『史稀』と『よしあき』それとチョコの日
史稀は私の作ったご飯を、美味しそうに食べてくれる。食べたら『ごちそうさま』『美味かった』って、必ずきちんと言ってくれる。無精ヒゲは相変わらずのクセに、そんな所だけはやたらと律儀だ。
だから私は嬉しくって仕方が無い。明日も頑張って作ろうって気合いが入るし、授業中にメニューを考えてしまう事だって増えた。
それにしても、何であんなに律儀なんだろう? 本当に美味しいって喜んでくれてる……のなら嬉しいけど、言われ過ぎても疑いたくなる。親の躾が厳しかった? 習慣? だったら納得かな。自分の名前が『不釣り合い』だと言ってたくらいだ。よっぽどしっかりした家なんだろう。
彼の傍にいると『史稀』の事は色々分かってきた。私はいつもソファに陣取り、今みたいに絵を描いてる背中を眺めていた。
彼は本当に絵を描くのが好きで、その集中力は呆れるほどだ。キレイ好きでもあるらしい。アトリエ以外はいつもキレイだ。閉まったままの部屋はさすがに開けないし、物が少ないって事もあるけど、台所やトイレだっていつもキレイだ。図体はでかいけど、好きな食べ物はハンバーグとかウインナーで子供っぽい。コーヒーはブラックで、お酒も煙草もやらないらしい。……って、そういえば何歳なんだろう? 私が勝手に20を越えてると思ってるだけで、実はまだ未成年だったって可能性だってある。私はとりあえず、駄目もとで訊いてみた。彼はペンネームを名乗るだけあって、自分の事を喋ってくれない。
「ねぇ、史稀って何歳?」
「ん? 21。」
あれ? 予想外。これにはあっさり答えてくれるのか。……よし、調子に乗って訊けるだけ訊いてみよう。
「じゃぁ、お酒飲んだりしないの? ここでそんな姿見た事無いんだけど。」
「……飲まない。」
「何で?」
「別に飲みたいと思わないから。飲まない。必要ない。」
確かに。それは理にかなった答えだと思う。飲みたくないものを、わざわざ無理に飲む必要はないけど……何で、そんなにかたくなな言い方をするんだろう?
「ねえ、”よしあき”ってどういう字書くの?」
「それは聞くな。」
チッ、これは駄目か。
と、残念ながら『よしあき』についてはよくわからない。分かってるのは、家族と色々ありそうな事と、姉がいる事。そして、その姉の車が高そうって事くらいか。
こっちはなかなか……彼の正体を知るには、まだまだ先が長そうだ。
そうこうしているうちに2月になった。1月は行く、2月は逃げる……昔の人は上手い事を言ったものだと思う。気が付けば後少しで自分……と、妹まで受験生だ。まったく、考えるだけで気が重い。
だが逆を言えばまだ2月。2月と言えばバレンタインが欠かせない。世の中の色付いてる女の子達とは楽しみ方が違うけど、こういうお祭り騒ぎには、乗っかった方が面白い。
前日の13日。夜のうちにチョコチップマフィンをいっぱい作っておいた。おまけに妹のチョコまで大量に作らされた。
湯煎で溶かしたチョコを、アルミの型に流すだけだったんだけど……数が多くて面倒だったんだ。妹は義理チョコを大量に配り、お返しに期待する作戦らしい。撒き餌にどれだけ鯛がかかるんだろう? 私のマフィンも数は多いけど、日頃の感謝と迷惑料と、それに自分が楽しむためにやる事だ。お返しなんか期待してない。
マスターと文紘さんのは母さんに預けて、先生と葵、写真のお得意様の後輩達には学校で渡した。聡太くんと航、ついでに朋花ちゃんには、皆葵の家に集まって勉強してたから、帰りに寄って渡してきた。後残るはもう一つ。
紙袋の中の、弁当箱代わりのタッパーの上に、マフィンの袋をちょこんと置いた。
-史稀へおすそわけ。それと この間泣いた事はきれいさっぱり忘れてくれ!-
って書いたメモも、マフィンの下に挟んでおいた。さて、史稀はどんな反応をしてくれるだろう?
流しを片付けながら結果を色々想像し、私はたぶんニヤついていた。
史稀の部屋の扉を引くとあっさり開いた。良かった、彼はいるみたいだ。
ふわりとコーヒーの香りがする部屋に、私は勝手に上がり込む。リビングまで来ると、彼はいつものようにキャンバスの前にいるのが見えた。コーヒー片手にじっと絵に向かったままで……あれ? ひょっとして私気付かれてない? いくらなんでも、それは集中し過ぎだ!
「あー寒かったー。」
わざとらしく来た事を主張して紙の袋をテーブルに置いた。けど、特に反応は無い。これでもまだ無視する気か? それならこっちにもやりようがある。今は描いてないから、多少の事は平気だろう。
イタズラしてやろうと近付いてみると、目に入った絵には名前が入っていた。
「あっ、名前入ってる。完成?」
前に絵の説明をされた時、『これで描き終えたと納得出来たら名前を入れる』と言っていた。完成した絵はこれまた不思議なもので、何の絵なのかは分からない。
途中経過もずっと見てたのに、何故こうなのかは分からない。何描いてるのか尋ねても、まだ教えないってはぐらかされた。お預けくらった状態で、ずっと今日まで放置されてたんだ。
土の中に血管みたいなのがたくさんの、赤い丸っこいものがある。そして、その中に何故か菫が咲いている。
うーん、やっぱり分からない。でもだからって、イタズラを止めようなんてつもりはない。それ所か、この分かんない絵は、余計に私を苛つかせてくれる。
「あぁ、終わりもうこぉっ!?」
だから私は、さっきまで洗い物をしてよーく冷えてる手を彼の首筋に当てた。何かを言いいかけてたようだけど、私は笑うのに精一杯でそれ所ではない。
「冷てぇよ!! 小学生かお前は!?」
あ、コーヒーこぼれたのはごめん。慌ててティッシュで拭いてるけど、でも無視しなきゃわざわざこんな事しなかったんだよ?
「……お前、今まで家に居たんじゃないのか?」
「あぁ、洗い物してそのまま来たから。やっぱ温めずに来て正解だった。」
こんなにいいイタズラに利用出来たんだもんね。両手ヒラヒラさせて少し挑発してるってのに、彼は溜息を吐いただけで怒らない。いつも思うんだけど、何で怒らないんだろう? 私はかなり調子に乗った事をしてるんだけどな。
そんな事を考えてると、もう一度溜息を落とした彼が、急に私の手を掴んだ。
「本当に冷たいな、余計な事しなくていいから温めてから来い。」
びっくりした。
「……あ、ぁうん。」
怒られないけど心配されて、私はとても戸惑った。彼のやる事は私の予想と時々違う。それに今、ものすごく胸がドキドキしてる。しばらく温めるように両手で包まれて、今度は急に解放される。それから飲みかけのコーヒーカップを渡された。
頭の中が『?』で埋まるほど意味が分からなかったが、次の言葉でやっと意味を理解した。
「これでも持っとけ、温まるだろ?」
あー、そういう事ですか。
「別にいいのに…。」
「俺がよくない。また冷たい手で触られたくない。」
へー、そういう事ですか……。
「……じゃぁ、手を背中に入れるのは?」
そう言われると、つい期待に応えたくなる。
「……駄目に決まってんだろ?」
彼は一瞬怪訝な顔をしたけど、すぐに否定してくれる。
「チェッ。」
私は少し距離を取って口を尖らせた。でもこれが私の予想通りの展開だ。近いと仕返しされるかもしれないし、それに、もしまた掴まれたら、きっとさっきみたいにドキドキしてしまう。私は男の人にも、おかしくなる自分にも慣れてない。
「何が『チェッ』だ。」
今度はちゃんと悪態を吐いてくれた。そう、そういう反応じゃないと駄目なんだ。
結局マフィンの反応は見てない。今日は史稀といると、どうにも調子が狂ってしまう。だから早々に退散してしまった。残念だけど、自分がコントロール出来なくなるよりはいい。
それに……何か私、渡すの段々恥ずかしくなってきたんだよね。
妹はチョコを全部配ってきたらしい。一応手作りとは言え、思いっきりボランティア的な、『義理です!』ってチョコに、一体どれだけのお返しが期待できたものか。
……あ、史稀へのメモにお返しいらないって入れるの忘れてた。
使いまわし?(汗)
短編エピソードも、美晴目線で混ぜ込みました。