近付いてもこない。うーん、この絵は先に少し聞かされたから、それで終わりのつもりなんだろうか?
「次は?」
「考え中。」
……という事は、今日はまたどこかで突っ立ってたんだろう。まだまだ寒いってのに、まったく大した根性だ。
「ねぇ、筋肉あると寒くないの?」
「いきなり何だよ、それは?」
「だって、史稀は確実に私より筋肉質だし。体の作りが違うと体感温度が違うのかな? って。」
「……そんな事はいいから、これ持って帰れ。」
ただの素朴な疑問なのに、つれないヤツだな。明らかに呆れた態度の彼が言う『これ』とは、弁当箱代わりのタッパーが入ってる……はずの紙袋だ。彼はそれを、ダイニングテーブルの上にポンと置いただけだった。
「えっ? まさか……用ってそれだけ?」
ちゃんとタッパーを洗って返してくれるのは嬉しいんだけど……これだけのためだけに、連れて来られたのかと思うと、とても、非常に、腹が立つほど時間が惜しい。
何度も言うが、私は忙しいんだ。そして、こんな事のためにわざわざ下で待ってたなんて、どう考えても彼はおかしい。下で渡してくれたっていいだろう?
「……あぁ、それだけ。」
何だろう? 色々と違和感がある。いつもは私が強引に押しかけてるだけなのに、わざわざ下で待ってた事。そのくせいつもより口数が少ない。おまけにいつもより距離が遠い。そして今の彼は、どこかソワソワしているように見える。
今日という日を考えてみると、思い当たる事が一つある。自分がやった事を思い出して袋の中を覗いてみると、カラフルなマカロンの入った透明な袋と、カスミ草のブーケが入っていた。
史稀もか……そう思うと本当に落ち込む。しかも彼のが一番お金が掛かっていそうだ。
「……お返しいらないって言ったのに。」
「日頃の事もあるし、そういうわけにはいかないさ。」
その顔は大人の余裕か? 優しげに微笑む様は、自分がいかに子供であるかを思い知らされるようで、かなり堪える。
……やっぱりこういう事すると気を使わせちゃうんだな。今日何度目かの自己嫌悪に陥りかけると、いつのまに近付いたのか、すぐ側で声がした。
「そんな顔するな、俺の気持ちだ。本当にいつも弁当はありがたいと思ってるんだ。」
くしゃりと頭を撫でられるのは、悪い気がしないけど、髪の毛をぐしゃぐしゃにされるのは嬉しくない。
「……カスミ草も?」
私は、今初めて男の人から花束を貰った。カスミ草オンリーだけど、ピンクと白の包装を、ラベンダーのリボンで留めた小さなブーケは可愛らしい。
「あぁ、花言葉が『感謝』らしいから。」
「……そう、うん、じゃぁありがとう。貰っておくよ。」
へぇ、そういうの気にするんだ。……細かいな、こいつ。
結局、マスターと文紘さんのお返しも、母経由で貰ってしまった。あげた人からのお返しは、これで見事にコンプリートだ。
……来年は、本当にもう少し考えよう。
一方妹は、まともなのが3つと後は駄菓子がいくつかだったらしい。くれない人が結構いたって、写真の準備をしながら大騒ぎしてくれた。
絶対渡す時に「お返しよろしく」とか、余計な事を言ったんだろうな。和歌奈ならやりかねない。
翌日の昼休み、お弁当を食べてる時に葵に訊かれた。
「ねぇ、今日機嫌良いよね。何か良い事あったの?」
「何が? 別に普通だと思うけど。」
意外な事を言われ、私は思わず箸を止めた。いたって普段通りのつもりなのに、一体何が違うと言うんだろう?
「でもさ……それ言ったら葵だって機嫌良くない?」
私がどうだとか言う前に、葵は不思議なくらい機嫌が良い。朝の待ち合わせの時からニコニコで、おまけに今日はまだ怒ってない。普段の彼女は、些細な事でよく腹を立てて不機嫌になる。
「そう? そうね……昨日可愛いクマのマスコットを貰ったのよね。」
「あぁ、それ聡太くんから?」
「うん、そうだけど……何で分かるの? 美晴知ってたの?」
「別に知らないけど、当ててみただけ。」
分からない訳がないだろう? 昨日は何たってホワイトデーだ。堂々とプレゼントを渡せるチャンスを、彼がみすみす逃す訳がない。彼はひどく奥手だけど、実は結構計算高い。葵が喜びそうなものを頑張って選んだんだろう。
葵は結構可愛いものが好きだから……ファンシー&ラブリーなもので溢れた店を、彼がうろうろ探し回る姿を想像して、私は思わず笑ってしまった。だって可愛いし、何か彼のそんな姿は妙に似合う。
「何よ急に、そんなに笑って?」
「いや、だってさ。……もう、ごちそうさま。」
相変わらず気付いてもいない葵の様子もおかしくて、私の笑いは止まりもしない。笑い過ぎて相当苦しい。
「は? いきなり何? まだ残ってるのに、もう食べないの?」
「ううん、まだ食べるに決まってるじゃん。」
もちろんお弁当じゃなくて、二人の仲の良さに『ごちそうさま』なんだってば。